2024年5月12日日曜日

 小林謙一 2002「韓半島出土の倭系甲冑」『古代東アジアにおける倭と加耶の交流』

  小林謙一 2002「韓半島出土の倭系甲冑」『古代東アジアにおける倭と加耶の交流』


日本列島における重装騎兵装備の出現 は、早くても 5世紀後半だという。桂甲が日本列島の広範囲に普及している状況を 考慮すれば、新たに導入された騎兵装備には、重装騎兵が含まれていた

2024年4月25日木曜日

蝦夷訳語

 元慶5年(881)5月3日条には、

「陸奥蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野」

の記事が見える。この日、物部斯波連永野は外従五位下を授けられた。そもそも物部斯波連は尚和7年(840)3月12日条に、

*物部斯波連宇賀奴

の名が認められる。しかも彼は「夷」とあるので、もともと蝦夷系住民であった。この宇賀奴との永野との間に血縁関係があったとする証拠はない。だが物部斯波連が蝦夷語に親しい一族であったとするば、2人の濃密な血縁関係を否定するには膨大なエネルギーを要するだろう。

2024年4月24日水曜日

江戸藩邸リスト

 『沙羅書房古書目録』第104号、304頁に、

「鶴岡より江戸道中絵画」(仮題)安永7年写し

が出品されている。原本は未見であるが、鶴岡から江戸中屋敷までの道中を記述するらしい。

グーグルの計算では、その道中は475キロ。

当時の鶴岡藩江戸藩邸は、

下屋敷(台東区浅草橋1丁目)→中屋敷(千代田区神田和泉町)→上屋敷(千代田区大手町1丁目)

であった。

なお、江戸藩邸の場所を知るに、

大名屋敷 – Google Earthで街並散歩(江戸編) (sannpo.iobb.net)

は便利なツールである。

参考資料

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)



2024年4月8日月曜日

新羅郡人沙羅真熊は同一人物か?

 『続日本紀』宝亀11(780) 年5月甲戌条に 武蔵国新羅郡人沙羅真熊等二人の名前を見る。

五月,甲子朔辛未,以京庫及諸國甲六百領,且送鎮狄將軍之所。
 甲戌,左京人-從六位下-莫位-百足等一十四人,右京人-大初位下-莫姓-真士麻呂等一十六人,並賜姓-清津造。左京人從-六位上-斯臈-行麻呂,賜姓-清海造。右京人-從七位下-燕-乙麻呂等一十六人,並賜姓御山造。正八位上-韓-男成等二人,賜姓-廣海造。武藏國新羅郡人-沙良-真熊等二人,賜姓-廣岡造。攝津國豐嶋郡人-韓人-稻村等一十八人,賜姓-豐津造。」

 

『文徳天皇実録』嘉祥3(850)年 11 月己 卯条には、

「 従四位下、治部大輔興世朝臣書主卒 (中 略)、能く和琴を弾き、仍大歌所別当為、常会供奉、新羅人沙良真熊、善新羅琴弾」

とあるが、この二人は同一人物だろうか。


********************

<参考情報>

没年嘉祥3.11.6(850.12.12)
生年宝亀9(778)
平安前期の官人。吉田古麻呂の子。百済系渡来氏族で,祖父,父共に侍医であったが,書主は早くから嵯峨天皇に寵愛されて左衛門大尉,左近衛将監などを歴任した。儒学に精通する一方,泳ぎや武芸にも秀でていたことから,武官に抜擢されたのであろう。和琴の名手としても知られ,新羅人沙良真熊から新羅琴を秘伝されている。和泉守,備前守としても名声を得た。承和4(837)年興世朝臣の姓を賜る。嘉祥3(850)年治部大輔となったが,山林に隠棲し仏道に専念,多感な生涯を送った。

(瀧浪貞子)

2024年3月9日土曜日

日本古代漢字音整理のお願い

 どなたか有識者へのお願い


確かにカールグレンや王力などの力作で、古代漢字音研究飛躍的に進展した。しかしながら、時代別、地域別中国語研究となると、寡聞にしてその総括的整理を知らない。

正直に言えば、古代朝鮮語を知る手掛かりとしたいからである。

そして、その推定の上に、渡来人たちが日本に持ち込んだ漢字音を復元したい。確かに夢物語であるが、その夢に向かってドンキホーテ的挑戦を続けている。

2024年2月21日水曜日

古代建築材に関する研究

  古代建築の用材や出土コウヤマキ材に注目した研究は多い。代表的なものとして以下をあげる。

西岡常一・小 原二郎『法隆寺を支えた木』(NHKブックス318、日本放送出版協会、1978年6月)、

岡田英男「古代建築に使った 木」(『普請研究』8、1984年6月)、

『古墳時代木棺の用材選択に関する研究』(平成15~平成17年度科学研究費補助 金基盤研究(C)(2)研究成果報告書、研究代表者岡林孝作)

、『古墳時代におけるコウヤマキ材の利用実態に関する 総合的研究』(平成18~平成20年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書、研究代表者岡林孝作)、

裕 明「古墳時代王権中枢のコウヤマキ利用」(『博古研究』46、2013年10月

2024年2月20日火曜日

日本の相撲の源流を探る

 正倉院所蔵の『周防国正税帳』天平10年に、相撲に関する興味深い記事がある。

6月20日条:長門国相撲人3人

6月21日条:周防国相撲人3人

の記事である。平城京へ向かう6人であるが、いずれも相撲取りとある。両国から選抜された、腕っぷしの強い力自慢の者たちが平城京での相撲大会に出場したかもしれない。

どうやら各国から相撲取り(相撲人)が平城京へ派遣されたらしい。平城京場所の具体像は不明であるが。ジョークは別としても、相撲本来が神事であったと考えられるので、その儀式に参加する力士であったらしい。


なお、次の木簡も相撲に関係するが、この人物も平城京場所に出場したかもしれない。出土場所が「平城京式部省東方」とあり、相撲会場とは無関係である。「木善佐美」は「しこ名」かとも思えるが、この時代に勧進相撲はあり得ないので、名前であろう。

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAIBN14000111
木簡番号0
本文・甲斐○□□ε(二人の人物画)・【千□】○木善佐美\○人国国\○忍○乃止国○未年ε(相撲絵)
寸法(mm)(209)
47
厚さ4
型式番号065
出典木研20-17頁-1(98)(城34-20下(214))
文字説明 
形状上欠(折れ)、下欠(折れ)、左削り、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮式部省東方・東面大垣東一坊大路西側溝
所在地奈良県奈良市佐紀町・法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数274
遺構番号SD4951
地区名6AAIBN14
内容分類文書?・習書
国郡郷里 
人名木善佐美
和暦 
西暦 
木簡説明