2019年1月15日火曜日

アンコールワットの見方

アンコールワットはSiem Reap市の8キロ北にある。旅行会社の現地ガイドに引き連れられてアンコールワット内を行動するだけに、始めて訪問した観光客は何が何だか分からないままに、4つの回廊を歩き回る。各回廊は約760メートルにあるだけに、その壁面は巨大なキャンパスである。

寛永九年正月ニ初而此所来ル生国日本
肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫
一房■御堂ヲ心■為に千里之海上ヲ渡一念
之儀ヲ生々娑婆寿世之恩ヲ清ル者也
為其二仏四体立奉ル物也
摂州北西池田之住人森本儀大夫
右実名一吉善魂道仙■為娑婆ニ
是ヲ書物也
尾州之国名谷之都後室其
老母者■明信大姉為後生ニ是
書物也
寛永九年正月二十日

アンコール王国では、なぜ乳海攪拌モチーフを好んだか?

Angkor Wat第1回廊には、「乳海攪拌」モチーフを用いた浮き彫りがある。
左側には阿修羅92像と右側の神々88体とが綱引きをする。大亀の背中の上にはビシュヌ神が4本の手で、その綱引きを仕切る。ビシュヌ神の左手には甘露(アムリタ)。その甘露を取り合うのである。

アンコール王国では、なぜ乳海攪拌モチーフを好んだか?

2019年1月14日月曜日

JayavarmanⅦ  ジャヤーヴァルマン7世

JayavarmanⅦ ジャヤーヴァルマン7世( ជ័យវរ្ម័នទី៧)

JayavarmanⅦの最大の公共事業は、新都城AngkorThom(「大きな都」)の建設であった。都城は、周囲12キロメートルの環濠に囲まれ、高さ8メートルの城壁、東西南北の4城門と王宮正門に射当たる勝利の門で出入りできる。その城門の上は4面の仏顔塔で飾られている。アンコールトムの中心はBayon

首都を中心とした王道に沿って102の病院(アーロギャーシャーラ)を建設し、主要な道路には16kmごとに121の宿駅が設置された

Angkor Wat地域とは?

Angkor Wat地域は、Angkor Watの北東にあるプノン・クーレン高地(標高約400メートル)と、南にあるトンレサープ湖の間に位置する。この地はシェムリアップ河によって形成された扇状地である。一見すると、全くの平坦な平野である。この地にある遺跡分の大半はアンコール朝(802ー1431年ごろ)に建造された。主要な遺跡は約60。アンコール朝の全盛期には、北はラオスのビエンチャンから南はタイのスコータイ、西はチャオプラヤー河、南はマレー半島、東はベトナム南部にいたる広大な版図を支配していた。
その地の豊かな恵みは稲作であった。

「韓藍」万葉集384番歌

万葉集384番歌は、
*わがやどに、韓藍植ゑ生(おほ)し枯れぬれど懲りずてまたも蒔くかむとそ思ふ
である。この歌にある韓藍(から+あゐ)は、現在の「ケイトウ」だという。

2019年1月13日日曜日

東莱 鄭氏の別荘

東莱 鄭氏の別荘は旭町1丁目半田農林部付近から南米倉町付近までの豪壮な邸宅であった。

李■と孫舜孝、李恒福の邸宅

李■(うかんうり+行)の邸宅ーー南山の総督官邸から桜渓一帯
孫舜孝の邸宅ーー南山町3丁目東参道下
李恒福の邸宅ーー南米倉町の和田常一氏邸(紅葉亭)

日本領事館の場所

倭城台交番の向かいに倭城台倶楽部がある。その場所こそ、日本領事館の一部である。

益田長盛と加藤清正の陣営

文禄の役では、
益田長盛の陣営は寿町と日の出小学校付近一帯。
加藤清正の陣営は三坂町の第2高女付近。
豊前守忠利の陣営は旭町1丁目半田農林部付近


星亨の京城時代の下宿

星亨の京城時代の下宿は、本町2丁目の伊藤写真館2階であった。

京城にもあった赤門通り

京城にも赤門通りがあった。京城の永楽町付近を、当時赤門通りと呼称した。本町警察署とその裏手にある官舎一帯には、朝鮮の永■(示+喜)殿があった。その門が赤漆で塗られていたたためである。永楽町の地名由来も、永■(示+喜)殿にある。

宗義調と孔雀1番、鉄砲240挺

秀吉の命を受けて、宗義調は京城を入った。その時に、義調は孔雀1番、鉄砲240挺を持参したが、孔雀見物客で鷺梁津から南大門までの遠藤は人垣ができていたという。
なお、当時の朝鮮に火薬がなかったために、鉄砲240挺は無用の長物として、朝鮮総督府時代にも訓錬院に放置されていた。

朝鮮時代の軍器寺

朝鮮時代の軍器寺は、京城府庁にあった。文禄慶長の役に宇喜多秀家に従って進軍した明石掃部頭がその陣営を京城府庁においたのも、その場所こそ、朝鮮時代に兵器を保管した場所であった。

文禄慶長の役と宇喜多秀家の陣営

文禄元年2月中旬に宇喜多秀家は朝鮮ホテルに本陣を置いた。秀家は文禄2年4月30日まで、その場に軍陣をおいた。
1,明石掃部頭ーー京城府庁
2,花房助兵衛・明石右近助ーー北米倉町工藤病院
3,花房志摩之助ーー京城放送局
4,長船紀伊守ーー貞洞の官舎
5,富川玄藩允ーー朝鮮ホテルの裏手のライオン自動車
6,宇喜多左京介ーー徳寿宮

宣恵庁の場所

南大門から南に向かった場所にある朝鮮消防署のポンプ入れ場所が、宣恵庁の建物であった。

楊■(金+高)随涙碑

かって、李学務局長邸宅内に、二つの石碑はあった。
1)楊■(金+高)随涙碑
2)宣武祀
そもそも楊■(金+高)随涙碑は沙■(山+見)=現在の西大門刑務所に建立されたが、慶長3年8月に李学務局長邸に移築。

梶原大尉と朝鮮侍衛第1大隊

朝鮮侍衛第1大隊の場所は、明治40年8月1日現在、南大門小学校裏の松寺法務局長邸宅であった。
梶原大尉は朝鮮侍衛第1大隊で死亡した。