2026年1月10日土曜日

武蔵国司一覧

 1,703年(大宝3年)7月5日    引田朝臣祖父

2,708年(和銅元年)3月13日   当麻真人桜井

3,715年(霊亀元年)5月22日   大神朝臣狛麻呂

4,719年(霊亀3年)7月13日   多治比真人県守

5,731年(天平3年)5月14日   布勢朝臣国足

*738年(天平10年)4月22日  介 多治比真人東人

               掾  秦国鉾

               少目 船倉人

               守  粟田朝臣人上

               守  多治比真人広足

*746年(天平18年)      守  紀朝臣清人

*752年(天平勝宝4年)       平群朝臣広成

*753年(天平勝宝5年)       佐味朝臣比奈麻呂

*754年(天平勝宝6年)       石川朝臣麻呂

*755年(天平勝宝7年)       安曇三国

*756年(天平勝宝8年)       巨万朝臣福信

                史生 秦男口

*759年(天平宝字3年)       三島真人蘆原

*761年(天平宝字5年)       高麗朝臣大山

*764年(天平宝字8年)       石川朝臣名人


    

                  

 

2026年1月7日水曜日

『日本書紀』に見る685年の噴火記事は浅間山か?

浅間山は群馬県と長野県の境に位置する火山である。浅間山といっても富士山のようにコニーデ型(円錐形)の独立峰ではなく、浅間火山の西方には高峰~籠ノ登連峰から連なる烏帽子火山群がある。

(参照)浅間山の地形図 国土地理院発行の5万分の1地形図(小諸、御代田、上田、軽井沢)及び数値地図 50mメッシ ュ(標高) 出典:気象庁「活火山総覧 第4版」 https://www.data.jma.go.jp/vois/data/tokyo/STOCK/souran/souran_jma_hp.html 

この浅間山に関して、爆発型(ブルカノ式)噴火の記録が多数残されている。

『日本書紀J天武天皇14年(685)条に,「14年春~~3月~~是月、灰零於信濃國、草木皆枯焉」

この記事には、浅間山などの山名が明記されていないために、信濃国で発生した自然災害(「草木皆枯」)の原因は特定できないが、「灰」とある以上、火山の噴火を想定できよう。季節は春3月。信濃国一帯に春の芽吹きを感じ、一瞬にして自然環境が一変したと想像できる。

だからといって、十分に可能性を残しつつも、その噴火した火山が浅間山であると即座に断定できないと考えたい。浅間山の噴火であれば、その噴煙は偏西風に乗って、信濃国ではなく、信濃国の東に隣接する関東地方、特に上野国・下野国などに灰を降らすからである。

以下は、

第1章 天明3年浅間山噴火の経過と災害 - 内閣府防災情報

に依拠して記述を進めて行きたい。

まず浅間山の有史以来の大規模な火砕噴火は3回あり、700年程度の間隔で噴火を繰り返してきたらしい。その最大規模の噴火は天仁元年(1108)のそれであった。その3回のうちの一つである天明3年(1783)噴火は古記録を豊富に残しており、噴火の経緯と堆積物の分布を知るに重要な資料である(萩原進編集『浅間山天明噴火史料集成』1~5,群馬県文化事業振興会、1985年~1995年。国立国会図書館のデジタル閲覧)。

内閣府資料13頁以下には、その天明3年噴火の噴出物の到達範囲図が掲載されているの詳細はそれをご覧いただくこととする。

ここでは、天明3年噴火における降灰は浅間山から200㎞圏内の江戸や佐渡海海岸にも及んだものの、浅間山山麓は別としても、浅間山から西方の地域に生態系や農耕地に壊滅的被害を与えた資料は見当たらない。

いや、天明3年噴火記録は参考に値しないと主張する方がいれば、それで話は終わる。

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684年11月29日に発生した白鳳地震が、記録されている最古の南海トラフ地震との関連を取り上げたい。しかし別の機会に譲る。

典拠:災害の歴史 No.13 白鳳地震(684年11月) – 一般社団法人災害防止研究所

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2026年1月6日火曜日

新羅の名将 金庾信 김유신 将軍 の名前の由来に関してーー신라 김유신 장군 이름의 유래에 관한 가설

 本稿の狙いは、金庾信将軍の武勇伝ではない。

仮説:「金庾信」の命名に、中国南朝の名門(庾氏)であり、南朝・梁の宮廷詩人庾信に由来する可能性の提出

『三国史記』巻41に

「金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。」

とある。

不滅の名将軍である金庾信(595~673年)に関する論考は数多く発表されている。彼の武勇伝に関する研究は無数あり、「屋上屋を架する」のは無意味である。


「庾信は南朝・梁の宮廷詩人であった。華やかな前半生をお くったが、侯景の乱(548年)によって建康の都(南 京)が陥落、江陵(湖北省)までの苦難にみちた逃避行を 強いられた。また北朝の西魏に使者として赴いているとき (554年)、その西魏によって梁朝がほろぼされ、帰国で きなくなり、北朝につかえて後半生を生きることになった。 」

議論の前提

 (1)時代的接触:新羅は梁文化を積極的に受容していた点

6世紀の新羅は、南朝梁との外交・文化交流が非常に活発

仏教・制度・服飾・文物の多くが梁経由で流入

(2)江南文化への憧憬:圧倒的な梁文化的優位性

・庾信は梁の皇太子蕭綱の側近文人

• 「徐庾体」の代表者として宮廷文化の象徴

3)出自の周縁性--望郷と流浪性:梁の庾信は、祖国・江南(梁)の滅亡により「望郷の念を抱えたまま北朝」に留置された「亡国の民」であり、しかも「越境者」であった。

 一方、金庾信は単なる新羅の名将ではなく、加羅系の血統を持ちながら新羅の中枢に立った「越境者」であった。しかしながら金庾信の母である万呼夫人(万呼太后)は加羅(伽耶)王族の血を引く女性でり、562年に加羅は新羅に併合され、*国家としての故郷を失った「亡国の民」であった。つまり金庾信にしても加羅(伽耶)王族の末裔としての漂泊者であると言えよう。

つまり、「出自の周縁性が統一の中心へと反転する構造」において、梁の庾信と金庾信の母である万呼夫人(万呼太后)は類似する存在である。したがって、新羅の金庾信の命名にあたり、母の万呼夫人(万呼太后)は自らの境遇と梁の庾信のそれとを重ね合わせて、我が子に「庾信」と命名したと考えたい。ただし、それを裏付ける資料は現段階で未発掘であることは、正直に告白しておく。したがってあくまでも想像の産物でもあると反論されることは十分に予想している。

<参考記事>

『三国史記』41 列伝1 金庾信 上

金庾信。王京人也。十二世祖首露。不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅登龜峯。望駕洛九村。遂至其地開國。號曰加耶。後改爲金官國。其子孫相承。至九世孫仇亥。或云仇次休。於庾信爲曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後。故姓金。庾信碑亦云。軒轅之裔。少昊之胤。則南加耶始祖首露與新羅同姓也。祖武力爲新州道行軍摠管。嘗領兵獲百濟王及其將四人。斬首一萬餘級。父舒玄。官至蘇判。大梁州都督安撫大梁州諸軍事。按庾信碑云。考蘇判金逍衍。不知舒玄或更名耶。或逍衍是字耶。疑故兩存之。初舒玄路見葛文王立宗之子肅訖宗之女萬明。心悅而目挑之。不待媒妁而合。舒玄爲萬弩郡太守。將與倶行。肅訖宗始知女子與玄野合。疾之囚於別第。使人守之。忽雷震屋門。守者驚亂。萬明從竇而出。遂與舒玄赴萬弩郡。舒玄庚辰之夜夢熒惑鎭二星降於己。萬明亦以辛丑之夜夢見童子衣金甲乘雲入堂中。尋而有娠。二十月而生庾信。是眞平王建福十二年隋文帝開皇十五年乙卯也。及欲定名。謂夫人曰。吾以庚辰夜吉夢得此兒。宜以爲名。然禮不以日月爲名。今庚與庾字相似。辰與信聲相近。況古之賢人有名庾信。盍以命之。遂名庾信焉(萬弩郡今之鎭州。初以庾信胎藏之高山。至今謂之胎靈山)。公年十五歳爲花郞。時人洽然服從。號龍華香徒。眞平王建福二十八年辛未。公年十七歳。見高句麗百濟靺鞨侵軼國疆。慷慨有平寇賊之志。獨行入中嶽石崛。齊戒告天盟誓曰。敵國無道。爲豺虎以擾我封埸。略無寧歳。僕是一介微臣。不量材力。志淸禍亂。惟天降監。假手於我。居四日。忽有一老人。被褐而來。曰。此處多毒蟲猛獸。可畏之地。貴少年爰來獨處何也。答曰。長者從何許來。尊名可得聞乎。老人曰。吾無所住。行止隨縁。名則難勝也。公聞之。知非常人。再拜進曰。僕新羅人也。見國之讐。痛心疾首。故來此。冀有所遇耳。伏乞長者憫我精誠。授之方術。老人默然無言。公涕涙懇請不倦。至于六七。老人乃言曰。子幼而有并三國之心。不亦壯乎。乃授以秘法曰。愼勿妄傳。若用之不義。反受其殃。言訖而辭行二里許。追而望之不見。唯山上有光。爛然若五色焉。建福二十九年。鄰賊轉迫。公愈激壯心。獨携寶劒。入咽薄山深壑之中。燒香告天。祈祝若在中嶽。誓辭仍禱。天官垂光。降靈於寶劒。三日夜。虚角二星光芒赫然下垂。劒若動搖然。建福四十六年己丑秋八月。王遣伊飡任末里、波珍飡龍春、白龍、蘇判大因、舒玄等。率兵攻高句麗娘臂城。麗人出兵逆擊之。吾人失利。死者衆多。衆心折衄。無復鬪心。庾信時爲中幢幢主。進於父前。脱胄而告曰。我兵敗北。吾平生以忠孝自期。臨戰不可不勇。蓋聞振領而裘正。提綱而網張。吾其爲綱領乎。逎跨馬拔劒。跳坑出入賊陣。斬將軍。提其首而來。我軍見之。乘勝奮擊。斬殺五千餘級。生擒一千人。城中兇懼無敢抗。皆出降。善德大王十一年壬寅。百濟敗大梁州。春秋公女子古陁炤娘從夫品釋死焉。春秋恨之。欲請高句麗兵以報百濟之怨。王許之。將行。謂庾信曰。吾與公同體。爲國股肱。今我若入彼見害。則公其無心乎。庾信曰。公若往而不還。則僕之馬跡必踐於麗濟兩王之庭。苟不如此。將何面目以見國人乎。春秋感悅。與公互噬手指歃血以盟曰。吾計日六旬乃還。若過此不來。則無再見之期矣。遂相別。後庾信爲押梁州軍主。春秋與訓信沙干。聘高句麗。行至代買縣。縣人豆斯支沙干贈靑布三百歩。既入彼境。麗王遣太大對盧盖金館之。燕饗有加。或告麗王曰。新羅使者非庸人也。今來殆欲觀我形勢也。王其圖之。俾無後患。王欲橫問因其難對而辱之。謂曰。麻木峴與竹嶺本我國地。若不我還。則不得歸。春秋答曰。國家土地。非臣子所專。臣不敢聞命。王怒囚之。欲戮未果。春秋以靑布三百歩。密贈王之寵臣先道解。道解以饌具來相飮。酒酣。戯語曰。子亦嘗聞龜兎之説乎。昔東海龍女病心。醫言。得兎肝合藥則可療也。然海中無兎。不奈之何。有一龜白龍王言。吾能得之。遂登陸見兎言。海中有一島。淸泉白石。茂林佳菓。寒暑不能到。鷹隼不能侵。爾若得至。可以安居無患。因負兎背上。游行二三里許。龜顧謂兎曰。今龍女被病。須兎肝爲藥。故不憚勞負爾來耳。兎曰。噫吾神明之後。能出五藏。洗而納之。日者小覺心煩。遂出肝心洗之。暫置巖石之底。聞爾甘言徑來。肝尚在彼。何不廻歸取肝。則汝得所求。吾雖無肝尚活。豈不兩相宜哉。龜信之而還。纔上岸。兎脱入草中。謂龜曰。愚哉汝也。豈有無肝而生者乎。龜憫默而退。春秋聞其言。喩其意。移書於王曰。二嶺本大國地分。臣歸國。請吾王還之。謂予不信。有如皦日。王迺悅焉。春秋入高句麗。過六旬未還。庾信揀得國内勇士三千人。相語曰。吾聞見危致命。臨難忘身者。烈士之志也。夫一人致死當百人。百人致死當千人。千人致死當萬人。則可以橫行天下。今國之賢相被他國之拘執。其可畏不犯難乎。於是衆人曰。雖出萬死一生之中。敢不從將軍之令乎。遂請王以定行期。時高句麗諜者浮屠德昌使告於王。王前聞春秋盟辭。又聞諜者之言。不敢復留。厚禮而歸之。及出境謂送者曰。吾欲釋憾於百濟。故來請師。大王不許之。而反求土地。此非臣所得專。嚮與大王書者。圖逭死耳(此與本記眞平王十二年所書。一事而小異。以皆古記所傳。故兩存之)。庾信爲押梁州軍主。十三年爲蘇判。秋九月。王命爲上將軍。使領兵伐百濟加兮城、省熱城、同火城等七城。大克之。因開加兮之津。乙巳正月歸。未見王。封人急報百濟大軍來攻我買利浦城。王又拜庾信爲上州將軍。令拒之。庾信聞命即駕。不見妻子。逆擊百濟軍走之。斬首二千級。三月。還命王宮。未歸家。又急告百濟兵出屯于其國界。將大擧兵侵我。王復告庾信曰。請公不憚勞遄行。及其未至備之。庾信又不入家。練軍繕兵向西行。于時其家人皆出門外待來。庾信過門。不顧而行。至五十歩許駐馬。令取漿水於宅。啜之曰。吾家之水尚有舊味。於是軍衆皆云。大將軍猶如此。我輩豈以離別骨肉爲恨乎。及至疆埸。百濟人望我兵衛。大敢迫乃退。大王聞之甚喜。加爵賞。十六年丁未。是善德王末年眞德王元年也。大臣毗曇、廉宗謂女主不能善理。擧兵欲廢之。王自内禦之。毗曇等屯於明活城。王師營於月城。攻守十日不解。丙夜大星落於月城。毗曇等謂士卒曰。吾聞落星之下必有流血。此殆女主敗績之兆也。士卒呼吼。聲振地。大王聞之。恐懼失次。庾信見王曰。吉凶無常。惟人所召。故紂以赤雀亡。魯以獲麟衰。高宗以雉雊興。鄭公以龍鬪昌。故知德勝於妖。則星辰變異不足畏也。請王勿憂。乃造偶人。抱火載於風鳶而颺之。若上天然。翌日。使人傳言於路曰。昨夜落星還上。使賊軍疑焉。又刑白馬祭於落星之地。祝曰。天道則陽剛而陰柔。人道則君尊而臣卑。苟或易之。即爲大亂。今毗曇等以臣而謀君。自下而犯上。此所謂亂臣賊子。人神所同疾。天地所不容。今天若無意於此。而反見星怪於王城。此臣之所疑惑而不喩者也。惟天之威。從人之欲。善善惡惡。無作神羞。於是督諸將卒奮擊之。毗曇等敗走。追斬之。夷九族。冬十月。百濟兵來圍茂山、甘勿、桐岑等三城。王遣庾信率歩騎一萬拒之。苦戰氣竭。庾信謂丕寧子曰。今日之事急矣。非子誰能激衆心乎。丕寧子拜曰。敢不惟命之從。遂赴敵。子擧眞及家奴合節隨之。突劒戟力戰死之。軍士望之感勵爭進。大敗賊兵。斬首三千餘級。眞德王太和元年戊申。春秋以不得請於高句麗。遂入唐乞師。太宗皇帝曰。聞爾國庾信之名。其爲人也如何。對曰。庾信雖少有才智。若不籍天威。豈易除鄰患。帝曰。誠君子之國也。乃詔許。勅將軍蘇定方以師二十萬徂征百濟。時庾信爲押梁州軍主。若無意於軍事。飮酒作樂。屢經旬月。州人以庾信爲庸將。譏謗之曰。衆人安居日久。力有餘。可以一戰。而將軍慵惰如之何。庾信聞之。知民可用。告大王曰。今觀民心。可以有事。請伐百濟以報大梁州之役。王曰。以小觸大。危將奈何。對曰。兵之勝否不在大小。顧其人心何如耳。故紂有億兆人。離心離德。不如周家十亂。同心同德。今吾人一意。可與同死生。彼百濟者不足畏也。王乃許之。遂簡練州兵赴敵。至大梁城外。百濟逆拒之。佯北不勝。至玉門谷。百濟輕之。大率衆來。伏發擊其前後。大敗之。獲百濟將軍八人。斬獲一千級。於是使告百濟將軍曰。我軍主品釋及其妻金氏之骨埋於爾國獄中。今爾裨將八人見捉於我。匍匐請命。我以狐豹首丘山之意。未忍殺之。今爾送死二人之骨。易生八人可乎。百濟仲常(一作忠常)佐平言於王曰。羅人骸骨留之無益。可以送之。若羅人失信。不還我八人。則曲在彼。直在我。何患之有。乃掘品釋夫妻之骨。櫝而送之。庾信曰。一葉落。茂林無所損。一塵集。大山無所增。許八人生還。遂乘勝入百濟之境。攻拔嶽城等十二城。斬首二萬餘級。生獲九千人。論功增秩伊飡。爲上州行軍大摠管。又入賊境。屠進禮等九城。斬首九千餘級。虜得六百人。春秋入唐。請得兵二十萬來。見庾信曰。死生有命。故得生還。復與公相見。何幸如焉。庾信對曰。下臣仗國威靈。再與百濟大戰。拔城二十。斬獲三萬餘人。又使品釋公及其夫人之骨得反鄕里。此皆天幸所致也。吾何力焉。



東大寺・若狭井の謎

我が仮説:若狭国遠敷郡は、秦氏(渡来系氏族)・丹生資源・大和政権とのノード(結節点)”


 東大寺・若狭井は、東大寺二月堂の堂下にある湧水井戸。修二会(3月12日深夜のクライマックス、お水取り)で本尊に供える「聖水=お香水」を汲む場所である。

東大寺若狭井の最大の特徴は、若狭国(福井県小浜市)にある神宮寺(元正天皇の勅命によって和銅7年(714年)に創建。小浜市神宮寺30-4の井戸と地下でつながっていると伝承である。

この伝承を次のような佐藤ひろみ氏の的確な説明で紹介したい。

「998年 世界遺産に:登録された奈良東大寺二月堂の舞台下、良弁杉の下手にある閼伽井屋には、 修二会の 「お水取り」行事で二月堂のご本尊十一面観音にお供えするお香水を汲み上げる井戸が ある。その水源は若狭遠敷川の鵜の瀬と通じているといわれ、湧水(閼 伽水)は 「若狭井」と命 名されている。この若狭井の伝説は12世 紀前半に編纂された 厂東大寺要録」に記されており、諸書に引用掲 載されている。奈良時代、二月堂の修二会で実忠和尚が神名帳を読んで全国の諸神を勧請したが、 若狭の遠敷明神だけが漁に夢中になっていたために遅参してしまい神々の咎を受けた。遠敷明神 はお詫びの証 として、毎年修二会に若狭遠敷川より香水を送ると誓い、一心に祈念したところ、 にわかに二月堂の舞台下の岩が割れて黒白二羽の鵜が割れ目から飛び立ち、傍の樹にとまったと たんにその割れ目から甘露な泉(閼 伽水)が 湧き出した。そこに石を敷いて閼伽井としたとされ る。その清泉を若狭井と命名し、水を汲む行事が始まった。それが全国的に有名な 「お水取 り」 である。」(佐藤ひろみ「水神のルーツと生活文化II 一 若狭から奈良へ、お水送り神事 ・お水取り神事の周辺から」121頁)

若狭神宮寺の「お水送り」(3月2日)ーー「お水送り」とは神宮寺の關伽井で汲んだ水を鵜 の瀬まで運び遠敷川に注ぐ神事

お水送り | 小浜市公式ホームページ

東大寺二月堂の「お水取り」(3月12日)ーー752年(天平勝宝4年)に東大寺の開山・良弁僧正の高弟・実忠(じっちゅう)が創始したという。


さて、古来からの謎が「東大寺若狭井と若狭神宮寺遠敷川」との関連であるが、これが難題。

どうしても正解にたどり着けない。

一つの仮説として、東大寺の大仏開眼供養の導師を務めたインド僧・菩提僊那(Bodhisena)を基軸にして論を立てたりしたが、その検証のプロセスでどうしても資料の壁に突き当たる。例えば、“菩提僊那と辰砂(朱)の関係”を構造的に再構成し、東大寺との関係性も予想させるが、それにしても確証に至らない。

 しかしながら、地名「遠敷」から「小丹生」へと復元し、「丹生」を「辰砂(朱)」生産地であることで東大寺で思量された莫大な58,620 両の水銀 = 約 2.2 トン(『東大寺要録』、辰砂の約 86% が水銀であるので、東大寺において 辰砂の必要量は 水銀量の 1.16 倍であると計算できる。したがって、大仏鍍金に必要だった辰砂は約 2.5 トンだったと推定できる。この数字は机上の計算に過ぎないので、当然にそれ以上の量が東大寺に運搬されたに違いない)。

だからと言って、東大寺と若狭が辰砂をリンクにして結合する理由にならないのは、東大寺の新車の最大の供給源が伊勢国丹生郷(現在の三重県多気郡勢和村)だと判明しているからである(『続日本紀』など参照)。

 したがって、伊勢国丹生郷であるならば、その仮説の蓋然性は高い。しかしながら、そうではない以上、若狭の丹生生産地との強い関連性は別に求めなくてはならない。

 そこで、本稿が注目するのは、若狭国丹生郷付近で出土する木簡である。

•  若狭国遠敷(おにゅう)郡・丹生郷丹生里

⇒『倭名類聚抄』、 小浜市太良庄付近かこの太良荘に丹生神社の鎮座地。)

⇒遠敷郡は古くは「小丹生評」。「戊戌年」は文武天皇二年(六九八)。「若俠国小丹生評岡方里」の木簡出土。https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJBQO29000172

⇒木簡「若狭国小丹生郡手巻里人□→・○「芝一斗○大根四把→」https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJBPF29000107

⇒木簡「丁酉年/若佐国小丹〈〉生里/秦人□□□〔己ヵ〕○二斗∥」(丁酉年は文武元(六九七年))https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKM32000124

⇒木簡「丁酉年若侠国小丹生評岡田里三家人三成・御調塩二斗」丁酉年は文武元年(六九七年)

⇒木簡「庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥」’(庚子の年は文武四年(七〇〇年))https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKN34000110

つまり文武朝の木簡から判明するのは、その若侠国小丹生評に居住する秦人(主に新羅人)の存在である。

その点をもう少し分析視点を拡大して、次のように図式に整理してみたい。

仮説のポイント:若狭国遠敷郡は、秦氏(渡来系氏族)・丹生資源・大和政権とのノード(結節点)”













2026年1月1日木曜日

「奈良」の語源は古代朝鮮語のどの単語と関連付ければよいか-------若狭神宮寺の由来に関してーー若狭の朝鮮語語源説に寄せて

 「他人の空似」という言葉がある。言い古された例であるが、

日本語:神(Kami)

朝鮮語:감히(kamhi)⇒ 「恐れながら」の意

など多数ある。

佐藤ひろみ氏の紹介文を以下に転載する。

「神宮寺寺誌によれば、若狭の語源は朝鮮語ワカソ(ワ ッソ=来 るとカッソ=往 くとの合成語) が和加佐と訛ってさらに若狭と宛字された地名で、奈良もまた朝鮮語ナラ(国 という意味でナラ して開けた土地すなわち都という意味)を 語源とし後に宛字されたものであるとされている。こ の地方が若狭の中心で、白鳳時代から拓け、この谷は上陸した半島文化が大和(朝 鮮語でナラと おにゆう もいう)へ 運ばれた最も近い道であったという。国府のあった遠敷は朝鮮語ウオンフー ・「遠く ねごり にやる」が訛ったものとされ、根来は朝鮮語ネ、コーリ 「汝の古里」が訛ったとされる。京都や 奈良はそこから百キロほどの直線上にあたるといわれる。さらに神宮寺の起源については次のよ うに記されている。」( 佐 藤 ひろみ「水神のルーツと生活文化II 一 若狭から奈良へ、お水送り神事 ・お水取り神事の周辺から 」(124頁)

この語源説に関する論評は控える。

しかし卑見によると古代朝鮮語の解明が進まない段階で、語源究明の道を現代朝鮮語の知識で分析してよいかと考える。例えば、奈良の語源として、韓国語「ナラ」を提示しているが、この語形は古代朝鮮語だというならば、古代朝鮮半島における新羅・高句麗・百済・加耶などの諸地域言語のどれに該当するのかまで、考察に加えなくてはならない。

 現在の言語資料から遡上できるのは、中期朝鮮語のもう少し古形である「NaraH」

である。さらに言及すれば、この「NaraH」は「NaraK」に遡る可能性も想定されている。

そうであれば、古代朝鮮語「NaraK」と「NaRa」(奈良)とを比較したとき、それは類似していると考えるべきか、それとも他人の空似とすれば良いだろうか。

佐藤氏をはじめとする博雅の士のご教示を待ちたい。


飯尾宗祇「白河紀行」(応仁年1468)10月ーー万葉集によめる武庫のわたり

      白河紀行      飯尾宗祇

 つくばの山の見まほしかりし望をとげ、黒かみ山の木の下露にも契を結び、それよりある人の情にかかりて、塩谷といへる処より立出侍らんとするに、空いたうしぐれて、行末いかにとためらひ侍りながら、立とどまるべき事も旅行ならびは打いでしに、案内者とて若侍二騎道者などうちつれ、はるばると分入るままに、ここかしこの川音なども袖の時雨にあらそう心ちして物哀れなり。しるべの人も両人はかへりて、只一人相具したるもいとど心ぼそさに、那須野の原といふにかかりては、高萱道をせぎて、弓のはずさへ見え侍らぬに誠に、武士のしるべならずば、いかでかかる道には命もたえ侍らんとかなしきに、むさし野なども果なき道には侍れど、ゆかりの草にもたのむかたは侍るを、是はやるかたなき心ちする。枯たる中より篠の葉のうちなびきて露しげきなども、右府の詠歌思い出られて、すこし哀なる心ちし侍る。しかはあれどかなしき事のみ多く侍るをおもひかへして、


  歎かじょ 此世は誰も うき旅を 思ひなす野の 露にまかせて、


同行の人々も思々の心をのべてくるほどに、大俵といふ所にいたるに、あやしの民の戸をやどりにして、柴折りくぶるなども、さまかはりて哀もふかきに、うちあはぬまかなひなどのはかなきをいひあはせて、泣きわらひみ語りあかすに、事かなはぬ事ありて、関のねがひもすぎがたきに、あるじの翁情あるものにて、馬などを心ざし侍るをこしかかりて悦をなして過行に、よもの山紅葉しわたして、所々散したるなどもえんなるに、尾花浅茅もきのふの野にかはらず、虫の音もあるかなきかなるに、柞原などは平野の枯にやと覚侍るに、同行みなみな物がなしく過行に、柏木むらむら色づきて、遠の山本ゆかしく、くぬぎのおほく立ならぶも、左保の山陰大川の辺の心ちして行ままに、大なる流のうへにきし高く、いろいろのもみじ常盤木にまじりて物ふかく大井川など思い出るより、名をとひ侍れば中川といふに、都のおもかげいとどうかがひて、なぐさむ方もやと覚えて此川をわたるに、白水みなぎり落て、あしよはき馬などはあがくそそぎも袖のうへに満ちて、万葉集によめる武庫のわたりと見えたり。それより黒川と云川を見侍れば、中川より少しのどかなるに、落合たる谷川に紅葉ながれをせぎ、青苔道をとぢ、名も知らぬ鳥など聲ちかき程に、世のうきよりはと思ふのみなぐさむ心地し侍るに、はるけき林のおくに、山姫も此一本や心とどめけんと、いろふかくみゆるを興に乗じてほどなく横岡といふ所に来れる。ここも里の長をたのみ峰の松かぜなど、何となく常よりは衰ふかく侍るに、このもかのもの梢むらむら落ばして、山賎の栖もあらはに、麓の澤には霜がれのあし下折て、さをしかのつまとはん岡べの田面も、守人絶てかたぶきたる庵に引板のかけ縄朽残りたるは、音するよりはさびしさ増りて、人々語らひ行に、おくふかき方より、ことにいろこくみゆるを、あれこそ関の梢にも侍れと、しるべのものをしへ侍るに、心空にて駒の足をはやめいそぐに、関にいたりで中々言のはにのべがたし。

 


2025年10月7日火曜日

両国国技館の土俵「荒木田土」から、その語源を推定する。

 両国国技館の土俵の土は、川越産の『本荒木田土』

もともと東京都荒川区荒木田原(現:東京都荒 川区町屋)で採取された土壌を利用していたからである。今は廃校になったけれども、荒川区立眞土小学校(「日暮里町大字谷中元字真土」、現在の「真土小思い出広場」三河島駅前)にそのゆかりだろう

Yahooニュースによると、この土は年に6回開催される大相撲本場所(東京・大阪・名古屋・福岡)の土俵に使われ、土の運搬の量は、多い所では総重量35トン、袋に詰めること何と43袋にもなるそうだ。「大相撲本場所の土俵に使われる『本荒木田土』は、実は川越にある初野建材工業という会社が土の採取から管理、運搬まで手掛けているんです!」(【川越市】大相撲の土俵は、実は川越産の土! テレビでも紹介された川越産の『本荒木田土』とは?(川越散策) - エキスパート - Yahoo!ニュース


閑話休題

さて、この「荒木田」は確かに木や雑草が繫茂した田と解されがちである。しかし「荒+木+田」の3語が同時に連立するのは意味システムからして奇妙である。

そこでの愚案は、従来「荒い」の「Ara」に目を奪われて、「荒い+木+田」としてきたが、それでは「荒い木」の意味分析に苦しむ。もしくは「荒木の田」とも解され来た。

卑説を述べるならば、「Ara+ Ki+ Ta」と分解できることから連想して、「安羅*き*田」と分析したい。そして、

①Ara=安羅

②Ki= 城(キ)

③Ta=田

に解する。この安羅とは、562年に新羅に滅ぼされた加耶諸国の一つである。現在の韓国・慶尚南道咸安郡付近。

つまり主に安羅国にルーツを持つ朝鮮半島系渡来人の定着地の一つとしてこの荒木田を想定するのが、我が仮説である。