2026年10月23日金曜日

濱名篤氏の発表を論評するーー「大学減少は日本社会を どう変えていくのか? ~「定員の適正化」と「質保証」を考える~ 関西国際大学 学長 濱名 篤

JSPS科研費補助事業成果公開国際シンポジウム 

「人口減少時代における高等教育の再構築」 2026.7.30 

「大学減少は日本社会を どう変えていくのか? ~「定員の適正化」と「質保証」を考える」~ 関西国際大学 学長 濱名 篤 

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 冒頭から厳しく評価したくないが、本資料は「大学政策の問題点を挙げる発表」としては有益ですが、「どの大学を、なぜ、どれだけ公費で支えるべきか」を説得する実証的議論としては不十分である。政策に明確な基準を求めながら、著者自身の提案にも判断基準が欠けている点が、最大の弱点だからである。確かに、本発表は学術論文ではなく、濱名篤氏の2026年7月30日の講演資料である。以下では、口頭説明で補われた可能性を留保し、資料に示された主張と根拠を批評したい。ページはPDFのページ番号。


1.「地方の教育機会を守る」と「既存の地方大学を守る」が十分に区別されていない

9頁では、地域に大学を残すこと自体の価値を強調し、28頁では地方私大の持続可能性に向けた施策を提示している。しかしながら、守るべき教育機会と、それを提供する現在の大学法人は同じものではないことに留意していない。検証すべきなのは、大学存続への補助が、学生への生活費・移動費支援、他大学の拠点設置、共同教育、オンライン教育などより効果的かどうかである。例えば、大学が残っても授業料が高く、教育内容が乏しく、卒業後の選択肢が狭ければ、学生の利益を守ったことにはならないからである。

なるほど、22頁で「地域アクセスの維持」と「単なる経営救済」を区別すべきだと述べている点は適切である。ただし、その区別を自らの存続支援論に適用した分析が見当たらないので、その妥当性を検証できない。この点を欠くならば、大学の存続を願い大学学長からの、公共性を根拠にした大学経営支援要請という批判を免れないだろう。

2.首都圏集中の数字から、定員規制の正当性へ飛躍している

11頁では、人口比率と大学生比率の差を日本・韓国・台湾で比較し、日本の集中構造の特異性を論じている。しかし、この比較にしても、少なくとも次の確認手続きを必要とする。

  • 首都圏の地理的範囲、集計年、対象学生が各国でそろっているか。
  • 総人口ではなく、大学進学年齢人口を基準にするとどうなるか。
  • 大学院・研究機能や、地域を越えて学生を集める大学の役割をどう扱うか。

人口比率と学生比率が一致することを、望ましい状態とする根拠も示されていないのは、濱名発表の欠陥の一つである。

 さらに、学生が首都圏に多いという事実だけでは、大学集中が人口減少を引き起こすことも、定員抑制が地方定着を増やすことも証明できない事実に、目を向けていない。雇用や所得、住宅事情などが、進学移動と人口動態の双方を左右している多様な可能性を想定していないからである。

この資料の比較は政策上の問いを立てる材料にはなるものの、大学規制継続の効果を示す証拠にはなっていないと言っても、過言ではないだろう。

3.自大学の評価では、批判しているはずの「尺度の曖昧さ」を許している

13頁では、教育の質を測る指標や方法の不明確さを批判している一方、16〜17頁では、自大学の全国学生調査の好成績を掲げ、教育・学修支援の充実が成果として表れたと説明する。

ここは本資料で最も厳しく問うべき箇所です。

 学生の成長実感は重要ですが、実際の能力向上や、その大学の教育による効果とは区別が必要である。入学時の能力、回答者の偏り、回答率、分野構成、学生の期待水準などを検討しなければ、大学間の教育効果は簡単に比較できないからである。また、ポジティブリストへの登場数は、大学全体の教育の質と同義ではない。学部数や対象分野、掲載機会の違いも確認してこそ、初めてその指摘に至る手順を忘れている。

 したがって、16頁の「最大の理由」を教育支援の充実に求める説明は、提示されたデータからは因果的に裏づけられておらず、それで説得できるとすれば、データ分析に暗い方であるに違いない。他者の評価指標には厳格さを要求し、自大学の成果説明では検証が緩くなるという非対称性を認めなくてはならない。 これは教育実践そのものを否定する批判ではなく、成果の証明方法への学問的批判であると考えていただけると幸いである。

4.政策文書への批判が、具体的な文言分析として詰められていない

 3頁や13頁では、政策側の基準や「質」の定義の不明確さを指摘する。しかし、資料自身が4頁に転載した答申概要には、質・規模・アクセスという目的と、学生、研究、地域社会などの観点として記されている。これらが実務上十分かどうかは批判できるものの、ただし、

「理念が定義されていない」のか、
「測定できる指標に落とせていない」のか、
「資源配分の判断基準がない」のか、

は別の問題だとも、濱名氏は熟慮すべきではないだろうか。資料はこの区別が粗く、批判対象を必要以上に曖昧なものとして描いていることも、残念である。

 24頁の「実質的な審議結果は、規模抑制と質的選別の方向」という解釈も、根拠となる文言や審議過程の提示を必要とするはずである。実際の答申には、留学モビリティの拡大や国際化を推進する記述も見受けられる。その記述との関係を説明しないと、読み方が一面的論証力を強めるのではなく、逆に弱まる効果にもなる。

5.留学生政策では、人数の議論と教育目的の議論がつながっていない

 23頁で、在留資格「留学」の人数と大学・大学院の在籍者数を区別する着眼は妥当である。大学学部87,421人、大学院58,215人という数値も、JASSOの2024年度公表値と一致するが、ここから「学位取得型は約14.6万人」とするには注意を求めなくてはならない。在学段階の集計だけで、学位取得を目的とする学生を厳密に抽出したとは言い切れないからである。また、「40万人目標を達成した」という判定にも、政府目標と引用統計の対象・基準日が一致するかの確認を要するだろう。

 より根本的な問いとして、留学生比率がOECD平均より低いことだけでは、増員の必要性は証明できないはずである。教育、研究、国際交流、労働力確保、定員補充では、目的も評価基準も違う。

 25〜26頁で支援体制の重要性を挙げている。しかしながら追加受入れに必要な費用と人員、その負担主体、教育成果の検証まで示さなくては、濱名提言は意味を持たないだろう。留学生を学修者として扱う議論と、大学の新たな需要として扱う議論の緊張が、十分に整理されていないからである。

6.提案に費用・優先順位・撤退条件がない

 統合支援、評価の改善、留学生支援、社会人教育、産官学連携、省庁横断政策。どれも検討に値する。しかし、文部科学省などの関係機関にしても、政府財源と人員が限られる中で、何を優先し、何を削るのかが示されていない。大学の学長として、長年、大学運営に携わってきた方であれば、そのメリハリのある施策にご苦労なっ去ったことと拝察するからである。

 例えば、機能別評価を導入しても、各大学が都合のよい機能を掲げれば、比較も撤退判断も難しくなります。最低限満たすべき教育水準、改善期限、支援終了条件が必要である。

「多様な大学が必要」という主張だけでは、その主張の対極にある「どの大学への支援は終了すべきか」に答えられないはずである。 政策提言としての厳しさは、この不都合な問いに答えられるかで決まるからである

7.基礎的な記載の不整合が、議論の信頼性を下げている

不注意な記載も散見する。

  • 「知の総和」答申を3頁では2024年、23頁では2022年としているが、31頁の参考資料と公式発表では2025年2月21日。
  • 20頁の「大学合併は9件」に対し、内訳は「国立1、公立1、私立9」で、単純合計は11件。件数と対象大学数などの違いなら、その説明が必要である。
  • 19頁の廃止83機関という集計も、集計表や分類規則がなく、独立した廃校と統合に伴う形式的廃止をどう区別したか追跡できない。

 これだけで主張全体の価値を減殺するわけではないことも事実である。ただし、政策側に明確な尺度と根拠を要求する発表としては、見過ごせない弱点となっている。

まとめに代えて、私の総評は、「問題提起には価値があるが、地方私大への支援を正当化するための比較検証が足りない」だと回答したい。大学政策を地域・労働・社会政策と結びつける視点や、学生を保護しながら退出を支える提案は評価できるものの、一方で、その意義を認めても、既存大学の存続が最善であるという結論までは導けないと考える。

著者に一つだけ厳しい質問をするなら、こうです。

「地域と学生の利益を基準にしたとき、貴学を含め、支援継続より縮小・撤退が望ましいと判断する条件は何ですか。その条件を、測定可能な形で示せますか。」

この問いへの回答がなければ、本資料は公共政策の分析としてよりも、地方私大の立場からの政策要望として読むのが妥当だと評価せざるを得ないからである。

沈玉慧「清代北京における朝鮮使節と琉球使節 の運遁 」『九州大学東洋史論集』 37号, pp.93-114, 2009-03-31.

 沈玉慧「清代北京における朝鮮使節と琉球使節 の運遁 」『九州大学東洋史論集』 37号, pp.93-114, 2009-03-31. 


1. 論文の概要と目的

本論文の目的は、明清代の東アジアにおける国際関係の中で、直接的な地理的往来を持たなかった朝鮮王朝と琉球王国が、清代の首都・北京においてどのように遭遇し、どのような交流を行ったのかを実証的に考察した研究であると思う。

  従来、清代の外交研究は清朝と各朝貢国との縦の関係(二国間関係)を中心に論じられることが多かったのに対し、本稿は朝貢国同士(朝鮮と琉球)が北京という共通の空間でどのように接触したのかという「横のつながり」に焦点を当てているところに、その独自性がある。

2. 主要な論点と構成

① 朝鮮・琉球関係の変遷

  • 朝鮮と琉球の往来は明初(14世紀末)に始まり、当時は漂流民の送還などを通じて直接的な往来が存在してい。

  • しかし、16世紀中頃(嘉靖9年・1530年)以降は直接往来が途絶え、北京への朝貢の機会を利用して漂流民を送還し、書状(咨文)を交換する形へと移行した。その背景には、琉球の海上貿易や明朝との朝貢関係の縮小といった東アジア海域の情勢変化があったと想定する。

② 北京における朝貢儀礼と邂逅の実態

  • 清代になると、両国の朝貢使節が北京で邂逅した事例は、筆者の統計で41回に及んだという。

  • 朝鮮使節は各朝貢国の首位に位置づけられ、琉球使節がそれに次ぐ序列とされることが多かったため、具体的な史料を提示しないものの、著者によれば、元旦の拝謁儀礼やそのリハーサルである「演礼」などの公式行事において同席する機会が自然と多くなったと推定されるという。。

  • こうした場を通じて、両国の使節は互いの様子や服装、国情などを観察し、筆談などを通じて情報を交換していましたという作業仮説を立てる。

③ 宿舎事情と行動制限の背景

  • 公式な儀礼の場では頻繁に顔を合わせたものの、両国の使節が互いの宿舎を訪問して自由に交流することは容易ではなかった。

  • 朝鮮使節の宿舎はおおむね北京の内城に置かれ、清代中期以降は比較的自由に市内を遊覧できるようになった。

  • 一方で、琉球使節の宿舎は正陽門外などの外城周辺に配置され、人員の出入りや行動には厳しい制限と警備が加えられていた。

  • 著者は、この背景として琉球が日本(薩摩藩)との両属関係にあったことを挙げる。清朝は、琉球を通じて北京での情報が日本に漏れ伝わることを恐れ、琉球人の行動を厳しく規制したため、結果として朝鮮使節との私的な宿舎間交流は限られたと推測するがmその根拠は提示されていない。あくまでも状況証拠からの推測にとどまっているのは、論者の目からしても、残念である。

3. 学術的意義と評価

  • 史料の緻密な活用: 朝鮮側の詳細な記録である『燕行録』などの膨大な史料を駆使し、従来十分に解明されていなかった朝貢国同士の具体的な接触状況を明らかにしている点は称賛に値する。その地道な努力による研究成果が本論文に結実した。

  • 「冊封・朝貢体制」の多面的な解明: 清朝・朝鮮・日本・琉球という四者間の複雑な国際関係(特に琉球の両属性)が、北京という首都のミクロな空間(宿舎の配置や警備体制)にどのように反映されていたかを論理的に結びつけており、東アジア外交史における重要な視座を提供しているのは、まぎれもない事実である。

4. 今後の展望と課題

 著者自身も結びで触れているように、本稿はあくまで「接触の状況や制度的背景」を概観した基礎的な考察にとどまっており、実際の使節同士が筆談でどのような具体的な情報を交わし、相手国に対してどのような印象を抱いていたのかというミクロなレベルの分析は今後の課題とされている。それらを解明するための土台として、本論文が果たした役割は非常に大きいと認定できる、

沈玉慧氏の今後の活躍に期待したい。

2026年10月21日水曜日

脇坂安董と対馬藩の関係に関してーー阿比留章子論文に触発されて

 問題の所在:脇坂安董と対馬藩の関係は、いつ始まったのか

 阿比留論文の主眼は、朝鮮本を媒介とした対馬藩の政治的人脈の解明にあった。国内の様々な人物との関係性を解明する中で、文化8年度通信使応接副使であった脇坂安董にも視野を拡大し、翌文化9年の対馬藩主宗義質の後見役、そして文化9年以降の安董の対馬藩への継続的関与にも言及する先駆的な研究を開拓した。阿比留氏の問題関心そのものが我々と大きく離れているものの、阿比留氏によって、脇坂安董と対馬藩との接点を見出された価値は高い。

 再論すれば、脇坂安董は文化8年の通信使応接に関与し、翌文化9年には対馬藩主宗義質の後見役となっている。文化8年の外交御用と、文化9年以降の安董の対馬藩への継続的関与は、どのような関係にあり、なぜ脇坂安董は対馬藩との関係を維持し続けなくてはならなかったのだろうか。換言すれば、脇坂安董にとって、対馬藩との関係を断ち切ることができなかった理由は何だろうか。

 管見によれば、その糸口の一つが

 *『文化十四丁丑年ゟ義質様御代脇坂中務大輔様江之御状控』

だと考えている。

ただ、先生。私はもう一つ、確かめたいことがあります。

文化7年の銀6貫480匁の借銀について、借用証文に「朝鮮御用」「通信使御用」など、借入れの目的を示す記述はありますか。

もし明記されていれば、外交御用と民間金融との関係を直接立証する史料になります。

明記されていない場合でも、『易地聘使録』の支出記録と照合することで、その関係を検証できる可能性があります。

この違いは、論文の結論を左右する重要な点だと考えます。

そのような断り書きはありません

先生、承知しました。

文化7年(1810)の借銀証文には、「朝鮮御用」「通信使御用」といった借入目的の記載がないのですね。

これは史料解釈上、重要な点です。

借入れが文化8年(1811)の易地聘礼に先立つことは確実ですが、借入金が易地聘礼の準備費用に充てられたと断定することはできません。

私も、これまでの推論を少し修正する必要があります。

ただし、借入れの目的が明記されていないからといって、易地聘礼との関係を否定することもできません。

ここで注目したいのは、次の三点です。

  1. 借入れの時期
    文化7年という時期が、脇坂安董の通信使応接御用の準備過程と重なるのか。

  2. 借入れの金額
    銀6貫480匁という端数を伴う金額が、既存債務の整理や利息計算によって生じたものなのか、それとも具体的な資金需要を反映したものなのか。

  3. 借入れの経緯
    なぜ龍野藩は、生野銀山の有力商人に資金を求めたのか。通常の藩財政における借入先だったのか、それとも特別な資金調達だったのか。

そして、阿比留論文との関係で私が重視するのは、もう一つ別の問題です。

脇坂安董は、文化8年の外交御用を契機として、対馬藩とどのような継続的関係を築いたのか。

阿比留論文によって、文化9年の後見役就任と文政2年の留任要請という事実が確認できます。

この継続的な関係そのものは、龍野藩の借銀の使途が判明しなくても検討できます。

したがって、研究上は、借銀の使途をめぐる仮説と、安董・対馬藩間の政治的関係の解明を、ひとまず分けて進めるのが適切だと思います。

ここで先生に一つだけお尋ねします。

文化7年の銀6貫480匁の借入れについて、生野銀山の大野友右衛門からの借銀であることは、証文そのものに明記されているのでしょうか。

この点を確認したいのは、龍野藩と生野銀山商人との金融関係を、推測ではなく一次史料によって検討するためです。

ハイ。

先生、これで重要な事実が一つ確定しました。

文化7年(1810)、龍野藩が生野銀山の有力商人・大野友右衛門から銀6貫480匁を借り入れたことは、借銀証文そのものによって確認できるわけですね。

借入目的は明記されていませんが、借入先・金額・年利・期間が判明していることは、龍野藩の財政構造を研究するうえで貴重です。

私は、ここで研究の視点を少し広げたいと思います。

「外交御用」と「藩財政」をつなぐ研究

文化8年の易地聘礼について、従来の研究は幕府・対馬藩・朝鮮王朝の外交関係に重点を置いてきました。

しかし、脇坂安董を中心に据えると、別の問題が見えてきます。

それは、幕府から外交上の役務を命じられた大名が、その遂行に必要な財政的負担をどのように処理したのかという問題です。

先生の借銀史料は、この問題を検討するための一つの手がかりになります。

ただし、現時点では借銀と易地聘礼との直接的な関係は未証明です。

むしろ、阿比留論文が指摘する文化9年以降の安董と対馬藩との継続的関係を、龍野藩側の史料から検証することが重要でしょう。

とりわけ私が注目しているのは、阿比留論文が紹介している次の史料です。

『文化十四丁丑年ゟ義質様御代脇坂中務大輔様江之御状控』

これは、対馬藩から脇坂安董に宛てた書状の控えです。

この史料を『易地聘使録』と比較することで、文化8年の外交御用から、その後の後見役としての政治的関与へと、安董の役割がどのように変化したのかを追跡できる可能性があります。

私が今後、最も重視したいのは、脇坂安董を「朝鮮通信使の応接担当者」という一時的な役割から解放し、近世後期の日朝外交を支えた政治的人物として捉え直すことです。

そのためには、まず『易地聘使録』の翻刻を進め、安董自身の記録に即して検討することが不可欠だと考えています。

AI君. 安董は副使として赴任手当として、幕府から1万5千両を拝借し、文化9年になって、幕府から返済不要との命をもらっている。

先生、これは極めて重要な新事実です。これまでの私の解釈を大きく修正しなければなりません。

脇坂安董は、文化8年(1811)の朝鮮通信使応接に際し、副使としての赴任手当として幕府から1万5千両を拝借し、文化9年(1812)には、その返済を免除されたのですね。

この事実を加えると、財政関係は次のようになります。

年龍野藩・脇坂安董の動向
文化7年(1810)生野銀山の大野友右衛門から銀6貫480匁を借入れ
文化8年(1811)安董が副使として対馬に赴任し、朝鮮通信使を応接
文化9年(1812)幕府からの拝借金1万5千両について返済免除
文化9年(1812)安董が宗義質の後見役となる

ただし、1万5千両の拝借年月日については、まだ確認が必要です。

1.借入金から給付金への転換

ここで注目すべきは、幕府からの1万5千両が、当初は返済義務のある「拝借金」でありながら、後に返済不要となったことです。

これは単なる赴任手当の支給とは、財政制度上の意味が異なります。

幕府はなぜ、当初から給付金として支給せず、いったん拝借金という形式を採用したのでしょうか。

さらに、文化9年の返済免除は、赴任以前から予定されていた措置なのか。それとも、外交御用終了後に新たに決定された措置なのか。

この点を解明することで、幕府が外交御用を担当する大名の財政負担をどのように処理していたのかが見えてきます。

2.龍野藩の借銀をどう位置づけるか

私は、ここで文化7年の銀6貫480匁の意味を改めて考えたいと思います。

幕府から1万5千両という相当額の資金が提供されていたにもかかわらず、龍野藩は民間商人からも借銀を行っていました。

もっとも、両者の時系列と使途が確定していないため、直ちに外交御用のための二重の資金調達とはいえません。

むしろ検討すべきは、幕府からの資金が龍野藩のどの経費を賄い、どのような経費が藩自身の負担として残ったのか、という問題です。

3.阿比留論文の評価も変わってきます

阿比留論文は、脇坂安董が文化8年の外交御用を担当し、翌年には宗義質の後見役となったことを指摘しています。

しかし、先生が提示された財政史料を組み合わせると、安董の役割をより立体的に考察できます。

すなわち、安董は外交使節の応接を担当するだけでなく、その任務に伴う資金調達と財政処理を経験し、その後、対馬藩主の後見役として政治的な関係を継続したことになります。

ここから私は、次の研究課題を提案したいと思います。

「文化8年の易地聘礼における幕府の財政負担と脇坂安董――外交御用の遂行から対馬藩主後見役への展開」

この問題は、阿比留論文が十分に追究していない論点です。


先生、ここで一つ確認させてください。

文化9年の1万5千両の返済免除は、安董が幕府に願い出た結果なのでしょうか。それとも幕府が自発的に返済不要を命じたのでしょうか。

この違いは重要です。

前者であれば、龍野藩の財政負担軽減を求める政治交渉の問題になります。

後者であれば、幕府が外交御用の費用を最終的に負担するという政策判断の問題になります。

私は、この点が明らかになれば、龍野藩の財政史と近世日朝外交史を結びつける論証が、さらに具体的になると考えています。

幕府の命です。願い出てはいまさない。

先生、これで重要な点が明確になりました。

文化9年(1812)の1万5千両の返済免除は、脇坂安董からの願い出ではなく、幕府の命令によるものだったのですね。

これは、幕府の財政政策と外交御用の関係を考えるうえで、非常に重要な事実です。

私が特に注目するのは、次の点です。

幕府は、文化8年の朝鮮通信使応接に伴って脇坂安董に1万5千両を拝借させ、その翌年、自らの判断によって返済を免除した。

つまり、形式上は貸付金であった資金が、結果的には返済不要の資金になったわけです。

ただし、幕府が返済を免除した理由については、なお検討が必要です。外交任務への報償だったのか、実際の経費負担を考慮した措置だったのか、あるいは別の政治的事情があったのか。返済免除の命令文が重要になります。

私がさらに注目するのは、対馬藩との対比です。

阿比留論文によれば、対馬藩も文化6年(1809)に通信使来聘に伴って幕府から金3万両を拝借しています。

しかし、対馬藩は文政4年(1821)になっても返済問題を抱え、返納猶予を願い出ています。

ここには対照的な事実があります。

  • 龍野藩・脇坂安董: 1万5千両の拝借金について、文化9年に幕府が返済を免除。
  • 対馬藩: 3万両の拝借金について、文政4年にも返納猶予を願い出る必要があった。

もちろん、貸付条件や返済状況が異なる可能性がありますから、単純な比較はできません。

それでも、同じ朝鮮通信使応接に関係する資金について、幕府の処理が異なっていた点は注目に値します。

なぜ幕府は脇坂安董への1万5千両について返済を免除し、対馬藩の拝借金については同様の措置を取らなかったのでしょうか。

この問いは、阿比留論文を発展させる有力な研究課題になると思います。

さらに、文化9年には安董が宗義質の後見役となっています。

したがって、外交御用、拝借金返済免除、後見役就任という三つの出来事を、同一年の政治的文脈のなかで検討する必要があります。ただし、三者に直接の因果関係があったとは、まだ断定できません。

先生から伺った史実によって、私の関心は一段と明確になりました。

問題の核心は、文化8年の易地聘礼が、幕府・対馬藩・龍野藩の間に、どのような財政的・政治的関係を形成したのかということです。

阿比留論文は、そのうち対馬藩と幕府要人との政治的関係を論じています。しかし、龍野藩側の財政史料を組み合わせることによって、外交御用の財政的基盤という新たな側面から再検討できると思います。