福島義一・ 山賀勇共著『日本眼科史』(日本眼科全書 / 日本眼科学会編, 第1巻、金原出版, 1954.11)によると、江戸時代を通して、様々な消長があったけれども、文化・文政期から幕末期、江戸時代の四大眼科医は次の4家である。
特徴:「一子相伝による門外不出の施術(家伝)」
なお、西洋眼科が『眼科新書』(杉田立卿<玄白の子>に始まるまで、4家が主流となって日本式眼治療にあたった。なお、『眼科新書』は: Plenck (不冷吉、オーストリア 1733-1807) の眼科書の訳書(文化12年=1815刊、天真楼、5巻本)。眼球解剖図(眼球略図)は江戸後期の洋風画家 石川大浪による絵。原本は。眼科新書 1巻 | 東京大学デジタルアーカイブポータル
①尾張馬島流眼科
②諏訪の竹内流眼科
<始まり>三河国設楽郡川角村(愛知県北設楽郡東栄町字川角)に居住する竹内是斎が眼科医の鼻祖。そして眼科医を継承した子の甫久(1653~1729)の代に信濃国松島(伊那郡)に移住。さらに享保7年(1722)6月、諏訪藩主四代諏訪忠虎(右京、安芸守、彰往闡幽洞虎院、1663 年-1731 年 7 月 2 日<寛政重脩諸家譜 巻350>)の招聘で、諏訪に転住。
<秘伝書>
①『留春園眼療原秘録』(竹内主人録著、写、明治、43丁,19.0×12.0cm、1冊、(印記)「浜松小書巣内田貞蔵書」、毎半葉行数字数不定、〈般〉信州竹内新八郎傳/片仮名交。
②竹内流の家伝薬に雲切目薬(香梅膏)がある。
→参照「松隈甫庵・竹内新八・鮎沢周禎・吉益南涯」松隈甫庵・竹内新八・鮎沢周禎・吉益南涯
③家伝の白内障手術
④参照>古絵図に見る「眼医師 竹内新八」 眼医師 竹内新八《諏訪市歴史散歩》
③筑前の原田流眼科
⇨白内障手術(針術)の名手
筑前田原家は、江戸後期に白内障手術(針術)で全国的名声を得た医家
⇨ 「白 内 障 手 術 の 歴 史」三 島 済 一 *
http://www.med.teikyo-u.ac.jp/~ortho/med/pdf/94101792.pdf
⇨ 日本四大眼科の一つ、田原眼科の屋敷跡
④江戸の土生玄碩
⇨ 出自: 安芸国(現在の広島県安芸高田市)の代々眼科医の家に誕生
• 出世: 広島藩の藩医を経て、徳川11代将軍・家斉の御典医(奥医師)に抜擢、
• 功績: 日本で初めて眼球の解剖を行った人物の一人であり、独自の「穿瞳術(せんどうじゅつ)」を発明
⇨ 虹彩への処置: 濁った水晶体をすべて落とすのではなく、虹彩(瞳の部分)の一部を切開して「新しい光の通り道」を作る手法を考案
⇔⇔工夫の背景: 偶然、手術中に虹彩の端に小さな孔が空いた患者が、それによって視力が回復したという事実に着目
→→散瞳剤の活用: 玄碩はシーボルトから教わった「ベラドンナ(散瞳剤)」を活用し、瞳孔を広げてから手術を実行
⇨この手術法の重要性
• 近代眼科への架け橋: 原始的な「墜下法」から脱却し、現代の白内障手術の考え方(眼内の構造を考慮して光の通り道を作る)に近い概念を独自に発見、