はじめに
<1-1>本稿の目的は、朝鮮半島の南部に建設され、江戸時代日本人居留地(恒常的居住地域)であった「和館」の空間的構造を、小田幾五郎の『草梁話集』や松原新左衛門の『朝鮮物語』などを中心にして主に対馬資料を中心として解明することにある。
考えてみると、和館を舞台として繰り広げられた外交交渉や日朝貿易などは、今なお全面的な解明に至っていないとは言え、中村質や田代和生、泉澄一らの手で着々と研究が進展している。しかしながらいざ和館そのものに関するデータを知ろうとしても、研究の遅れが目立ち、管見の範囲では、わずかに金義煥と田代和生による二つの専論が公表されているに過ぎない。
金義煥「李朝時代に於ける釜山の倭館の起源と変遷」『日本文化史研究』第2号、帝塚山短期大学、1977年、1-17頁
田代和生『倭館―鎖国時代の日本人町』文藝春秋社、 2002年
しかしながら、確かに専論は極少数であるにはあるが、それほど不便を感じなかったのは、都甲玄郷編『釜山府史原稿』第3~4巻「倭館編(上・下)」があったからである。この都甲原稿の章立てだけでも紹介すれば、
第3巻
第一章
倭館建置の由来
第二章
高麗末の倭寇と倭館
第三章
李朝国初の倭寇と修好事略
第四章
世宗王の宗氏懐柔及び九州諸豪との通交要略
第五章
嘉吉癸亥の新約と三浦倭館覆置及び貿易船並びに接待規約其他
第4巻
第一章
三浦の事変と釜山浦倭館
第二章
朝鮮役前後の修好並に釜山浦倭館の変遷
第三章
豆毛浦倭館の移建顛末
第四章
愈々草梁倭館の建設と其規制並に草梁館の出火、重修事例其他
第五章
倭館の諸規約
第六章
倭館関係の諸役人
第七章
倭館遺事雑俎
という2段組、429頁に及ぶ大部なものである。この章立てを一瞥しただけでも、倭館に関する基本的データを網羅していると充分に推測できよう。我々が試みる和館そのものの基礎データの構築に関しても、都甲は、江戸時代の和館の記憶を持つ人々からの聞き取りが容易に行えただけに、後人の追随を許さない彼の独壇場の感もある。
韓国文献
1、李退渓「教書」『李退渓文集』
2、李重煥『八域誌』
3、『高麗図経』
4、『星湖さい説』
5、李廷濟の詩「釜山倭館」『 』(15頁)
「幾箇城中駔僧家
睎冠連騎競紛華
自従通貨長崎後
綾縀日綵失利多」
6、『高麗史』
7、『東文選』
8、『倭館移建謄録』
9、『四瞑集』(松雲)
10、
日本文献
1、天野信景『塩尻』
2、小田幾五郎『象胥紀聞』
3、小田幾五郎『草梁話集』
4、『異説まちまち』
5、松原新左衛門『朝鮮物語』
6、川辺士櫻『草梁日録』
7、『宗氏年譜略』
8、『朝鮮通交大紀』
9、『朝鮮諸記事例考』
10、
『交隣知津録』
11、
『陰御送使諸使者式例帳』
本稿で論ずる倭館とは、中世朝鮮における日本人居留地である。この倭館の中でだけは日本人(対馬藩)は朝鮮と交易をすることが許されていた。しかし倭館という特別な空間が朝鮮政府によって認められるようになった過程は決して友好的なものではなかった。倭寇等の海賊行為に悩まされていた朝鮮政府は苦肉の策として一部の港町を開き、倭館を造ってその中でだけは交易をすることを許可したのである。このことからも中世日朝関係はたんに友好の歴史でないことがわかる。中世の日本人、朝鮮人は現代人と同じように利害関係の中で恣意をもって行動していたはずである。その感情的な生き生きとした人間関係を知るためには曖昧な倭館像を様々な史料から明らかにし、彼らの生きた生活空間とはどのようなものであったかを理解しなければならない。これが本論文の主題である。しかしここでは草梁倭館の構造・地理的条件といった生活空間の状況や交易・犯罪問題といった日本人、朝鮮人の接点にふれる前に、草梁倭館に至るまでの倭館の歴史について以下に大まかにまとめておく。
朝鮮王朝太祖のころ倭寇の略奪が益々激しくなっていたため太祖は李従茂に命じて対馬を討伐させた。対馬討伐の理由は対馬が倭寇の拠点であると考えられていたからである。しかしこの戦いは朝鮮対倭寇の戦いではなく、朝鮮対対馬、少弐連合の戦いであった。結局この戦いにおいて朝鮮軍は敗北し退却することとなった。これを應永の外寇といい、元寇以来の一大外難と称されている。太祖がこのような行動にでたのは倭寇問題に対して従来の平和的手段では解決できないと考えたからであった。
かえって倭寇の怨みをかった朝鮮王朝(世宗)は倭寇に対する方策を変え、再び懐柔策をとり、対馬より通商を請うときはこれを許諾することにした。その場所は熊川群の乃而浦と東莱群の釜山浦に制限することとした(後に蔚山の塩浦も加わり三浦となる)。しかしこの懐柔策による三浦の開港も長続きはしなかった。やがてこの三浦において反乱が起きる。それが三浦の乱と呼ばれる反乱である。この乱によって対馬と朝鮮の通交は一時中断となった。
しかし通交の有無は対馬島民の死活問題であったので、対馬藩は三浦の乱に関係した賊の首を朝鮮に送り、かつ従来の約條を永正約條に改正して通交を再開してもらった。永正約條は乃而浦のみに倭館を設置することを認め、三浦の居留は厳禁とされた。対馬は到底この約條に満足できず居留する者は年々増加したため再び日本と朝鮮との間で大衝突が起こり、居留民300人は帰島することとなった。こうして乃而浦は閉じられ倭館は釜山浦内の豆毛浦に移された。
豆毛浦に移館の後さしたる争いもなく経過したが文禄元年に豊臣秀吉による朝鮮の役が起こり、この後日朝館の通交は断絶した。この断絶は慶長14年に家康の平和主義に基づき国交回復するまで続いた。このとき結ばれた約條が慶長約條であり、同年釜山の倭館は再度開かれることとなった。ここで一つ補足するが、倭館は嘉吉約條のときと慶長約條のときではその言葉の表す概念が異なる。嘉吉約條前後の倭館は日本の使船を接待するために三浦に設けられた館を指すが、三浦の乱後釜山浦に倭館が移された後は使者の接待所のみではなく、島人の居留する所全てを指すようになった。
草梁倭館は今の韓国釜山に設置されていた(1)。現在も고관(古館)という地名が残っている豆毛浦(釜山鎮と新草梁の中間、水晶洞)
萬治元年(1658)宗家は使者唐坊佐左衛門を遣わして倭館を釜山城に移すことを交渉させた。その理由は碇泊に不便という理由であった。この第一回目の交渉は応じてもらえず失敗に終わった。これまで対馬は倭館の移館に関して幕府に何の届もしていなかったが、寛文7年に倭館に火を発し建物の大半が焼失したのでこれを機会に島主より幕府に移館が急務であることを陳情して許可を得ている。移館の理由は
1、風波の難
2、倭館の傍を流るる河水による土砂の沈積
3、飲用水の不便
4、交通の不便
等であった。(この理由をどの資料から提示するのか)
幕府から移館の許可を得た対馬は朝鮮との移館交渉を続けた。萬治元年から寛文12年までの15年間、その間使者往復すること7回に及びやっと朝鮮側から移館の許可を得た。(具体的にその7回を示すこと)
許可が下りた理由は寛文11年に釜山倭館が全焼したためであろう。移館の莫大なる費用は朝鮮側が負担し、足かけ4年で草梁倭館は完成した。朝鮮は江華島事件(1875)により結ばされた1876年の日朝修好条規によって釜山など3港を開港する。それとともに草梁倭館もその歴史を閉じることとなる。
〈倭館年代区分〉
三浦倭館(1426~1510)豆毛浦倭館(1609~1677)草梁釜山倭館(1678~1876)
以上倭館の歴史に関して大まかにまとめておいたが、一言に倭館といっても三浦倭館、豆毛浦倭館、草梁倭館と様々な変遷をたどっている。このうちここであげるのは倭館の歴史の最後にあたる草梁倭館についてである。草梁倭館に関して記してある資料は非常にたくさんある。しかし、その中に書かれていることがすべて同じであるわけではない。倭館の規模についての記述もそれぞれ異なる。それぞれの資料に書かれている大きさは次のようである。
<2-1>草梁倭館の位置
釜山倭館は、大正14年の地図に当てはめた小田省吾によると、
「今此の和館のあった地域を現在の市街に比定すると、北は大庁町東西の通路を限とし、南は南浜町の海岸に接し、西は西町四丁目の道路を限とし、東は呼崎より本町一丁目、二丁目、三丁目に至る道路を限としたのである。」(小田省吾「釜山の和館と設門とに就て」『朝鮮』125号、153頁)
倭館の位置はほぼこれで間違いないが、その規模は、資料や研究者によって、それぞれ記述が異なる。
まず日本側の資料を示す。
出典資料・文献 倭館規模
①『対馬藩政治問答』(国立公文書館所蔵) 東西400間 南北250間
②宗家記録『移館一件』(分類記事大綱所収
国立国会図書館所蔵) 東西360間 南北220間
③「朝鮮筋之儀ニ付義真様阿部豊後守様江御書付を 東250間 西220間
以被仰上候覚」(九州大学文学部国史研究室所蔵) 北350間 南370間
とあり、専門家によっても、
出典資料・文献 倭館規模
④高橋章之助『宗家と朝鮮口絵』、
宗家記録『御国より朝鮮古倭館新館江渡口之図』、
同『草梁之絵図』(宗氏文庫所蔵) 東西450間 南北250間
⑤小田省吾「李氏朝鮮時代における倭館の変遷」
(『朝鮮支那文化の研究』所収) 東西350間 南北250間
⑥小田省吾「「釜山の和館と設門とに就て」『朝鮮』125号、153頁」
東278間 北289間
西224間 南373間
⑦「長正統「日鮮関係における記録の時代」『東洋学報』
東辺279間 西辺224間
北辺289間 南辺373間
<朝鮮学報 第79輯『17.18世紀日朝貿易の推移と朝鮮渡航船』より>
とある。一方、朝鮮側の資料によると、
出典資料・文献 倭館規模
⑧『通文館館志』、『増正交隣志』 東西372歩4尺 南北256歩
(1歩=1間)
とあり、日朝双方でも一致しない。
今となっては、釜山倭館遺構自体が不明であるので、境界標を四周に立てて、レーザー測定法などによる正確な距離測定は不可能である。したがって残念ながらこれらの食い違いが発生した原因も不明である。憶測の範囲を越えないが、時期によって倭館の規模が伸び縮みしたのか、測定位置が異なるのかなどであろう。
和館内の規約は、以下の通りである。
「館中定式の事
天和三癸亥年御条目を以て開市、朝市、炭柴、館直門直、上下も漂着船の事被仰付
附
守門内、枡形、御制札の写
定
一、際木の外へ、大小の用事に不限猥りに罷出まじく候、相背者罪科に可行事
二、「登銀」差引相済候以後、重て「登銀」致候段、露顕するに於いては頼み候者同然罪科に可行事
三、市に入来候節、面々の房内の朝鮮人呼入候て、潜に商売等仕候者は双方罪科に可行事
四、五日雑物入来候刻、礼房、通事等、日本人猥に打擲仕間敷事
五、両国犯罪の者これある刻は双方の者、館門の外に於いて、可行刑罪事
附 在館の諸人、用事有之刻者、其訳、館門へ申し付け、札を以て訓導、別差所へ往」

<2-2>対馬から倭館までの距離
対馬からこの釜山における草梁倭館までの道のりは松原新右衛門『朝鮮物語(2)』に次のように記述されている。
一、対馬国さすな浦之関所ヨリ朝鮮釜山浦之船着迄、表方四十八里と云共甚近ク御座候、二十里計も御座候。但佐須那浦ハ三月ヨリ八月迄之出津場ニシテ、鰐浦を以九月朔日ヨリ三月朔日迄之出津場に定る也、さすな浦之儀冬に相成候てハ船之乗前悪敷きに依てなり、鰐浦ヨリも朝鮮へ之程、さすな浦同前候事
一、釜山浦船着ヨリ日本館迄之間、日本之程ニして一里有、尤浜伝ひニて候事
朝鮮物語の筆者松原新右衛門が生きていた当時(3)対馬国の佐須那浦の関所から釜山浦
の船着き場まで48里だといわれていたことがわかる。1里は3.9キロであるから、48里は約187kmということになる。ここで面白いことは日本と朝鮮との距離について書かれている史料で日本(対馬)から朝鮮の街が見えるというものはあるが、反対に朝鮮から日本が見えるというものはない。これが意図的なものかそうでないかはわからないが、ここには朝鮮の解禁政策の影響が反映されているのではなかろうかと思われる。
当時韓国の1里は日本の10分の1の長さであった。そのことは朝鮮物語に「(37)朝鮮之千里が日本之百里と積候か能御座候事」と書かれていることからわかる。
最後に対馬の港についてであるが、佐須那浦は対馬の最北部に位置していた。現在の
上県町にあたる。また鰐浦は佐須那浦の東隣に位置した。こちらは現在の上対馬町にあた
る。今では鰐浦地区の北側の山には韓国展望台があり、天気のいい日には釜山辺りを望む
ことができる。(図1,2参照)
(第2部)倭館の地理と建築物
(?)船倉
草梁倭館は高橋章之助『宗家と朝鮮』における釜山倭館竣工図をみるとわかるが、南側と東側が海に面していて、東側に船倉がある。船倉とは倭館の玄関で、船が入るところである。船倉の大きさは東西78間、南北122間と記されている。この大きさから日本からの船が大型のものであったことがうかがえる。
船に関する記述は?
(?)伏兵幕(伏兵所)
海岸と倭館との間には伏兵幕(伏兵所)が設置されていた。朝鮮側は常に倭館への人の出入を統制するため、倭館の外に伏兵幕を建てて監視していたのである。伏兵幕は当初東、南、西の3ヶ所にあり、鎮将の将校1人と卒2人が輪番して人が塀を越えるのを防いでいた。さらに1739年に起こった交奸事件以降6ヶ所に増設された。(倭館の東南西に1つずつ、北に2つ、任所の上に1つ)任所の上に伏兵幕があったことは『草梁話集』次の文からわかる。
任所之上ニ少(小)キ祠有之、・・・此上ニ伏兵番所有之、
館内船見之者此山之上者時々登往来差支無由
倭館における交奸事件については孫承喆著『《倭人作拏謄録》을 통하여 본 倭館』(港都釜山第10号所収)に詳しく書かれているのでここでは簡単にまとめておく。草梁倭館における交奸事件で朝鮮人女性の身分は良女、私婢、娼女、退婢などであった。一方日本人男性の身分は代官、禁徒倭であり、両国の通交に直接的に関与したり警備を引き受けた者たちであった。朝鮮側は朝鮮人罪人を男女の別を問わずに処罰することができたが、倭館側の人間を処罰することは両国間の約條になっていないという理由から不可能であった。また、倭館内にいる朝鮮人犯罪者を捕らえるためには日本側が引き渡さねば不可能であった。倭館は治外法権であったといえる。交奸事件にさいして朝鮮人女性は処罰を受けたが、倭館内の者は対馬に送還される程度で済んだのである。
このような状況に対して朝鮮側は倭館の人間も朝鮮と同律で裁かれるべきだとして「同律処断」を要求したが、なかなか同律で裁くことは実現しなかった。1711年の辛卯通信使の派遣を契機に両国間で犯奸約條が結ばれたが、その後も交奸事件がなくなることはなかった。
(?)石垣
草梁倭館は高さ六尺(180cm)の石垣に囲まれていた。この倭館内にはまず海岸側に水夫屋、浜番所、(水)倉庫があった。そして倭館の中央には竜頭山があって、この竜頭山を境にして倭館は東館と西館に分かれていた(草梁倭館関連図参照)。
(?)東館
東館には館守家、開市大庁、裁判屋が設置されていた。開市大庁とは日本人と朝鮮人が交易品を取引した場所にあたる。その位置は館守家の東、守門の西にあった。倭館を媒介して行われた朝鮮と対馬との貿易は単純に商人が自己の利益のために取引をするというものが全てではなかった。この貿易は進上(回賜)と公貿易と私貿易に分かれていた。このうち進上と交貿易とは儀礼的・形式的に決められたものを(交換)取引する貿易で、使船一艘あたりの品目、数量が規定された「定品・定額制」であった。そのため年間の派遣船数は貿易の基本額を決定する重要な要因だったのである。朝鮮と日本における貿易の取引内容については後で詳述する。
東西両館は、明治5年12月5日の暴風雨によって決定的に破壊されたので、その修復は費用面で断念された。(『朝鮮事務書』巻22)。
(?)館守家
館守家は現在も釜山の倭館跡に残っているがその位置は東館の中央、竜頭山の麓(小田省吾著『釜山の和館と設門とに就て』(『朝鮮』大正15年10号所収)には「今の釜山府廳の處」と書かれている)にあった。館守家には倭館における対馬側の役人の総責任者である館守が居住していた。総責任者である館守は倭館内を取り締まり、また両国間の交渉ごとを掌った。館守の在職年限は2年間で、後に3年に延長された。任期が終わり新しく館守を朝鮮に派遣するときには必ず朝鮮政府に通達せねばならなかった。
(?)裁判屋
裁判屋は裁判という役職の人間が住んでいた場所にあたる。その位置は東向寺の南、開市大庁の北にあった。裁判とは倭館において何らかの交渉事項があったときに対馬から倭館へ派遣される役人のことで、『誠信堂記』を著した儒者雨森芳洲が有名である。裁判は朝鮮に常駐するような性格の役職ではなく、両国を往来して折衝と調停にあたるものであった。しかし外交交渉にあたることが頻発すれば倭館に長く滞在する事もあった。
東館の館守家、開市大庁、裁判屋をあわせて三大庁といった。東館には三大庁の他に東向寺や通詞屋、神社、代官家、酒家、傳語官家、交隣閣、禁徒家などが設置されていた。このうち東向寺、代官家、通詞屋、禁徒家について以下にまとめる。
(?)東向寺
草梁倭館期の東向寺の所在とその景観、そしてその地、明治期の状況については『釜山府史原稿』に次のように書かれている。
中山即ち竜頭山の北にありて東に向ひ建つとあり。試に「倭館図」を見るに本文の北は東北を云えるものにしていま常盤町「税関倶楽部」の付近に建てり。而して此の地一帯は明治九年頃まで民家一も存する草莱の丘阜たりき。但し東向寺の眺望は本文に見ゆる如く前に五六島を望み明月の夜は一入の佳景なりしこと象胥紀聞等にも嘖々傳へらる。又東向寺の晩鐘は草梁八景の一として著名なりき。
この記事により、東向寺の位置は、常盤町「税関クラブ」とあり、写真帳にその位置が確認できる。
東向寺から五六島を望むことができたことや、丘阜であったと書かれていることから、東向寺は平地に建てられていたのではなく、少し小高いところにあったことがわかる。倭館は竜頭山を取り巻くように設置されていたので結構起伏に富んだ地形であったのではないかと推測される。
東向寺には対馬から2人の出家した僧が渡り、葬祭の仕事をしたと『朝鮮物語』に書かれている。東向寺はもともと豆毛浦倭館の時に建立されたものであるが、草梁倭館への移館時に一緒に移された。そのことは『釜山府史原稿』に次のように記されている。
豆毛浦の日本人居住地に「東向寺」を建立せり。斯て豆毛浦倭館は建置六〇余年後今の釜山所謂草梁に移館せらるヽや東向寺も亦移りて竜頭山東麓に再建せらる。
東向寺は日本人が建立した寺である。白華山、臨済宗。なぜ日本人はわざわざ倭館に寺を建立したのだろうか。東向寺には2人の僧が居住しており、葬祭の仕事をしたと先に記したが、それだけが倭館に寺が存在した理由ではなかった。釜山の倭館に寺があった理由は『釜山府史原稿』に次のように書かれている。
・・・足利時代以降日本の朝鮮と交際する外交文書は将軍にありては京都五山の僧
れを管し、鎌倉時代は鎌倉五山僧管掌す。宗対馬島守にありては三浦倭館時代は対馬島「梅林寺」の僧及び三浦駐派の僧之れを分管し、而して文禄役前後は京都五山より対馬島へ駐派せる西山寺僧(玄蘇)之を専管し其後尚ほ以酊庵僧を釜山に駐派し更に之を分掌せしむ。是れ即ち釜山浦に東向寺を建立せる縁起なりとす。
当時日本と朝鮮が外交する上で外交文書の勘案・記録を担当したのが、東向寺僧であった。朝鮮側の資料では、「書僧倭」。近世において漢文を媒介としたコミュニケーションに務めることで、柳川一件などで露顕した通詞の暗躍・暴挙を幕府側の思惑で自由にコントロールすることにあった。
<東向寺の財政、東向寺の機能、東向寺の組織、東向寺の規則、東向寺の位置、東向寺の構造などなど>
1936年の10月21日から3日間、釜山第二小学校の講堂を会場として、釜山考古会創立5周年を記念する考古資料展覧会が開催されたことである23)。展覧会の準備は、竹下隆平を委員長とし、楠田斧三郎・濱田俊象・松尾孝平・河野可成が協力し、以下のような展示が行われた(括弧内の氏名は展示担当責任者)。
「海山楼」名額(松尾孝平)/釜山に於ける初期学校関係資料(吉田新一)/瀛仙町貝塚関係資料(濱田俊象)/書堂関係資料(三光迪)/東向寺関係資料(河野可成)/釜山窯関係資料(竹下隆平)/朝鮮瓦の変遷(竹下隆平)/龍頭山神社資料(後藤薫樹)/釜山郵逓司関連資料(吉田新一?)/永嘉台および済南楼関係資料(松尾孝平)/天主教関係資料(楠田斧三郎)/倭城址図(原田二郎)/約條制礼碑関係資料(河野可成)
石橋謙吉1938「児童博物館の考古性」『釜山随筆 釜山考古会五周年記念号』、pp.55-57、釜山随筆社
■『両国往復書謄』(WA1-6-36, 37)
倭館を通過するすべての外交文書は、倭館東向寺の僧侶により記録され、『両国往復書謄』の形でまとめられました。他の資料はくずし字で書かれていますが、これは公文書の写しなので楷書で書かれ、文字の高下や点画の体裁に至るまで再現されています。
さらに、今回の資料調査を通して新たに知ることができた、釜山考古会による研究資料の公開・保存活動としては、1935年におこなわれた、古蹟地への木製標柱の樹立をあげることができる。その詳細について述べた大曲美太郎の寄稿文〔大曲1935d〕によれば、標柱が立てられたのは、瀛仙町貝塚、永嘉台、東向寺址、御茶碗窯址の計4ヶ所である。まず瀛仙町貝塚は、1929年に会員の豊田八郎が発見し、後に浜田耕作が注目して有光教一によって出土遺物の報告がなされ〔有光1936〕、釜山考古会の評価を高めた遺跡である。1636年に船溜を掘削した際に余った土を積み、その上に楼亭がつくられた永嘉台は、朝鮮通信使が出発する時に風神や海神を祀って海路の安全と平穏を祈った場所であった。東向寺址と御茶碗窯址は、草梁倭館内にあった施設である。東向寺は1678年から1876年まで続いた寺院で、釜山考古会会員であった知恩寺の大田秀山が所有していた東向寺の過去帳の写しは、1936年の釜山考古会5周年記念展覧会に出品された。また1941年には、東向寺で用いられていた萬治三年銘手洗鉢が発見され、知恩寺に寄附された4)。江戸時代に対馬藩が倭館内に設けた陶器の窯跡である御茶碗窯址は、浅川伯教の研究をもとに大曲美太郎も研究をおこなっており〔1938b〕、さらに1941年には大曲が発掘をしている5)。
http://hb3.seikyou.ne.jp/home/Hideo.Yoshii/colonial/kakentop.html
(報告書)文部科学研究費補助金(基盤研究(C))「植民地朝鮮における考古学的調査の再検討」(課題番号15520477)
植民地朝鮮における考古学的調査の再検討
吉井秀夫著
3 釜山考古会とその活動について再考
はじめに
(1) 釜山考古会に関する新資料の概要
(2)釜山考古会の活動再考
(3)会員の動向の検討
おわりに


坐禅堂 釈迦如来
草梁倭館東向寺本尊
李朝時代前期
西山寺所蔵
次に代官家、通詞屋、禁徒家についてである。代官家は一つではなく東館に複数存在した。禁徒家は船倉の近くにあった。通詞屋の正確な位置はわからない。代官家とは代官倭という役職の人間が、通詞屋とは通詞倭という役職の人間が、そして禁徒家とは禁徒倭という役職の人間が仕事をしていたところである。代官倭とは公貿易、私貿易の売買交渉やその決済、朝鮮側からの物品の受け取りなど、主に経済面を担当した。その起源は館守よりも古い。通詞倭は朝鮮語の通訳を担当した者であり3年交代であった。また禁徒倭とは倭館内を取り締まる警察のような役目で、22人いた。その内訳は都頭禁徒1人、都禁徒2人、別禁徒4人、中禁徒1人、その他は小禁徒であった。
西館には東館にくらべて主要な建物がみあたらないが次のようなものが存在した。西館には三大庁と六行廊が設置されていた。三大庁とは副特船、第一船、参判屋という使節団の宿泊所となったところである。参判屋とは日本の外交使節である参判使が宿泊した。この建築物は朝鮮様式であったが、実際の造営にあたったのは朝鮮の建築をよく知らない日本の技術者であった。そのため朝鮮にはない式台があるなど、日本と朝鮮の折衷様式になっていた。
なお釜山日本人居留地に居留日本人の子弟にために建設された修斉学校(明治13年7月開学)は、
「創設せる学校は修斉学校と称し、校舎は即ち明治13年4月、釜山第1次の領事として来任せる近藤真鋤が時の東莱府使洪祐昌と協定し、西館付属の三大庁即ち参判官家(中大庁)第1船正官家(東大庁)副時正官家(西大庁)等を二百金にて朝鮮政府より買収せんとし、朝鮮政府の希望により永代借受の契約を為せる一家屋、即ち、西大庁なる副特送使の旅館たりし所謂、副特正官家の本屋を改造修理し、以て充当せり。斯て、改造修理の成るや、是歳、七月一日を以て開校授業を始む。」(都甲玄郷編『釜山府史原稿6』、376頁)
というように、倭館の経済機能を担当した西大庁址であった。この西大庁址の住所は、西
町1丁目5番地である。
一方、参判官家は東本願寺別院として利用された。(都甲玄郷編『釜山府史原稿6』、376頁)
東館と西館の建築物のうち、館守家、代官屋、東向寺は明治6年まで現存していたことがわかっている(4)。しかしそれ以外の建物は明治6年の時点で大破してしまっていた。
(?)宴大庁
六尺の塀に囲まれ、竜頭山に東西に分けられた東館と西館の北側には饗応場(宴享大庁)が設置されていた(5)。対馬から来た使節団は公式的に饗応場において朝鮮側による接待をうけた。
宴大庁の建設負担は、朝鮮王朝側であったので、『増正交隣志』の記述から紹介する。
「宴大庁 (三十五間、各送使倭接宴処、丹■)、公須間(二十八間)、大門(三間)、中門(一間半)、曲墻(四十一間三尺、墻有小門)、外三(三間)」
とある。対馬側の記録では、『草梁話集』の記事を紹介する。
「宴大庁
正門の右手に伏兵所あり。正門は三間半なり。
正門の左右は石垣にして、左は六間。右は十四間半、奥行き三十三間なり。
正門を入りて、石畳有之。これを行きつまれば、石段あり。
宴大庁は十三間半にして、奥行きは五間五尺の家なり。
右方に三房ありて北は府使の居間中は板の間、南は釜山僉使の居間なり。宴大庁の左手裏に軍官の居間有之、宴大庁の裏は膳部所有之。其の裏には三韓(?)の門あり。右は東莱の書手、左は釜山の書手と有之。」
とある。
饗応場(宴享大庁)について『朝鮮物語』には次のように書かれている。
一、日本館之広サ五百間ニ三百間程之屋敷ニて、其内小山なとも御座候、右之屋敷を一曲輪ニシテ東之方ニ門有之、是ハ常々出入之門也、北之方ニ門有之、是ハ日本人を饗応等仕時屋敷ヨリ北之門江出饗応場へ参なり、右に申北之門ヨリ饗応場江間壱町程有之事
一、饗応場も百間四方程之屋敷ニて、夫々家を段々立たる者なり
『朝鮮物語』には饗応場(宴享大庁)の大きさは百間四方と書かれているが武田勝蔵著『日
鮮貿易史上の三浦と和館』には「宴享大廳三十五間」と書かれている。この両者の違いは
饗応場という‘場’つまり敷地の広さが百間四方で、宴享大庁という‘建物’が三十五間
ではないかと推測することができる。このように考えれば二つ史料の記述の違いにも納得
がいくが、あくまで推測である。
饗応場の図 倭館関連図1
『草梁話集』には、
「宴享の次第
宴享の節、人馬は東莱、釜山近村、或は五里、十里つゞ之所より廻り廻り之を出す。
内■将類の人の膳部、是れ又村々にて賄之通ひに軍官は大侍牧場の辺より廻り廻り相勤む。
府使東莱より少人数にて下来有之。小童までも帰りの節は設門より暇を貰ひ、 小童一両人相附く。
府使大庁の着の上、別軍官、此の近所を馬上に致巡視附、京接慰官、接待の節は、府使下に被着。常例は釜山と二人也。
早飯の間者、支待色、庫直、日々相詰まる。膳部掛也。釜山僉使は設門まで馬上にて帰る。」
とある。
また饗応場(宴享大庁)における慰労の宴の内容については、『朝鮮物語』に次のように
書かれている。
一、饗応之儀、飯をハ出シ不申候、只菓子酒肴計ニて段々饗応御座候事
一、毎年初之使者は双方之安否なとを問、或ハ書中なとも有之、饗応計御座候、且又二番目之使者ヨリ馳走に女楽有之候、女楽之人柄ハ東莱之傾国来て女楽を仕候、女楽之節者段々之囃子方也、楽器は十二弦琴・九弦琴・太鼓・鼓・笛・鉢等ニ而囃子申候事
この女楽のレパートリーに関しては、
以上接待を受ける饗応場(宴享大庁)について書いたが、日本からの使者は接待を受
けに饗応場(宴享大庁)へ行く前にしなければならないことがあった。それは設門内(
今の釜山溘州洞)にある客舎に行って李朝王の位牌を礼拝することである。客舎の構造
と客舎での粛拝の様子については『朝鮮物語』に次のように書かれている。
一、饗応場ヨリ日本道半里計往而、祥所と云者有、拝所者是も屋敷有て門を二ツ入、左候而がんぎを上り、其上に壇有、夫江朝鮮之敷物なと敷候而、朝鮮王を拝させ申所也、其拝所ヨリ五十間計上ニ楼閣有て額を打有之、其額に殿之字書て御座候、朝鮮王之殿と云事也
このことから客舎の位置は饗応場から半里(約2km)のところにあり、客舎には2つ
の門(その一つは松粛門:図参照)があることがわかる。また拝所から50間離れたと
ころに楼閣があって、その楼閣には殿の字が書かれた額が打ちつけられていた。釜山の
草梁倭館では遠く離れた漢城の朝鮮王を拝すことができないことから、朝鮮王の殿たる
場所で、もしくはその殿に向かって拝することで朝鮮王に拝謁する代わりをしただろう
ことがうかがえる。
客舎の様子と礼拝方法については武田勝蔵著『日鮮貿易史上の三浦と和館』により詳
しく次のように説明されている。
(宴享大庁)より半里程隔りて、客舎即ち殿牌奉安所あり、正廳及東西軒四十四間
にして、中門、左右翼廊備はり、楼閣式の建築にて白粉を以て塗られてある。是れ
国王遥拝所で、各船の使者は必ずこゝに来り禮拝する定で、其の時は東莱釜山の兩
令立座で燃燭上香して拝するのである。
客舎は殿碑を奉安する場所で建築様式は楼閣式であり、白粉を塗られた白い建物であ
ったことがわかる。ここででてくる「兩令立座」とは立ち膝で向かい合って礼をする礼式である。
客舎の大きさは『草梁話集』、武田勝蔵著『日鮮貿易史上の三浦と和館』には正廳及東
西軒四十四間と書かれており、『朝鮮東莱府誌』十七、草梁公廨条には客舎三十三間 大
門三間 中門三間と書かれている。この大きさは当時の両班の住居と比較してみても非
常に大きなものであることがわかる。それだけ大きな建築物を造り、住むことを朝鮮側
が認めていたことから、朝鮮における倭館がどのような存在であったかがうかがえる。
ここで一言触れておくが、倭館における建築物等の諸費用は朝鮮側が負担していた。
日本からの使者は釜山に到着するとまず客舎に赴き朝鮮王の牌に向かって礼拝をした。
その礼拝作法は香を焚き、両者が向かい合って座る兩令立座であった。客舎における礼拝が終わると日本側使節団一行は饗応場(宴享大庁)へと案内され、そこで朝鮮側による慰労の宴が催され接待を受けた。饗応場(宴享大庁)は六尺の塀に囲まれた、東館・西館の北に建てられていたと先に記した。では客舎はどこに建てられていて、どのような構造をしていたのであろうか。
客舎の図
因みに宴大庁は「公立第1尋常小学校」付近に位置したという。
(??)坂の下
日本資料に見える「坂の下」とは、韓国資料に見える「草梁客舎」に該当するが、この客舎の中は、単独の建物が存在していたわけではない。5つの建物によって構成されたコンプレックスである。
それは饗応場(宴享大庁)よりもさらに北にあった嘗て坂ノ下村とよばれた場所に存在した。(6)坂ノ下村は東莱府の南25里、草梁倭館の北5里の辺りにあった。ただしここでの距離は朝鮮里であり、先に記したとおり朝鮮里は日本里の10分の1の長さである。
坂ノ下村には客舎(粛拝所)を中心として、誠信堂、 日軒(別差庁)、柔遠館などの付属廨群があった。
誠信堂:釜山公立普通学校から若干山側。瀛州町668番地
出典:1,「攷事問答」、2,朝鮮帰好余録
なかでも誠信堂は折衝の第一線に立つ訓導が勤務した朝鮮側の外交機関である。訓導とは日本人を接待したり、訳学の学生を教えたりしていた役職である。その任期は2年半であった。また訓導は率賊13名とともに誠信堂で勤務していた。その内訳は書手1人、陪通事2人、小童2人、紫軍2人、走り番1人、飯たき老女1人、馬人1人であった。一方別差庁の別差とは問情と訳学(日本語)を専管とするのをその職分とした。また日本人が墓参りのため、旧館に出入するときに監理をすることもあった。任期は1年交代であった。朝鮮側の役人である訓導と別差を一括総称して任官という職名で呼ぶこともあった。柔遠堂は判事家にあった。この判事家とは出使庁のことである。柔遠館という名の由来については『朝鮮物語』に次のように書かれている。
遠第等堂と有之候、遠来寺をやすんする之心也、額を打有之候事
客舎は坂ノ下村の一画にあり、それよりすこし南に離れたところに誠信堂、そしてその南東に接して 日軒(別差庁)とがあった。(図4参照)
坂ノ下村にはこの他に祠と伏兵幕、そして設門と設門の番人の家があった。そのことは『草梁話集』の次の文からわかる。
任所之上ニ少(小)キ祠有之、常ニ高堂ト云、又山神霊と云、任官到任之砌祭之此神躰
を白仏と云伝、任所ニ変有時者顕候事有之と云、常ニ出候事決而無之、任官病等之節此神
を祈候得者其験有候由
此上ニ伏兵番所有之、館内船見之者此山之上者時々登往来差支無之由
一設門之事 ・・・番者役門之側ニ家を建家内召連住居し、
坂ノ下村の祠は高堂、または山神霊と呼ばれ、そこには白仏という神躰が祀られていたことがわかる。
設門:草梁町571番地(中国料理店恰興園に向かって、左側):この設門から山側に向かって石壁が伸びていた。
草梁客舎:別名、「大東館」。釜山公立普通学校が、その址。
出典:黒田全権大使「使鮮日記」(1876年1月)、および『朝鮮帰好余録』
。
次に六尺の塀に囲まれた東館・西館から坂ノ下村まではどのようにつながっていたのか、その道と周りの様子についてまとめる。このことについては『草梁話集』に詳しく書かれている。
一、道法之事
・・・守門外者畠有之所迄ニ而、畑之辺者何方も畑主より道作いたし、畑無之所者旧草梁峙之辺より分領を以段々作り候由
但、畑主より道作り致候而連々ニ道を切崩し畑を広メ候而、道幅自然与狭く相成、館近所本道之分ハ幅凡九尺与心得居候事
営纏之坂右之山をニツ嶽と日本人申伝へ、朝鮮人ハ営纏峠与申候由
右峠を越し浜辺迄営纏之炭小屋有之、又碁石浜と云有之
任所へ越し候坂より右之方へ昔之道古道有之、浜辺二者古キ石稗(碑)有之
守門の外は畑がつづいていたが、畑主が次々に畑を作っていったため、この道はだんだん切り崩されていった。そのため守門からの道は自然と狭くなっていったという。館に近いところの道の幅は約9尺だったと記されている。
次に出てくるのは営纏之坂と呼ばれる峠道である。営纏之坂というは日本人の呼び方で、朝鮮人は営纏峠と呼んでいたという。この営纏之坂の右側には二ツ嶽があった。この二ツ嶽は二ツ岳、または双岳とも呼ばれていた。嘗てこの辺りは狭い峠道だけが通じた辺鄙な土地柄で、日朝両国の罪人が処刑されたところだという。倭館における罪人とは交奸や領界越境をした者以外に『草梁話集』には「凡関市特誼譁失礼者□軽重論罪事」、「凡宴享時如有不法之類則従重科罪之事」と書かれている。また『象胥紀聞』にも刑罰について詳しく書かれており、逆賊ノ刑や死刑執行の時期、方法、その他に流刑や杖刑のことについて触れている。
処刑が行われたこの地は1876年に締結された江華島条約によって日本の専管居留地となった。1908年よりこれを開鑿して釜山港を埋め立て、現在の関釜連絡船の発着する第一埠頭の辺りが築かれたといわれる。
二ツ岳を越えると浜辺まで営纏之炭小屋があった。またその辺りの浜を碁石浜といった。『釜山草梁客舎日本使節接待図屏風』をみるとこの辺りには釜山鎮や開雲鎮や豆毛鎮といった建物が描かれている。このことに関しては『草梁話集』に「釜山多太浦、西平、開雲浦、豆毛浦、包伊浦、西生浦是を七鎮と云 釜山を主鎮と云由」と書かれている。また「一、六処伏兵 釜山ノ開雲浦 水営ノ包伊浦 尉山ノ西生浦 釜山ノ豆毛浦 多太浦 多太ノ西平浦 右五ヶ所ハ館外二有之、一所ハ任所之上二有之」ともある。
釜山の浜際には豊臣秀吉による壬辰・丁酉倭乱のときに築かれた倭城があるという。『朝鮮物語』には「一、・・・(釜山浜際の城は)一方ハ沼、一方ハ田、一方ハ海ニテ御座候 一、右釜山之城之上手ニ亦城有、是をも日本城ニて今ハ明き城ニ而御座候、城内ニ古キ墓とも多ク相見へ候、朝鮮陣時分ニ死たる者之墓と相見候事」とある。また「一、東莱ニも城有之、・・・城ハ是も日本城之よし候事」とも記されている。
任所へとつづく坂の隣には昔の道である古道があり、その古道の近くの浜辺には石碑が立てられていた。石碑については『朝鮮物語』につぎのように記されている。
一、日本館より日本の道一里半計先キニ石碑 如此なるを立置候而、是ヨリ先へ不参
様ニと書付切置候、依之日本人夫ヨリ先へ参候儀不相成候、尤石碑之銘ニモ日本人不参様二と有之候事
このことから、石碑は朝鮮において日本人が行動できる範囲を決定し、それより外に出られないように朝鮮側が設置していたことがわかる。日本の者が倭館の外に出るときは、通行札の持参が義務付けられており、みだりに出ることは制限されていた。ましてやその外側にある制限表示を越えて東莱府などに赴くことは闌出という違反行為で、厳しく規制されていた。石碑の他にも日本人の行動範囲を制限していたものがある。それは際木と呼ばれた。石碑、際木については武田勝蔵著『日鮮貿易史上の三浦と和館』において詳しく説明されている。
「新館の禁標(石碑、際木)は延賓四年に定められたが後同七年十月裁判井出彌左衛門彼と協議して、坂ノ下家際に石碑、草梁頂家際並に草梁頂川際に際木を各々建てた。(知津録)康煕十五年四月(延賓四年)に定められた彼の禁制中に、
一、日本之人、如或有標木外濫出之弊、則須即来告、以為各別處置之地事、
とあり、又天和三年に建てられた和館の禁制中にも第一ヶ條に、
一、標定界外、毋論大小事、闌出犯越者、論一罪事
とあり、一罪とは死刑の事である。序に記して置くがこの和館の禁制は全部五ヶ條であるが石に刻してあり、明治十五六年頃迄は存して居たと聞いて居る」
なお、条約によって、通例は「設門」の外に出るのは禁止(『呵止の禁』)されていたが、不文律によって、春秋の二回の彼岸には、草梁和館と古館との間の往来は自由であった。此の期間に墓参に出かける者もいたが、むしろ積極的には、
[資料??]「在館商人より、朝鮮人と商取引上売掛、代金の請求、又、貸金の受け取りなど差し迫れる用弁もあれば、彼岸展墓を差し許されたしと、重ねて願ひ出でしにつき」(『釜山府史原稿』第四編、33頁)
とある。
交易について
石碑があった辺りは倭館が移館してきたころに開市が行われ、品々が取引された。その後この場所での開市が廃止されると取引は東館の開市大庁で行われるようになった。ここで開市に関連して当時倭館において行われた朝鮮と日本の交易についてまとめる。開市に来た村の者と持ってきた商品については『草梁話集』に次のように記されている。
田浦東平村、茂山村杯と云処より焼物類持参、大峙牧場辺よりハ縄俵持参、東莱釜山及
古館坂之下之者共生糸、紬、木綿其外諸品雑物等も持参、又田舎者釜山へ木綿類持参
逆に日本から朝鮮に持って行った品々については『朝鮮物語』次のように記されている。
一、・・・先ハ水牛角、是は阿蘭陀船ヨリ長崎二て買得羅被仕、銅・ちうじやく・とたん・錫・めうはん、又日本ニ而多候塗物焼物なとをも遣し被下候、胡椒・すほう此ニ色なとも夷国ヨリ相求遣シ被申候
日本が朝鮮に水牛角を持って行ったということは朝鮮において水牛角に対する需要があったことを意味しているが、朝鮮側が水牛角を欲しがる理由については『朝鮮物語』に次のように書かれている。
一、朝鮮ニハ水牛無之候、殊之外水牛をほしがり候、水牛ニ而半弓をこしらへ申候、・・・水牛参候ハねハ半弓何共不相成と而ほしがり候事
つまり朝鮮側は弓を作るために水牛角が必要であるが、朝鮮にはそれがないので日本か
ら輸入していたのである。まためうはん(みょうばん)は紅として利用されるため需要があった。
『朝鮮物語』は当時の朝鮮の貿易事情にも触れており、「一、阿蘭陀船ハ朝鮮へ参不申候事 一、砂糖ハ朝鮮ニ無御座候事」と説明されている。朝鮮に砂糖がないと記述がされているということは日本が砂糖貿易により朝鮮で利益があげられることを示しているが、実際日本から朝鮮に砂糖が輸出されていた。朝鮮にはオランダ船が来なかったため、日本がオランダから買い付けた砂糖などの品が朝鮮へと売られていたのである。つまり当時大部分の商品の流れはヨーロッパ→日本→朝鮮となっていた。
朝鮮・日本間の貿易には先にも少し触れたが、進上・回賜、公貿易、私貿易に分類されていた。このうち進上によって日本から朝鮮に送られた物の中には胡椒、明礬、丹木といった東アジア原産の物が多かった。これらの物は朝鮮で大きな需要があり、日本を経由して朝鮮国内に供給されていた。特に胡椒は調味料として珍重されてはいたが、それ以上に薬用として大きな役割を果たしていた。庶民に至るまで嗜好品として普及するようなものではなく、専ら薬用として利用されたため非常に高価であり、重要な価値を有していた。そのため日本と取引を行い確実に確保していたことがわかる。
一般的に朝鮮に唐辛子が普及した理由は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の時に兵士によって持ち込まれ、それが朝鮮国民に広く接触する契機となって全国に波及したといわれている。しかしここで注意することは、唐辛子が決して胡椒の代替的嗜好品として庶民に広まったのではないということである。上述したように胡椒は調味料としても利用されてたが、薬用として重要視されていたのであった。またそれは非常に高価なものであって、庶民にはとても手の届かない貴重品であったといえる。このことから唐辛子は胡椒の代替品として朝鮮社会に根付いたのではなく、むしろその安価さ故にそのような嗜好品として受け入れられたという一面をもっているのである。
公貿易で日本から朝鮮に輸出される物は銅、鑞といった日本国内の鉱産物が主であった。これは鉱産資源に乏しい朝鮮が銃筒、火器などの軍需兵器を作るための鋳造原料のとして日本の鉱産資源を必要としていたからである。これは先に触れた弓を作るために日本から水牛角を輸入していたことにも見られる。一方朝鮮から日本に入った物は公木(木綿)であった。これは日本で朝鮮の木綿が重要な被服原料として需要が高かったためである。
門、その他について
ここでは草梁倭館に関する史料からわかる倭館にあった門とその他倭館の周囲の状況についてまとめる。倭館には設門(7)、東門、北門、水門が存在した。六尺の塀の東、北、南にそれぞれ東門、北門、南門があったが、後に西にも柵門が設置され、ここから居留民は草梁原に遊びに出かけた。これらの門の他にも『釜山草梁客舎日本使節接待図屏風』をみると人生門、晴門、南門という門が描かれているが、ここでは設門、東門、北門、水門の4つの門についてまとめる。
日本の使者は釜山の草梁倭館に到着するとまず坂ノ下村にある客舎に往き、朝鮮王の位牌に向かって粛拝をすることは先に記したが、その客舎は設門内にあった。この設門は坂ノ下村の北に位置した。つまり坂ノ下村は北は山裾を設門で限られ、南は客舎や任館があったことになる。
設門は『草梁話集』に設門と書かれていることからサイモンと読むのが正しいと思われる。米谷均著『雨森芳洲の対朝鮮外交―「誠信之交」の理念と実態―』において際門(設門)という表記がみられる。このことから設門とは際門の意で使われていたことがうかがえる。際の字は先に記した「際木」から考えるに日本人の移動制限、移動可能領域を表すものだといえる。そのように考えてみると倭館の北にある坂ノ下村のさらに北にある設門がサイモンと発音されるのも首肯できるのではなかろうか。(図6参照)
設門については小田省吾著『釜山の和館と設門とに就て』(『朝鮮』大正15年10号所収)に位置を中心に詳しく書かれている。これを参考にすると設門が単に門としてだけあったのではなく、厳重に日本人を取り締まるために設けられたことがわかる。設門には門に連結して長く連なる石垣があったのである。この石垣は海辺から始まり山頂にまで続く数百歩の長さを有する「石城」であった。因みにここででてくる山とは厳光山である。
『朝鮮東莱府誌』十七、草梁公廨条によると設門の大きさは三間である。また設門とは倭館の草梁項移館(1678粛宗4年)以前の旧館である豆毛浦にあった日本人墓地に詣でる日本人を取り締まるために、この年設けられたものであった。
次に北門についてであるが、この門は日本の使者が饗応場(宴享大庁)に招かれるときに通る門であった。そのためこの門は別名を宴享門、宴席門ともいった。門は東伏兵将が守っていて使者が饗応場(宴享大庁)に向かうとき以外は常に封鎖されていた。この門の鍵は朝鮮東莱の官吏が預かり管理していたと『草梁話集』に書かれている。北門(宴享門)の大きさは一間であった。(図4参照)
次に東門についてであるが、東門は別名を守門といった(8)。この門は先にも記した通り、常々出入をする門である。開市が石碑のある坂の辺りから東館の開市大庁に移されてからは取引の品々の地税を守門で取り立てた。そのため守門の辺りを税庁といった。門は東莱・
釜山将校各1人と通事2人、門直2人が守り、門の鍵は釜山が管理し、東莱府使が発給した帖文を持っている者だけが出入することを許された。また夕方になると毎日釜山から軍号が送られ、それを伏兵の番兵たちに伝えたと『草梁話集』にある。東門は倭館の正門であった。それゆえ大きさが12間もあった。(図4参照)
最後に水門であるが、この門は西南側に位置し、日本人の遺体を運搬するために利用された。そのためかどうかは定かではないが、水門の別名は無常門、不浄門といった。死体の他にもゴミや排泄物を捨てるために利用されたという。鍵の管理は釜山の者がした。大きさは北門と同じ1間であった。
最後にその他草梁倭館に関することをまとめる。『朝鮮物語』によると当時朝鮮には虎が出没したことがわかる記述がある。それは倭館のあった釜山も例外ではなかった。牛馬はもちろんのこと人間まで襲われ喰われたという。虎は海や川をも泳ぎ渡り、家畜や人間に襲いかかった。人を一人喰った虎には耳に一つの切れ目があり、二人喰った虎には二つの切れ目、三人喰った虎には三つの切れ目があったと記されている。虎のことをこのように考えていたことはいかに虎を怪物のように恐れていたかということをうかがえる。またこのような虎に関する記述が少なくないことや朝鮮から日本への輸出品に虎製品が多いことから、当時朝鮮において虎が生活に身近な、少なくとも今よりは日常的な存在であったかがわかる。『朝鮮物語』によると倭館内にも虎の足跡があったため人々は恐れ、二間(約3.6m)にも及ぶ高い石垣塀を造ったと書かれている。これもまた虎が非日常的な存在ではなかったことを物語っている。
上の虎の記述に関連して『朝鮮物語』には現在では考えられないような朝鮮の状況を著している文章がある。それは次の通りである。
一,朝鮮殊之外寒国なり、釜山浦当りハ東南海ニて候処ニ其海之塩氷申候、日本二而
ハ海ナト之氷り候儀無之候、釜山浦当りニて海辺ハ皆氷り候、都ハ北故猶更寒ク御座候事
この文章から当時の朝鮮がいかに寒かったかがわかる。ソウルに東西に伸びる漢江が凍
ることは現在でも珍しくないが、それでも人が歩いて渡れるほど凍るのではない。しかし草梁倭館が存在した頃には朝鮮半島の最南端である釜山の海が凍っていたのである。そして釜山からさらに北にある漢城はそれよりもさらに寒かったと書かれている。当時の漢城(ソウル)辺りは現在のソウルでは想像もできないほど気温が低かったといえる。
陶器製造所
神社:1678年創建。
琴平神社+稲荷神社+玉垂神社+弁天社+朝比奈社+荒神社
青井哲人『植民地神社と帝国日本』2005年
結びにかえて
以上中世の朝鮮における日本の居留地たる倭館(その変遷の最後にあたる草梁倭館)の構造から建築物、地理的気候的条件、交易などをみてきた。このように詳細に、そして表面的ではなく空間的に倭館をみてきて分かることは当時の人々が現代人となんら変わらず行動していたことである。もちろん彼らの生きた時代は現代とは歴史的背景が違うし、中世という時代に生きて現代人とは違う価値観をもって生活していたことはいうまでもない。しかし例えば朝鮮側が石碑を建てて日本人の行動領域を制限せねばならないほど日本人を警戒していたことは、逆にいえば朝鮮人に警戒されるほどの行為を日本人がしてきたことを表している(倭寇の略奪や交奸事件)。いつの時代も利益を求めようとする人間がいて、その一方で自己の利益を守ろうとする者がいるのである。
倭館を設置して平和的に交易をしようと試みた経緯にはその伏線があるし、倭館を設置した後も日朝間で常に平和な関係があったとは到底いえない。朝鮮は友好的に日本を受け入れたのではなく、懐柔策として倭館設置を認めざるを得なかった。さらに倭館の建築物は朝鮮側の出資によって建てられていた。倭館をめぐっては利益追求といった功利関係と国家保全がつねに背後にあったといえよう。
いつの時代も人々は恣意的、功利的感情をもち、利益になるように行動する。それを捨象して過去をいいように表面的に捉えるだけではいけない。倭館の人々も当然欲望をもって生活を送っていた。それは朝鮮側にも当てはまる。欲望をもった生き生きとした人間の生活がいつの時代も存在し、その中で歴史が形成されてくる。倭館に関する多くの史料から倭館の建物、地理的条件などから空間の生活を詳細に究明することで、その生き生きとした人間の行動が倭館を媒介とした朝鮮、日本間に存在したと実感できるであろう。
脚注
(1)
小田省吾著『釜山の和館と設門とに就て』(『朝鮮』大正15年10号所収)には次のように書かれている。
「今此の和館のあつた地域を現在の市街に比定すると、北は大廳町東西の通路を限とし、南は南濱町の海岸に接し、西は西町四丁目の道路を限とし、東は呼崎より本町一丁目、二丁目、三丁目に至る道路を限とした。」
(2) 朝鮮物語は松原新右衛門『朝鮮物語』、大河内秀元『朝鮮物語』、木村理右衛門『朝鮮物語』が存在する。ここで利用する史料は松原新右衛門『朝鮮物語』であり、後松原新右衛門『朝鮮物語』は『朝鮮物語』と表記する。
(3) 松原新右衛門朝鮮物語の成立年代については松原孝俊・木部和昭著『松原新右衛門『朝鮮物語』・解題』の三、成立考に次のように書かれている。
「ともあれ暫定的な見通しとして、『朝鮮物語』の成立は、長門国見島への漂流事件記事を上限として元文二年(1737年)から、その下限は写本記載の宝暦三年(1753年)以前であると考えられえる。しかし後述するように松原新右衛門の名は元文五年(1740年)の漂着事件を最後に、長門は萩藩の漂着関係史料からみえなくなるので、この頃に死去したと推論すれば、本書の成立時期は、元文二年~元文五年までの三年間にさらに限定できることになるが、これはあくまでも憶測に過ぎない。」
(4)『釜山府史原稿』に次のように書かれている。
明治六年四月二十五日付在草梁公館廣津七等出仕が外務本省の花房大丞へ報告せる一条に
明信廰 頽れ居候ては修理も不相立、且御誠意を表するため二ツには今般篤と見積候処、館司家、一代官屋、旧寺の外、總て大破いたし、云々。
とあり
(5)小田省吾著『釜山の和館と設門とに就て』(『朝鮮』大正15年10号所収)に、「宴大
廳は其の向側なる今の第一公立小學校のある處にあった」とある。
(6)小田省吾著『釜山の和館と設門とに就て』(『朝鮮』大正15年10号所収)に、「古老に聞くに昔和館の東門なる守門を出で海岸に沿ふて東莱に向ふときは二つの小丘を經て坂を下る、其の坂の麓に客舎がある、其處より新草梁までを日本人は坂の下と稱したといふ。」とある。
(7)正確には設門は倭館に付属した門ではなく、東莱府が倭館の居留民を取り締まるために倭館と東莱府の間に設置したものであった。
(8)小田省吾著『釜山の和館と設門とに就て』(『朝鮮』大正15年10号所収)に、「守門は和館の通用門で、今の本町一丁目第一銀行支店の邊に於て館を圍む石壁が直角に海岸の方に屈折し、其の屈折した部分に北向に建てられてあった。」とある。
参考史料
松原新右衛門『朝鮮物語』
『草梁話集』
『釜山府史原稿』
申叔舟『海東諸国紀』
小田幾五郎『象胥紀聞』(昭和54年)村田書店
参考論文
武田勝蔵『日鮮貿易史上の三浦と和館』
米谷均『雨森芳洲の対朝鮮外交―「誠信之交」の理念と実態―』
孫承喆『《倭人作拏謄録》을 통하여 본 倭館』(港都釜山第10号所収)
金義煥『釜山倭館の職官構成とその機能について―李朝の対日政策の一理解のために―
』
信原修『「誠信堂記」をよむ』
小田省吾『釜山の和館と設門とに就て』(『朝鮮』大正15年10号所収)
信原修『雨森芳洲の僧形と還俗の間』
中西豪『朝鮮側史料に見る倭城―その観察と理解の実相―』
***************************************
(1)設門:草梁町571番地(中国料理店恰興園に向かって、左側):この設門から山側に向かって石壁が伸びていた。
(2)草梁客舎:別名、「大東館」。釜山公立普通学校が、その址。
黒田全権大使「使鮮日記」(1876年1月)
朝鮮帰好余録
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「公立小学校沿革
明治9年日韓修交條規の訂結せらるるや本邦人の家を挙げて説こうするもの漸次増加し教育の必要を感ずるに至り、明治10年初めて居留地事務所(当時は会議所と称す)の一室を割て教場に充て読書算術習字の教授を開始せり。之の実に釜山教育の萌芽なりとす、其後就て学ぶもの漸く多く忽ち教場の狭隘を告げ更に内大庁(対州侯の使者韓官吏と応接する所)の一棟を借りて教場とし次で、本願寺別院に移り漸次本邦教育上の法規に準拠し児童を教育せいも未だ小学校の体裁を為すに至らざりし、明治13年時の領事近藤真?氏の奨励尽力により官舎の払下げを得て校名を修済学校と称し同年7月に教授を開始せり。
明治21年校舎を西町1丁目(現在の商品陳列館敷地)に新築し11月修済学校及女児学校(明治18年本願寺別院設立)の両校を廃し組織を更めて府立小学校と改称し小学校令の教訓に基き修業年限を尋常高等各四カ年と定め校費の全部を居留地人民の負担となす。」(211~212頁)「明治38年、日韓昌文社」
(3)誠信堂:釜山公立普通学校から若干山側。瀛州町668番地
1,「攷事問答」
2,朝鮮帰好余録
(4)守門:本町2丁目3番地第1銀行支店(東光洞)
(5)裁判屋:本町3丁目18番地から19番地の中野商店と谷直商店
(6)東向寺:本町3丁目28番地(公立幼稚園下)がその跡。
(7)西館:西町(新昌洞)1丁目の釜山貯金管理所・東本願寺釜山別院(大覚寺)・福田醸造場。
(8)宴享門:大庁町3丁目14番地(大庁洞3街14番地)西村畳屋。
(9)宴享大庁:第1公立小学校(南一初等学校)。
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1)営繕峠:1909年まで、現在の釜山中部警察署及び中央洞一帯には海抜130尺に達する山、営繕山があった。その山を越える峠を、営繕峠と言った。
(2)この営繕山は、1909年から1912年にかけて、開発して、その前面にあった海上4万坪を埋め立てて、第1埠頭および旧釜山駅を建設した。
(3)この営繕山の別名は、「両山」あるいは「双岳」であった。この場所は、日朝外交事件における、犯罪者を処刑する処刑場であった。」(金義煥『釜山地方の地名の由来』91~92頁)
(4)訓導・別差の事務所が、現在の「蓬莱初等学校」にあった。(金義煥「李朝時代における釜山の倭館の起源と変遷」『日本文化史研究』第2号、1977年、8~9頁
(5)粛宗2年の記事
(6)粛宗3年1月5日の記事
(7)粛宗4年(1678)「自東至西二百七十二歩四尺、自南至北二百五十六歩(倭俗以六尺為一歩)」
(8)「旧代館倭五名、従倭二十五名・都禁倭三名等、先移新館、而其余館守倭等、卜物畢輸運後、移居作計、今已畢輸其物、当日移居新館、館守以下大小館倭四百五十四名、当日午時前、領付新館」『倭館移建謄録』
(9)『釜山口租界条約』「居留地の面積は、約書附図の如く、西南は、二百二十間余、西北は二百七十九間半余、東北は三百四十間六合五勺程、東南は四百十五間二合五勺程である」
(10)東本願寺(大谷派本願寺)釜山別院:今の釜山市中区昌善洞の大覚寺
(11)
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倭館関係論文
*高橋章之助『宗家と朝鮮』京城・北内印刷所、1920年
*武田勝蔵「日鮮貿易史上の三浦と和館」『史学』1-3、1922年
*小田省吾「釜山の倭館と説門に就いて」『朝鮮』第125号、1925年
*小田省吾「李氏朝鮮時代に於ける倭館の変遷就中影島倭館に就いて」『朝鮮支那文化の研究』1929年
*李鉉宗「李朝倭館略考」『成均』第7号、成均館大学校、1956年
*金容旭「釜山倭館考」『韓日文化』1-2、釜山大学校韓日文化研究所、1962年
*李完永「東莱府及び倭館の行政小考」『港都釜山』第2号、釜山市史編纂委員会、11963年
*崔永植「釜山倭館の職官考」『朴元杓先生回甲記念釜山市研究論叢』1970年
*金鐘旭「倭館考ーー釜山豆毛浦倭館から草梁倭館まで」(上・下)『国会図書館報』11・2(通巻97・98)、1974年
*金鐘旭「移館考ーー草梁倭館の成立始末」『日本研究』8月号、1974年
*崔永キ「鄭善の東莱府接倭使図」『考古美術』129・130、1976年
*田代和生「釜山倭館の設置と機能」『近世日朝通交貿易史の研究』創文社、1981年
*金義煥「『倭館事考』について」『日本文化史研究』第5号、1983年
*金義煥「釜山倭館貿易の研究」『朝鮮学報』第127号、1988年
*李源均「朝鮮前期釜山倭館に対して」『釜山水産大学・人文科学論文集』第48号、1992年
*長郷嘉壽「対馬と倭館を結んだ御関所御用飛船について」『水邨朴永錫教授華甲記念韓国史学論叢』下、1992年
*加藤十握「『愚塵吐想』翻刻」『厳原町資料館所蔵古典籍目録』1994年、132-147頁
*韓文鐘「朝鮮前期の対馬島敬差官」『全北史学』第15号、1992年
*金義煥「『倭人作孥謄録』について」『日本文化史研究』第16号、1992年
*孫承テツ「『釜山作孥謄録』をとおして見た倭館」『港都釜山』第10号、1993年
*ジェームス・ロイス「朝鮮後期釜山倭館の記録を通して見た朝日関係」『韓日関係史研究』第6号、1996年
*李恵真「17世紀後半朝日外交における裁判差倭成立の外交的対応」『韓日関係史研究』第8号、1998年