前権中納言藤原伊房は天喜5年 (1958)右少弁に任ぜら れ、左少弁⇒権左中弁⇒蔵人頭⇒左中弁⇒参議右大弁⇒左大弁を経て、承暦4年 (1080)に権中納言に昇進した。
権大納言藤原行成の孫であり、父は参議藤原行経の藤原伊房は寛治8年5月契丹人の国遠との私貿易が発覚して権中納言職停止の処分を受けた(『中右記』嘉保元年五月二五日条)。
この私貿易の仕組みが興味深い。
前権中納言藤原伊房は天喜5年 (1958)右少弁に任ぜら れ、左少弁⇒権左中弁⇒蔵人頭⇒左中弁⇒参議右大弁⇒左大弁を経て、承暦4年 (1080)に権中納言に昇進した。
権大納言藤原行成の孫であり、父は参議藤原行経の藤原伊房は寛治8年5月契丹人の国遠との私貿易が発覚して権中納言職停止の処分を受けた(『中右記』嘉保元年五月二五日条)。
この私貿易の仕組みが興味深い。
森公章氏の著「唐物・南島産品と小野宮流・御堂」に掲載された「藤原道長執政期以降の大宰府官長一覧」は素晴らしい労作である。多くの方々に知っていただきたいので、あえて転載する。
誤りが多々あるので、必ず原論文にあたって確認してほしい。
正暦2・1・27任:大弐藤原佐理*〜長徳1・10・18停任
長徳1・10・28任:大弐藤原有国#〜長保2 (長徳2・4・24任:権帥藤原伊周*〜長徳3・4・8)
長保3・1・24任:権帥平惟仲#〜寛弘1・12・28停任
寛弘1・12・28任:大弐藤原高遠*〜寛弘6・8・14停任
寛弘7・2・16任:大弐平親信#〜長和3・11辞任
長和3・11・7任:権帥藤原隆家*〜寛仁3・12辞任
寛仁3・12・21任:権帥藤原行成#〜寛仁4・11辞任
寛仁4・11・29任:権帥源経房#〜治安3・11・2薨
治安3・12・15任:藤原惟憲#〜長元2・5・4応召
長元2・1・24任:権帥源道方#〜長元6・12辞任
長元6・12・30任:権帥藤原実成〜長暦1・10停任(→2・1:除名)
長暦1・8・9任:権帥藤原隆家*〜長久2
長久3・1・29任:権帥藤原重尹〜永承1・2・26停任
永承1・2・26任:権帥藤原経通*〜永承5・5辞任
永承5・9・17任:大弐源資通〜天喜2・11・28辞任
天喜2・12・6任:大弐高階成章#〜康平1・2・16薨
康平1・4・25任:権帥藤原経輔〜康平6・2・27停任
康平6・2・27任:大弐藤原師成〜治暦3・2・12辞任
治暦3・7・1任:大弐藤原顕家*#〜延久3・3辞任
延久3・4・9任:大弐藤原良基〜承保2・④・19薨
承保2・6・13見:大弐藤原経平*&〜承暦3カ
承暦4・1・28任:権帥藤原資仲*&〜応徳1・4辞任
応徳1・6・23任:大弐藤原実政〜寛治2・?辞(→11・28:伊豆配流)
寛治2・8・29任:権帥藤原伊房〜寛治6・7・18入洛
寛治6・9・7任:大弐藤原長房〜嘉保1・?入洛
嘉保1・6・12任:権帥源経信〜承徳1・①・6薨
承徳1・3・24任:権帥大江匡房&〜康保4・1得替
康保4・1・23任:権帥藤原保実&〜3・4薨
康保4・6・23任:権帥藤原季仲*&〜長治2・11・1停任
嘉承1・3・11任:権帥大江匡房&〜天永1
天永2・1・23任:大弐藤原顕季&〜永久3
永久4・1・30任:権帥源基綱〜永久5・11・30薨
永久5・12・30任:権帥源重資〜保安2・⑤辞任
保安2・6・26任:大弐藤原俊忠〜保安4・7・9薨
保安4・12・20任:大弐藤原長実&〜大治3・1・24得替
大治3・1・24任:大弐藤原経忠〜長承1カ
長承2・1・29任:権帥藤原長実&〜8・19薨
長承3・2・22任:大弐藤原実光〜保延5・1得替
保延5・1・24任:権帥藤原顕頼&〜永治1・12・2辞任
永治1・12・2任:大弐平実親〜天養1・1・24辞任
天養1カ:大弐藤原重家&〜久安4カ
久安5・3・18任:大弐藤原清隆&→8・2:権帥〜仁平3・⑫・23辞任
仁平3・⑫・23任:権帥藤原忠基〜保元1・7薨
保元1・9・17任:大弐藤原忠能〜保元3・3・6薨
保元3・3・13任:藤原季行〜8・10停任
保元3・8・10任:大弐平清盛&〜永暦1・12・30辞任
永暦1・12・30任:大弐藤原成範〜応保2・4・7辞任
応保2・4・7任:権帥藤原顕時&〜長寛2・1・1辞任
長寛1・2・8任:兼大弐藤原永範〜仁安1・7・15兼任停任
仁安1・7・15任:大弐平頼盛&〜仁安3・11・28解却
仁安3・12・13任:大弐藤原信隆〜承安1・12・8止
承安1・12・8任:大弐藤原重家&〜安元2・6・17出家
安元2・12・5任:大弐藤原親房(→改名:親信)〜治承3・11・17解官
治承3・11・19任:兼権帥藤原隆季〜寿永1・3・26辞任
寿永1・3・26任:大弐藤原実清&〜寿永2・11・28解官
元暦1・3・27還任:大弐藤原実清&〜12・21出家
《文治1・7・28:源頼朝の使中原久経・藤原周平が鎮西の事を沙汰する》
文治1・10・11任:兼権帥藤原経房&〜建久1・1・24辞任
《文治2・12・10:藤原(天野)遠景を鎮西九国奉行人とする》
(備考)人名の後の記号は次の通り。*=小野宮流またはそれに近い立場の人物、#=摂関家に 近侍する者またはそれに近い立場の人物、&=院近臣。
<補記:小生も細々と「藤原道長執政期以降の大宰府官長一覧」を作成していたが、この森公章氏の力作を知り、早々と手じまいするとともに、我が遅々と進まない調査に比して、森氏のお仕事の迅速さに驚嘆した。
(1) 薩摩・大隅:方限・門
現代に残る地名の例:鹿児島県隼人町
■ 内山田地区
• 上門
• 中門
• 下門
• 新屋敷門
• 前門
• 後門
• 浜門
• 西門
• 東門
■ 神宮地区
• 宮之門
• 前門
• 後門
• 中門
• 上門
• 下門
• 新門
■ 天降川地区
• 川原門
• 田中門
• 上門
• 下門
• 中門
■ 木之房地区
• 木之房門
• 上門
• 下門
• 新屋敷門
■ 下諏訪水流(しもすわつる)地区
• 諏訪門
• 前門
• 後門
• 中門
■ 宮下地区
• 宮下門
• 上門
• 下門
■ 湯之元地区
• 湯之元門
• 浜門
• 新門
(2)壱岐:触れ・講中
国⇒郷⇒触⇒名
壱岐市芦辺町
■ 壱岐市勝本町
■ 壱岐市郷ノ浦町
■ 壱岐市石田町
(3)周防・長門:組・小村
旧萩市街周辺
• 上組
• 中組
• 下組
• 東組
• 西組
• 南組
• 北組
● 椿東・椿西地区
• 大組
• 小組
• 浜組
• 山組
● 川上・佐々並地区
• 上組
• 中組
• 下組
• 奥組
• 谷組
● むつみ地区(旧六ヶ村)
• 上組
• 下組
• 中組
■ 長門市(油谷・三隅・日置)
山間部と海岸部で組の構造が異なるのが特徴。
● 油谷地区
• 東組
• 西組
• 上組
• 下組
• 中組
● 三隅地区
• 三隅上組
• 三隅中組
• 三隅下組
● 日置地区
• 日置上組
• 日置中組
• 日置下組
■ 下関市(豊北・豊田・豊浦)
● 豊北町(旧滝部・角島・神田)
• 滝部上組
• 滝部中組
• 滝部下組
• 神田組
• 角島組
● 豊田町
• 上組
• 中組
• 下組
● 豊浦町(川棚・黒井)
• 川棚上組
• 川棚下組
• 黒井組
🌄 周防国(瀬戸内側)
■ 山口市(徳地・阿東・秋穂・小郡)
● 徳地地域(旧佐波郡)
• 上組
• 中組
• 下組
• 奥組
• 谷組
● 阿東地域(旧阿東町)
• 上組
• 中組
• 下組
● 秋穂・小郡
• 浜組
• 山組
• 上組
• 下組
■ 防府市(大道・佐野・牟礼)
大道地区は組の残存が特に多い。
● 大道地区
• 大道上組
• 大道中組
• 大道下組
• 大道浜組
• 大道山組
● 牟礼地区
• 牟礼上組
• 牟礼中組
• 牟礼下組
■ 周南市(旧都濃郡)
• 富田上組
• 富田中組
• 富田下組
• 戸田組
■ 岩国市(旧玖珂郡)
• 岩国上組
• 岩国中組
• 岩国下組
• 錦見組
• 川下組
(4)讃岐:免場・同行
① 高松平野(高松市・さぬき市・東かがわ市)
■ 高松市(旧香川郡)
• 上天神免
• 下天神免
• 檀紙免
• 円座免
• 国分寺免
• 香西免
• 木太免
• 太田免
• 三谷免
• 多肥免
高松周辺は平野が広く、免場が非常に細かく分かれていた地域です。
■ さぬき市(旧寒川・志度・長尾)
• 寒川免
• 神前免
• 造田免
• 長尾免
• 志度免
• 鴨部免
• 大川免
■ 東かがわ市(旧大川郡)
• 白鳥免
• 三本松免
• 引田免
• 湊免
• 与田免
🌾 ② 中讃(丸亀市・坂出市・善通寺市・多度津町・琴平町)
■ 丸亀市(旧丸亀藩領)
• 郡家免
• 飯山免
• 綾歌免
• 垂水免
• 本島免(塩飽諸島)
■ 坂出市
• 府中免
• 川津免
• 加茂免
• 林田免
• 瀬居免
■ 善通寺市
• 与北免
• 与南免
• 原田免
• 吉原免
■ 多度津町
• 多度津免
• 道福寺免
• 西白方免
■ 琴平町
• 琴平免
• 榎井免
🌄 ③ 西讃(観音寺市・三豊市)
■ 観音寺市(旧豊田郡)
• 観音寺免
• 大野原免
• 豊浜免
• 粟井免
• 伊吹免(伊吹島)
■ 三豊市(旧三豊郡)
• 詫間免
• 仁尾免
• 高瀬免
• 山本免
• 財田免
• 三野免
(5)紀伊:小名
■ 和歌山市(旧本村ごと)
● 雑賀・和歌浦周辺
• 雑賀小名
• 和歌浦小名
• 新和歌浦小名
• 田野小名
• 田中小名
● 直川・紀三井寺周辺
• 紀三井寺小名
• 布引小名
• 井辺小名
● 西庄・加太周辺
• 加太小名
• 西庄小名
• 磯ノ浦小名
● 海南市・有田市
• 黒江小名
• 藤白小名
• 糸我小名
● 紀の川市・岩出市
• 貴志小名
• 粉河小名
• 名手小名
● 田辺市(旧牟婁郡)
• 秋津川小名
• 上秋津小名
• 下秋津小名
• 中辺路の各小名
● 新宮市・那智勝浦町
• 三輪崎小名
• 那智小名
• 色川小名
などと呼称されてきた。
以下は、福山敏男先生や栄原永遠男先生など多数の論文を拝見して、折々にリストアップした写経事業である。まったくの調査メモであり、創見などはない。識者には陳腐にすぎないリストであることをあらかじめお断りする。
<参考論文>
*福山敏男「奈良朝に於ける写経所に関する研究」(福山敏男著作集2『寺院建 築の研究』中、所収、中央公論美術出版、1982年。初出は1932年)、
*栄原永遠男「初期写経所に関する二三 の問題」(同『奈良時代の写経と内裏』所収、塙書房、2000年。初出は1984年)
*山下有美『正倉院文書と写 経所の研究』第1章第1節(吉川弘文館、1999年)
*山本幸男「玄防将来経典と「五月一日経」の書写」(上・下)『相愛大学研究論集』 2006年など
。
<資料1>天平11年の写経事業
①百部法華経八〇〇巻、
②福寿寺大般若経六〇〇巻(天平11年3月頃か)
③五月一日経の大般若経六〇〇巻(以下、五月大般若経)
⇒参考論文 山本幸男「玄防将来経典と「五月一日経」の書写」『相愛大学研究論集』 2006年
「(光明発願の)皇后宮職管下の写経機関(写経所)で天平八年九月から開始されたこの「五月一日経」の書写は、唐・智昇撰の 『開元釈教録』による一切経一部五〇四八巻を目標として、底本(本経)には主として鼻面が将来した経典が用いら (6) 玄肪将来経典と「五月一日経」の書写 れたと解されている。写経事業は、十五年五月から『開元釈教録』には載せられない章疏も対象にして天平勝宝末年 (7) まで継続され、書写された巻数は七〇〇〇巻に及んだものと推定されている。「五月一日経」は、奈良時代の一切経 書写
<資料2>天平14年6月頃の写経事業
天平14年6月ごろから天平15年春ごろまでは、金光明寺写一切経所は福寿寺写一切経所と合併して、千手経1000巻の写経
千手経の写経は天平15年春に終了したらしい。
その終了と同時に5月1日経のみならず偽疑経、録外経などの写経も始まった。
<資料3>天平勝宝6年~7歳
大皇太后藤原宮子の菩提を 弔うための連続して行われた写経事業
①梵網経一〇〇部二〇〇巻、
②法華 経一〇〇部八〇〇巻、
③新旧華厳経各五部七〇〇巻)、
天平勝宝7歳の大納言藤原 仲麻呂の宣による二千巻経
④華厳経一〇〇〇巻
⑤観世音経一〇〇〇巻
<資料4>天平宝字2年の大規模な写経事業
天平宝字2年(合計3600巻)
①6月16日の紫微内相宣による金剛般若経一〇〇〇巻(千巻経)
②7月4日の同宣による千手千眼経一〇〇〇巻・新羂索経一 〇部二八〇巻・薬師経一二〇巻、合計一四〇〇巻(千四百巻経)
③8月16日の同宣による金剛般若経一二〇〇巻(千二百巻経、 後金剛)
<資料5>
「写千巻経所銭并衣紙等下充帳」( 13 ノ 257 ~ 260 、 260 ~ 265 、 265 ~ 266 、 371 ~ 373 、 383 ~ 384 )
①(6月 22 日条)又下手巾条五条堂料 二条曹司料( 13 ノ 258 ) 「千手千眼并新羂索薬師経料銭衣紙等納帳」(4ノ 278 ~ 280 、未修、 13 ノ 252 ~ 253 ) ②九月三日自宮来綺廾六丈一尺使宮門日野麻呂 即下紙屋受能登装(未収) 「千手千眼并新羂索薬師経料銭衣紙等下充帳」( 13 ノ 364 ~ 371 、 267 ~ 268 、 269 ~ 283 )
③(7月9日条)又下手巾伍条四条堂料充 一 十 条東曹司料充( 13 ノ 366 ) ④(8月4日条)四日下紙一万一百張(中略) 五千五十張四千百 九 張紙屋作八百廾一張麻紙七十張穀 付宍人百村又充凡紙五十張端継料 五千六十張四千三百卅一張紙屋作穀紙六百七十九張七十張綜( 13 ノ 269 )凡紙五十張端継料付綾部忍国 「後金剛般若経料雑物収納帳」( 14 ノ 71 ~ 80 )
<資料6>天平宝字四年の一三五部経の写経事業
天平宝字四年正月十一日に太師藤原仲麻呂:一百卅五部経 (法華 経・金剛般若経・理趣経各四五部、合計四五〇巻)の「御願経」の写経
<資料7>天平宝字四年の一切経の写経事業
太師藤原仲麻呂の宣にある一切経3433巻の写経事業 (「坤宮官紙墨筆及雑物送文〈太師恵美押勝宣〉」続々修1 ノ6④、 14 ノ 30 8 )。
<資料8>天平宝字4年6月7日)周忌斎一切経の写経事業
天平宝字四年六月七日に光明皇太后が崩御し、7月26日 の七七斎に向けて称讃浄土経一八〇〇巻の写経が開始。(続々修14 ノ 403 ~ 404)
<資料9>天平宝 字四年八月三日
光明皇太后の一周忌にむけて周忌斎一切経の写経事業(「後一切経料雑物納帳」続々修2 ノ6、 14 ノ 42 1 0 ~ 44 、 15 ノ 85 ~ 8 0 7 、 14 ノ 44 2 ~ 44 )、
天平宝字5年3月上旬、五三三〇巻の書写了。
劉在建(유재건)による『里郷見聞録(이향견문록)』は中人の人々の伝記を集めたもの。
したがって、これに掲載されたからとして、決して名誉ではなく、むしろカミングアウトである。画師李潤民などのエピソードを紹介する。
朝鮮後期の「中人」層の人物たちの逸話・伝記を集成した『里郷見聞録(이향견문록)』は、貴重な記録文学であり、当時の社会構造・身分秩序・文化実践を知るための一次史料として高い価値を持つ。
1. 基本情報と書誌
• 著者:劉在建(李朝後期の中人系知識人)
• 内容:中人層の人物の逸話・行状を記録した見聞録
• 性格:伝記集であり、必ずしも称賛ではなく、むしろ「カミングアウト的」な側面もあると指摘される(画師・李潤民などの逸話が紹介される)
2. 作品の位置づけ
『里郷見聞録』は、朝鮮後期の身分制度の中で独自の文化的役割を担った**中人(訳官・医官・技術官僚など)**の世界を内部から描いた稀有な資料。
特徴的な点
• 中人の自意識・文化的ネットワークが生々しく記録
• 士大夫中心の史書では見えにくい職能集団の倫理・逸話・評価軸を記述
• 逸話形式のため、社会史・文化史・職能史の素材として豊富
影印版
• 亜細亜文化社(1974)『里郷見聞録・壺山外記』
4. 研究上の意義
• 中人研究の基礎史料
中人の社会的役割・文化的活動・ネットワークを知るための一次資料。
• 朝鮮後期の都市文化・職能集団文化の復元
画師、医官、訳官などの逸話が豊富で、制度史・文化史双方に有用。
• 「逸話エピソード」という語りの形式」
逸話の選択・語り口・評価軸から、当時の価値観が読み取れる。
*中人とは何か(社会的役割の核心)
中人(중인)は、李氏朝鮮の官僚機構を支えた専門職官僚層で、行政実務・技術・情報処理を担った階層です。
• 医官・訳官・律師・天文官など、高度な専門知識を持つ職能集団
• 行政の実務を担い、郡県レベルの行政運営の中核を形成
• 高い識字率と専門スキルを持つが、両班からの差別により社会的上昇には限界があった
この「高い専門性 × 制度的な限界」という二重構造が、中人文化の独自性を生み出します。
中人ネットワーク:制度と都市が生んだ横のつながりの記述
万葉集巻14、3351番歌は、次の通り、
筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
筑波嶺に雪かも降らる否をかも愛しき児ろが布(にの)乾さるかも
[左注]右二首常陸國歌
本歌の説明をしておきたい。まず「筑波祢」の読みであるが、「TsuKu+Ha+Ne」。濁音「TsuKu+ば」ではない。筑波に関しては、割愛。
次に、歌の「にの(布)」は中央語「ぬの(布)」の東国方言。そして「降らる」にしても、本来「降れり(Fureri)」とあるべきだが、東国では「Furaru」となっている。
Fur+ia+ri⇒(ia⇒r)⇒Fureri
となるべき音の変化が「ia⇒r」ではなく、「ia⇒a」となり、狭母音の「i」脱落となっている。
さて、本歌を理解する上に、新井清氏の「古代詩歌に現れた精錬と漂白」(『奈良大学文化財学報』第2号、1-7頁、1983年)は必読論文である。
新井氏の論文に教わったことであるが、
まずは、苧麻栽培は南魚沼市HPを参考としてよいだろう。
そして、『万葉集』3351番歌の「雪かも降らる否をかも愛しき児ろが布(にの)乾さるかも」に関する箇所は、
「国指定重要無形文化財・ユネスコ無形文化遺産である南魚沼市の「越後上布」に関する情報を念頭に置くとよいだろう。
つまり、新井氏が指摘するように、「苧麻の布の雪晒し」の情景を思い浮かべて、歌を理解したい。
+++++++++++++++
<参考情報>
朝のあかあかと昇て、玉屑平上に列たる水晶白布に紅英したる景色、ものにたとへがたし。
かかる光景は、雪にまれなる暖国の風雅人に見せたくぞおもはるる。
【『北越雪譜』 巻之中 縮(ちぢみ)を曬(さら)す】

雪ざらしは、国の重要無形文化財「小千谷縮・越後上布」の指定要件の一つで、越後上布を製作する上で欠かせない重要な工程です。
冬の間に織り上げられた越後上布は、仕上げの工程にまわされます。
仕上げの工程では、製作過程でついてしまった汚れやシミ、糸を扱いやすくするためにつけた糊など落としながら、布を柔らかくし、布目を詰まらせる「足ぶみ」という工程が行われます。
その後、さらに白くする製品はよく晴れた日中、まっさらで平らな雪の上に広げます。この工程のことを「雪ざらし」といいます。雪ざらしは、太陽の熱によって雪が溶けて水蒸気になるときに、殺菌・漂白作用のある「オゾン」が発生し、これが布目をとおるときに化学反応が起きて繊維が漂白されるという効果を利用したもので、汚れやシミなどを落とし漂白し、柄をより鮮明に浮き立たせるために行われます。色や柄にもよりますが、1反の布を雪ざらしする期間は3日~10日程度です。
この雪ざらしは3月ころに行われる工程のため、古くから南魚沼地域のの春の風物詩とされてきました。

製品として人の手に渡った越後上布が、再びこの地に戻ってくることがあります。長年着用してしみついた汚れを、雪ざらしできれいにするためです。
これを、昔のひとびとは愛情をこめて「越後上布の里帰り」と呼びました。
長年着てしみついた汗ジミや、うっかり付けてしまったしょうゆジミも、雪ざらしをすることで不思議なくらいきれいに落ちます。
雪ざらしは、絹織物にはできない、麻織物ならではの天然のお洗濯なのです。
*****************
なお、焼畑は「苧麻生産のインフラ」である。焼畑文化圏を背景にして、万葉集3351番歌理解が求められることに注目したい。
「 少しのことにも、
かように、思い知らされたのが、三木六男「奈良時代における絹生産の動向」『日本シルク学会』第18号、 83-90、2010年をはじめとする一連の論文。やはり織物専門家の論文にご教示を仰ぐことなくして学問は進歩しない。
{奈良時代(八世紀)の絹生産の実態を知るた め、各地で生産,貢納された絹を調べた. 絹生産地は天平宝字年代中頃には関東から四 国・九州に分布しその数が40国を超えた. 生産された絹の主な品目は絁(あしぎぬ), 糸及び綿(真綿)の3品目で、その他の品目が ごく少なかった. 絹品目の中で単独生産が最も多いのは絁の 15 国(58%)で、3品目全部の生産地が越前,因 幡及び但馬の3国であった. 年間の絹の多量貢納は越中(綿),因幡(絁,糸, 綿),石見(綿)であった. 絹品目別の年間の絹の多量貢納は絁が参河, 糸が因幡,綿が越中であった. 桑の栽培は越中国射水郡の東大寺荘園の桑田 6 段270歩が唯一の桑園であった. 養蚕規模は越前国江沼郡の課口10人と12人 の集落の庸綿量40kgと30kgから収繭量80 kg と90 kg を算定した. 」(同上論文、89頁