2026年5月27日水曜日

参勤交代に関する学問的潮流ーー南部藩の事例を中心に

 仮に、グーグルマップで盛岡城から江戸城までを検索すると、その距離は約528kmとある。高速道路を利用すれば、6時間17分。

ときは、江戸時代。

1里=36町=約3.93kmで、江戸から盛岡宿まで奥州街道・日光街道は139里。93番目の宿場を歩くとすれば、下記の通りとなる。

盛岡 → 江戸(日本橋)

奥州街道・宿場間里数表(南下方向)

区間里数現代換算(km)
盛岡 → 日詰郡山(紫波町)5里約19.6km
日詰郡山 → 石鳥谷(花巻市)3里約11.8km
石鳥谷 → 花巻3里約11.8km
花巻 → 黒沢尻(北上市)4里約15.7km
黒沢尻 → 鬼柳(南部藩 鬼柳御番所)1里約3.9km
鬼柳 → 金ヶ崎2里約7.9km
金ヶ崎 → 水沢(奥州市)2里約7.9km
水沢 → 前沢2里約7.9km
前沢 → 山目2里約7.9km
山目 → 一関2里約7.9km
一関 → 有壁3里約11.8km
有壁 → 金成2里約7.9km
金成 → 沢辺1里約3.9km
沢辺 → 宮野1里約3.9km
宮野 → 築館2里約7.9km
築館 → 高清水2里約7.9km
高清水 → 荒谷2里約7.9km
荒谷 → 古川2里約7.9km
古川 → 三本木2里約7.9km
三本木 → 吉岡2里約7.9km
吉岡 → 富谷1里約3.9km
富谷 → 七北田2里約7.9km
七北田 → 仙台2里約7.9km
仙台 → 長町1里約3.9km
長町 → 中田2里約7.9km
中田 → 増田2里約7.9km
増田 → 岩沼2里約7.9km
岩沼 → 槻木1里約3.9km
槻木 → 船迫2里約7.9km
船迫 → 大河原1里約3.9km
大河原 → 金ヶ瀬1里約3.9km
金ヶ瀬 → 宮1里約3.9km
宮 → 白石2里約7.9km
白石 → 斎川2里約7.9km
斎川 → 越河1里約3.9km
越河 → 貝田1里約3.9km
貝田 → 藤田1里約3.9km
藤田 → 桑折2里約7.9km
桑折 → 瀬上1里約3.9km
瀬上 → 福島1里約3.9km
福島 → 清水町1里約3.9km
清水町 → 若宮1里約3.9km
若宮 → 八丁目1里約3.9km
八丁目 → 二本柳1里約3.9km
二本柳 → 二本松1里約3.9km
二本松 → 北杉田1里約3.9km
北杉田 → 南杉田1里約3.9km
南杉田 → 本宮1里約3.9km
本宮 → 高倉1里約3.9km
高倉 → 日和田1里約3.9km
日和田 → 福原1里約3.9km
福原 → 郡山1里約3.9km
郡山 → 小原田1里約3.9km
小原田 → 日出山1里約3.9km
日出山 → 笹川1里約3.9km
笹川 → 須賀川1里約3.9km
須賀川 → 笠石1里約3.9km
笠石 → 久来石1里約3.9km
久来石 → 矢吹1里約3.9km
矢吹 → 中畑新田1里約3.9km
中畑新田 → 大和久1里約3.9km
大和久 → 踏瀬1里約3.9km
踏瀬 → 太田川1里約3.9km
太田川 → 小田川1里約3.9km
小田川 → 根田1里約3.9km
根田 → 白河1里約3.9km
白河 → 白坂1里約3.9km
白坂 → 芦野2里約7.9km
芦野 → 越堀1里約3.9km
越堀 → 鍋掛1里約3.9km
鍋掛 → 大田原1里約3.9km
大田原 → 佐久山1里約3.9km
佐久山 → 喜連川2里約7.9km
喜連川 → 氏家2里約7.9km
氏家 → 白沢1里約3.9km
白沢 → 宇都宮2里約7.9km
宇都宮 → 雀宮1里約3.9km
雀宮 → 石橋1里約3.9km
石橋 → 小金井2里約7.9km
小金井 → 新田1里約3.9km
新田 → 小山1里約3.9km
小山 → 間々田1里約3.9km
間々田 → 野木1里約3.9km
野木 → 古河1里約3.9km
古河 → 中田1里約3.9km
中田 → 栗橋1里約3.9km
栗橋 → 幸手1里約3.9km
幸手 → 杉戸1里約3.9km
杉戸 → 粕壁1里約3.9km
粕壁 → 越ヶ谷1里約3.9km
越ヶ谷 → 草加1里約3.9km
草加 → 千住2里約7.9km
千住 → 日本橋2里約7.9km






この道を南部藩主は12泊13日を基準に、しかも武家諸法度の定めで旧暦4月に江戸に到着することとなっている。面高10万石格の南部藩であるので、その参勤交代のパレードを『南部藩参勤交代図巻』(28cm×30m)によってみると、藩主南部氏が居城である盛岡城を出発するときに、人物は約600人、馬が29疋、鎗は64本、鉄炮は38挺、弓は23 張が描かれている。大パレードである。

ここで大切なのは、そもそも参勤交代とは何かと問う本質論である。

① 従来型研究:「幕藩体制維持の装置」

従来、教科書的理解では、参勤交代は、

  • 江戸と領国に往復させることで各大名の反乱を防止
  • 妻子を江戸に居住させる「人質政策」
  • 巨額出費によって大名財政を圧迫し、戦費調達を阻止すること

という、徳川幕府による「国家統合システム論」的観点からのアプローチを採用してきた。

この立場では、徳川家光による「武家諸法度」(1635年)を重視し、法的制度への関心を促す。

その1. 軍役としての本質と「儀礼化」ーー近年の研究で最も重視されているのが、参勤交代  

   が「軍役」、すなわち主君(将軍)に対する軍事的な奉仕であるという側面の強調であ 

   る。それは入れ子型で、各大名にとっても、各家臣の忠誠を誓う「軍役」であった。

その2,大名行列のパレード化: 戦国時代の戦闘陣形がルーツであるが、天下泰平が進むにつれ、「実戦のための行軍」から、藩の格付けや権威を誇示するための「高度に演出された政治的儀礼」へと構造的変換。

その3,幕藩体制の可視化: 将軍への臣従を天下にアピールすると同時に、幕府側も大名を迎える儀礼を整えることで、日本全体が一つの国家秩序(公儀)のもとにあることを視覚的に示す装置だったと分析

②2000年以降の研究:「参勤交代の全国規模における情報循環システム論

現在では、参勤交代は単なる反乱防止・大名への財政的・心理的抑制メカニズムではなく、

  • 日本橋を起点とした生活・経済を支えたインフラ整備:日本橋を起点とした放射状の都市構造を基本とする「五街道」(東海道、中山道、日光街道、甲州街道及び奥州街道)や「脇街道」と呼ばれる街道整備。そして 宿場における「本陣」「脇本陣」の確立、飛脚などの通信網の発達への注目。


  • 「内需拡大」の経済システム: 莫大な旅費や江戸での滞在費(国元の米を江戸で換金して消費する行為)は、結果として江戸の巨大消費市場を潤し、地方の特産品が全国へ流通するきっかけとなった。いわば一種の「国内資源の循環システム」として機能した側面への着目である。
  • 文化の双方向性と「情報のネットワーク」

    参勤交代は、江戸と地方を連結する「文化の動脈」

    その1, 江戸文化の地方伝播: 江戸に藩邸(江戸屋敷)を構え、数年ごとに家臣や大名が往来することで、政治情勢、政治情報・徂徠学・蘭学・剣術・食文化などの江戸の最先端のファッション、そして数々の「和本(古典籍)」や物産が地方へ伝播。例えば、江戸で生産される文化広報誌浮世絵による地方でのプチ江戸文化体験やキャッチアップ。

    その2、地方文化の江戸流入: 地方の優秀な人材(学者や絵師など)が江戸の藩邸に召し抱えられ、全国的な知識人ネットワーク(文人サロン)が形成される契機となった。例えば、江戸の賀茂真淵(浜松人8代将軍徳川吉宗の次男・田安宗武の家臣)と伊勢松坂の医師・本居宣長の学的つながりの形成。

  • 地域間ネットワーク形成:例えば北前船は 物流(物)・移動(人)・情報(知) を同時      に運ぶことで、 日本海沿岸〜瀬戸内〜上方〜蝦夷地を一体化した「海の文化回廊」 構築



③ 地域史・民衆史研究

現在、江戸時代の政治、経済、交通、知のネットワーク、そして人々の生活文化が交差する「総合的な社会システム」への強い関心が向けられている。

たとえば、

  • 薩摩藩の長距離参勤
  • 加賀藩の巨大行列
  • 津軽藩の北国ルート
  • 対馬藩の朝鮮外交との関係
  • 江戸藩邸の機能
  • 物価などの経済政策・藩の赤字財政に対する資金調達と参勤交代
  • 女性(大名妻子)の江戸生活
  • 参勤交代と医療
  • 災害と街道
  • 行列文化
  • ビジュアル文化
  • 外国人の日本観察

などへも拡大して、最近の研究はグローバル化してきている。

また、デジタル・ヒューマニティーズによる、

  • 行列人数データ分析
  • GISによる移動経路解析
  • 宿泊ネットワーク解析

などへの関心も拡大している。


    






2026年5月26日火曜日

盛岡のキリシタン弾圧

 「ききりした妻子御成敗之目録」『青森県史』資料編、近世編にいよると、

南部藩において、キリシタン禁制によって、寛政13年3月までに176名のキリシタンが処罰されたと言う。


2026年5月19日火曜日

幕府勘定吟味方、根岸九郎左衛門鎮衛に関するエピソード

   『耳袋』の著者根岸鎮衛は江戸の都市文化・民俗・医療・怪異・社会風俗などの稀代のメモ魔である。

 彼の驚くべき精励さと稀有な記憶力、さらには比類ない描写力などが発揮されたのは、大身になった時ではなく、すでに幕府の非エリートである旗本時代に、彼の片鱗が表れている。

 時は、天明3年【1783)7月8日(1783年8月5日)。俗に「天明の浅間焼け」と呼称される浅間山の大噴火があった。この噴火による降灰は浅間山から200km離れた江戸ばかりではなく、400km離れた佐渡にも達したという。もちろん多数の人的被害があったばかりではなく、家屋の消失や倒壊、用水路の破壊、耕作地への火砕物堆積、さらには利根川に達する天明泥流などの被害状況が幕府にもたらされた。加えて、中山道が小諸から軽井沢・上野国に至るルートで遮断され、上京中の大名が多数足止めを食ったという。直接的に、

浅間山山腹にあった幕府の直轄地、俗称「なぎのはら」も壊滅的被害を受けたという。この時点では、天明大飢饉の発生までを予測できなかったにせよ、前代未聞の大災害であったという認識が幕府にあった。噴火直後の8月6日に現地に派遣されたのが、当時幕府勘定吟味方にあった根岸九郎左衛門鎮衛(1737―1815)であった。

この調査報告は微に入り、細に入り、その描写は卓越しており、後年、『耳袋』を執筆する片鱗をうかがわせる。メモ魔である。

その紹介は災害学に無関心な方に退屈だろうから、意を以て割愛する。

なお、根岸九郎左衛門鎮衛の出世談は、天明大飢饉・天明の打ちこわし、老中首座が田沼意次から松平定信への交代期にあたったために、その時期の世相の観察は興味深いが、後日に紹介する。







高野信司「近世の伝聞記録「耳嚢」にみる〈障害〉 : 素材と論点」は好論文

  近世の伝聞記録「耳嚢」にみる〈障害〉 : 素材と論点

Creator / Contributor
Is Part Of
障害史研究, 2023-03, Vol.4, p.31-47
Identifier
DOI: 10.15017/6779686

親の思いは一つ。元気な我が子の誕生。それは安産の神々の多さで確認できよう。しかしながら、内閣府のデータによると、不幸にも身体・知的・精神障害などを合わせると 国民の約9%が障害を有する という。確かに国際的な疫学研究では、

  • 先天異常(心疾患、染色体異常、四肢・臓器形成異常など)

  • 出生後すぐに判明する知的障害・重度発達障害

などを想定しなくてはならない。日本国民の

  • 身体障害者数(423万人)

  • 知的障害者数(126.8万人)

  • 精神障害者数(603万人) といった統計データも発表されているらしい。今、ここで私は障碍者と書いたが、その反対語を「健常者」」としていない。なにが「健常」なのかを断言できないからである。「健常者」のレッテルの下で、さまざまな残忍な非人間的な行為を平然と行うからである。その典型は戦争・殺人。                                江戸時代、幕府の高官であった根岸鎮衛が民衆を支配する為政者側からの視点で障碍者に関するメモを残した。彼は幕府のエリート層出身者ではなく、むしろ売官によって零落した御家人の株を購入して身分上昇を遂げていった人間だけに、厳しい身分社会の中で障碍者のおかれた立場は良く見聞きした。プライドだけが高いサムライとは一味違い、温かみのある視線はその出生にあった。

  • 高野信司の高論の一読をこう。



『耳袋』ーー根岸鎮衛は江戸風俗文化のメモ魔

 『耳袋』は江戸の都市文化・民俗・医療・怪異・社会観察の総合アーカイブである。著者の根岸鎮衛は江戸風俗文化のメモ魔であった。

 機会があり、カリフォルニア大学Berkeley校に足を踏み入れて、1年以上、Berkeley所蔵の旧三井文庫蔵の和本を自由に出納し、眼福を増やすことができた。戸越にあった三井文庫所蔵本(和本や浅見倫太郎旧蔵朝鮮本、拓本など)がどのような経緯で、いつ、だれの手で、いくらで購入されて、Berkeleyに送られたかに関するエピソードは、私が在Berkeley時に、その担当者エリザベス・マッキンノン女史(ElizabethMckinnon)から直接に購入経緯を詳細にうかがうことができた。彼女は東京女子高等師範学校出の美しく上品な江戸弁の使い手であった。彼女へのインタビュー録音テープとともに、彼女とやり取りをしたレターが残っている。

 なおBerkeleyをリタイアされて、San Diegoにお住いの元ライブラリアン由谷英二氏の全面的ご協力を賜った。

資料①国立国文学研究資料館調査

書籍:5,400+ タイトル(17,200+冊、明治刷り本を含む)
写本:3,700+タイトル(8,100+冊)、詠草類等4,200+枚 (明治期以降書写本を含む)
地図:約2,300 タイトル(明治期以降出版資料を含む)
一枚摺り:約1,300タイトル点(明治期以降出版資料を含む)

資料②由 谷英二「東アジア図書館における日本の貴重書と特別コレクション」(JapaneseRare BooksandSpecialCollectionsintheEastAsiaticLibrary, 1976

資料③RogerSherman「TheAcquisitionofMistuiCollec. tionbytheEastAsiaticLibrary,1980. 196page)

私の調査メモは別の機会に発表したい。

 さて、閑話休題。

『耳袋』。私の短いBerkeley滞在時に、ある日、手に取った本であった。

2068 (守信随筆)耳嚢 宗ロ32 10 随筆藤原守信序 「文化六巳年仲秋七十三翁守信謹書」(跋)

根岸鎮衛(1737–1815)採話全10巻。すでに岩波文庫『耳嚢』で目にしていたとはいえ、その原テキストを目にした時の感慨は忘れない。当然ながら、岩波文庫本を横に置きながら、一読した。

ちなみに南町奉行・根岸鎮衛の裁判モデルを体系化すれば、次のようになろう。

(1)裁判役としての 判断モデル

① 事実認定(実証主義)

  • 証文・証拠・証言の整合性を重視

  • 「情実」を排し、証拠の強度で判断

  • 例:親類の依頼を断り「出世は天恵」と述べる

② 社会秩序の維持(公共性)

  • 個人の事情より「町の秩序」を優先

  • 例:賭博・喧嘩・火事場泥棒に厳罰

③ 人情・救済(温情主義)

  • 弱者(奉公人・女性・子供)には寛大

  • 例:溺死した老人頭の遺族に弔慰金

④ 教訓化(再発防止)

  • 裁きの後に「教訓」を与える

  • 例:奉公人の扱いを改善するよう商家に諭す


(2)地名ネットワーク

ノード:江戸

  • 町人地:日本橋 → 京橋 → 神田 → 浅草

  • 武家地:赤坂 → 桜田 → 小石川 → 牛込

  • 寺社地:上野寛永寺 → 浅草寺 → 増上寺

  • 下町:本所 → 深川 → 向島


(3)根岸鎮衛の情報網と人物ネットワーク

  • 町奉行所の役人:与力 → 同心 → 小者

  • 武家:旗本 → 徒頭 → 小十人頭

  • 町人:商家 → 職人 → 奉公人

  • 宗教者:僧侶 → 神職

  • 医師:町医者 → 蘭方医 → 祈祷師

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  • 岡雅彦他編『三井文庫旧蔵江戸版本書目: カリフォルニア大学バークレー校所蔵』東京、ゆまに書房、1990年。
  • 長谷川強他「カリフォルニア大学バークレー校旧三井文庫写本目録稿」『調査研究報告』5 (1984年3月)、261-340頁。)
  • 奥田勲「カリフォルニア大学東アジア図書館蔵―古経コレクション目録稿」
  • 『聖心女子大学論叢』94 (2000年1月)、111-171頁。
  • 住吉朋彦「カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館蔵 日本伝来漢籍目録初編」『斯道文庫論集』46 (2011年)、399-426頁。)

伎倍」考ーー紀平氏の由来

 世の中には、生命学ならぬ姓名学もあるそうだ。

例えば、紀平氏。学のない私などは、かって『国体の本義』の中心的執筆メンバーである紀平正美氏などを思い浮かべる。

>>【読み】きひら,きへい,のりひら,きのひら,のりへい,きたいら,きだいら

【全国順位】 4,848位
【全国人数】 およそ2,200人 出典 紀平さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net|日本人の苗字・姓氏99%を掲載!!

さて、この「紀平」は漢字に引っ張られて「きひら」とか「のりひら,きのひら,きたいら,きだいら」などと読むが、本来は「きへい」であったと仮説する。

 KIpei→KiFei→KiHei→紀平 → きへい,のりひら,きのひら,きたいら,きだいら

 ところで『万葉集』には「あらたまのきへ」という語句が1か所ある

*3353番歌

阿良多麻能 伎倍乃波也之尓 奈乎多弖天 由伎可都麻思自 移乎佐伎太多尼

あらたまの伎倍の林に汝を立てて行きかつましじ眠を先立たね


*2530番歌

璞之 寸戸我竹垣 編目従毛 妹志所見者 吾戀目八方

あらたまの伎倍が竹垣網目ゆも妹し見えなばわれ恋ひめやも

これら『万葉集』中の2530番歌にせよ、3353番歌にせよ、『倭名類聚抄』に「阿良多末」とあるように、「あらたま」は遠江国麁玉郡である。

 「きへ」に関しては、同じ『万葉集』に

*3354番歌

伎倍比等乃 萬太良夫須麻尓 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許尓

伎倍人の斑衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に

にもある。この3例から推測するに、「きへ」は特定地名とする先行研究が多い。その一方で、「きへ」は柵戸(城戸)で、城柵周辺に居住する古代防御性集落に擬する説もある。

今の未熟な 我が学識で、わずか3用例ではいずれとも決しがたいので、ここでは両論併記を許していただきたい。

「きへ」は特定地名説ーー浜松市貴平町周辺

②「きへ」は柵戸説ーー軍事的防御施設周辺の集落

確かに遠江国軍団は、これまでの出土した遺物や意向などを総合的に考えると、現在の浜松市中区の伊場遺跡周辺に設置された可能性が高い。したがって、木場遺跡から7~8キロしか離れていない貴平の地に城柵で囲まれた軍事的施設が設置されたことになる。

その理由として、

  • 国府の近く(徒歩で往来できる距離)

  • 官道(古代東海道・中路)沿線

  • 天竜川西岸(兵站・水運)


  • 平坦な段丘上(演習場の確保)

などの諸条件を勘案すれば、いちがいに否定もできない。

さて、念のために正直に告白すれば、私見は、「紀平」氏の由来を「城柵」説だと考えている。ただし、そのエビデンスがない。

*あらたまの伎倍の林に

*あらたまの伎倍が竹垣網目ゆも

伎倍人の斑衾に

の内で、とりわけ第2例目に文学的興趣を覚えるからである。


2026年5月18日月曜日

嘉永7年(1854)11月4日朝五ツ半時(午前9時)関東・東海道嘉永地震:浜松の被害事例

 奈川新田書留(『浜松市史史料編五』)中に記載されている地震記録である。被害調査のひな型である。

 
   一、崩死   誰何才       一、怪我   同
   一、土蔵   何ヶ所  内本潰  何ヶ所  半潰   何ヶ所
   一、物置   何ヶ所  内本漬  何ヶ所  半潰   何ヶ所
   一、田畑検地 凡何程       一、牛馬   死何疋
        〆
 右は去る四日之地震にて、村々より先日訴出候得共、書面雛形之通聢と取調、明後十日朝四ッ時無遅滞、新台所役所へ一村限可差出候、尤即死之者も今般之儀は見分等無之候間、無遠慮可差出候、此配符以刻付早々順達、留り村より可戻候、以上、
    十一月八日

なお、この地震では津波による被害も発生している。