以下は、福山敏男先生や栄原永遠男先生など多数の論文を拝見して、折々にリストアップした写経事業である。まったくの調査メモであり、創見などはない。識者には陳腐にすぎないリストであることをあらかじめお断りする。
<参考論文>
*福山敏男「奈良朝に於ける写経所に関する研究」(福山敏男著作集2『寺院建 築の研究』中、所収、中央公論美術出版、1982年。初出は1932年)、
*栄原永遠男「初期写経所に関する二三 の問題」(同『奈良時代の写経と内裏』所収、塙書房、2000年。初出は1984年)
*山下有美『正倉院文書と写 経所の研究』第1章第1節(吉川弘文館、1999年)
*山本幸男「玄防将来経典と「五月一日経」の書写」(上・下)『相愛大学研究論集』 2006年など
。
<資料1>天平11年の写経事業
①百部法華経八〇〇巻、
②福寿寺大般若経六〇〇巻(天平11年3月頃か)
③五月一日経の大般若経六〇〇巻(以下、五月大般若経)
⇒参考論文 山本幸男「玄防将来経典と「五月一日経」の書写」『相愛大学研究論集』 2006年
「(光明発願の)皇后宮職管下の写経機関(写経所)で天平八年九月から開始されたこの「五月一日経」の書写は、唐・智昇撰の 『開元釈教録』による一切経一部五〇四八巻を目標として、底本(本経)には主として鼻面が将来した経典が用いら (6) 玄肪将来経典と「五月一日経」の書写 れたと解されている。写経事業は、十五年五月から『開元釈教録』には載せられない章疏も対象にして天平勝宝末年 (7) まで継続され、書写された巻数は七〇〇〇巻に及んだものと推定されている。「五月一日経」は、奈良時代の一切経 書写
<資料2>天平14年6月頃の写経事業
天平14年6月ごろから天平15年春ごろまでは、金光明寺写一切経所は福寿寺写一切経所と合併して、千手経1000巻の写経
千手経の写経は天平15年春に終了したらしい。
その終了と同時に5月1日経のみならず偽疑経、録外経などの写経も始まった。
<資料3>天平勝宝6年~7歳
大皇太后藤原宮子の菩提を 弔うための連続して行われた写経事業
①梵網経一〇〇部二〇〇巻、
②法華 経一〇〇部八〇〇巻、
③新旧華厳経各五部七〇〇巻)、
天平勝宝7歳の大納言藤原 仲麻呂の宣による二千巻経
④華厳経一〇〇〇巻
⑤観世音経一〇〇〇巻
<資料4>天平宝字2年の大規模な写経事業
天平宝字2年(合計3600巻)
①6月16日の紫微内相宣による金剛般若経一〇〇〇巻(千巻経)
②7月4日の同宣による千手千眼経一〇〇〇巻・新羂索経一 〇部二八〇巻・薬師経一二〇巻、合計一四〇〇巻(千四百巻経)
③8月16日の同宣による金剛般若経一二〇〇巻(千二百巻経、 後金剛)
<資料5>
「写千巻経所銭并衣紙等下充帳」( 13 ノ 257 ~ 260 、 260 ~ 265 、 265 ~ 266 、 371 ~ 373 、 383 ~ 384 )
①(6月 22 日条)又下手巾条五条堂料 二条曹司料( 13 ノ 258 ) 「千手千眼并新羂索薬師経料銭衣紙等納帳」(4ノ 278 ~ 280 、未修、 13 ノ 252 ~ 253 ) ②九月三日自宮来綺廾六丈一尺使宮門日野麻呂 即下紙屋受能登装(未収) 「千手千眼并新羂索薬師経料銭衣紙等下充帳」( 13 ノ 364 ~ 371 、 267 ~ 268 、 269 ~ 283 )
③(7月9日条)又下手巾伍条四条堂料充 一 十 条東曹司料充( 13 ノ 366 ) ④(8月4日条)四日下紙一万一百張(中略) 五千五十張四千百 九 張紙屋作八百廾一張麻紙七十張穀 付宍人百村又充凡紙五十張端継料 五千六十張四千三百卅一張紙屋作穀紙六百七十九張七十張綜( 13 ノ 269 )凡紙五十張端継料付綾部忍国 「後金剛般若経料雑物収納帳」( 14 ノ 71 ~ 80 )
<資料6>天平宝字四年の一三五部経の写経事業
天平宝字四年正月十一日に太師藤原仲麻呂:一百卅五部経 (法華 経・金剛般若経・理趣経各四五部、合計四五〇巻)の「御願経」の写経
<資料7>天平宝字四年の一切経の写経事業
太師藤原仲麻呂の宣にある一切経3433巻の写経事業 (「坤宮官紙墨筆及雑物送文〈太師恵美押勝宣〉」続々修1 ノ6④、 14 ノ 30 8 )。
<資料8>天平宝字4年6月7日)周忌斎一切経の写経事業
天平宝字四年六月七日に光明皇太后が崩御し、7月26日 の七七斎に向けて称讃浄土経一八〇〇巻の写経が開始。(続々修14 ノ 403 ~ 404)
<資料9>天平宝 字四年八月三日
光明皇太后の一周忌にむけて周忌斎一切経の写経事業(「後一切経料雑物納帳」続々修2 ノ6、 14 ノ 42 1 0 ~ 44 、 15 ノ 85 ~ 8 0 7 、 14 ノ 44 2 ~ 44 )、
天平宝字5年3月上旬、五三三〇巻の書写了。

