2019年9月28日土曜日

対馬藩 岩崎清御

対馬藩の上士であればともかく、下士の動静はほとんど不明である。
ここで岩崎清御を紹介しておきたい。
天保9年~天保14年:江戸
弘化2年:対馬
嘉永4年:対馬
嘉永6年7月8日:草梁和館
元治元年:長崎対馬藩邸
慶応2年:長崎対馬藩邸

竹島関係地図











『花供養』所載の俳句ーー朝鮮の花も供養のひとつ哉」

天理図書館蔵の『花供養』(天明7年刊)には、

「朝鮮和館よりの便に
朝鮮の花も供養のひとつ哉」

とある。

思遠亭記

思遠亭記(厳原公民館蔵、大本、1冊、墨付け25丁、毎半葉9行、明和4年か)


2019年9月23日月曜日

竹島研究リストーー備忘録ーー未発表の竹島関係論文の手控え

著者名 論文名 書名 号数 発行年 発行 備考
水路部 『本洲沿岸』 第1巻, 第2巻 1945年  (書誌 ; 第1001號A-B. 簡易水路誌)
海上保安庁水路部編  『本州北西岸水路誌 : 本州北西岸・本州北岸・竹島』 昭和24年8月刊行, 追補第1. 1949年 shim
海上保安庁
川上健三 『竹島の領有』  1953年8月 外務省条約局
崔南善 「鬱陵島と独島」 『ソウル新聞』 8月10日~9月7日 1953年 25回にわたって連載
* 『島根県竹島の研究』 1954年3月 島根県総務部広報文書課
田川孝三 「竹島の歴史的背景の素描」 『親和』 7 1954年 5月 pp.9~12
海上保安庁水路部編 『本州北西岸水路誌』 1960年3月~ 東京 : 海上保安庁 追補第2 (昭和35年3月刊行) - 平成14年3月刊行  注記: 昭和57年3月刊行以降の書名: 本州北西岸水路誌 : 本州北西岸・本州北岸・竹島  ISBN: (追補第2 (昭和35年3月刊行)) ; (昭和50年9月刊行) ; (追補第3   (昭和53年10月刊行)) ; (昭和57年3月刊行) ; (昭和62年2月刊行) ; (平成9年3月刊行) ; (平成14年3月刊行)別タイトル: 本州北西岸水路誌 : 本州北西岸・本州北岸・竹島
申爽鎬 「独島の来歴」 『思想界』 8月号 1960年8月
森田芳夫 「竹島領有問題(東方)をめぐる日韓両国の歴史上の見解」 『外務省調査月報』 2-5 1961年 5月 外務省アジア局北東アジア課 pp.23~35
中村栄孝 「「礒竹島」(欝陵島)についての覚書-日韓両国間の「竹島」問題に関連して」 『日本歴史』 155 1961年 8月 pp.11~19
吉岡吉典 「「竹島問題」とはなにか」 『朝鮮研究月報』 11 1962年 11月 pp.38~49
朴庚来 『独島』 1963年 高山義弘 〈研究資料〉
吉岡吉典 「ふたたび「竹島問題」について」 『朝鮮研究月報』 16 1963年 4月 pp.22~29
* 『独島』 1965年 大韓公論社
田村清三郎著 『島根県竹島の新研究』 1965年 (松江)田村清三郎
朴庚来 『独島〔ノ〕史・法的〔ナ〕研究』  1965年 日曜新聞社
小林高寿 「竹島の帰属をめぐって(1)~(3)」 『歴史教育』 13-10~12 1965年 10~12月 pp.69~77,73~81,58~64
山辺健太郎 「竹島問題の歴史的考察(1),(2)」 『コリア評論』 7-2,12 1965年 2,12月 pp.4~14,43~53
植田捷雄 「竹島の帰属をめぐる日韓紛争」 『一橋論叢』 54-1 1965年 7月 pp.19~34
兪鎮午 「韓日会談が開かれるまで」 『思想界』 2・3月号 1966年
川上健三 『竹島の歴史地理学的研究』 1966年 8月 古今書院
太寿堂鼎 「竹島紛争」 『国際法外交雑誌』 64-4・5 1966年 3月 pp.105~136
大熊良一 『竹島史稿-竹島(独島)と欝陵島の文献学的考察』 1968年 12月 原書房 277p
李漢基 『韓国の領土』 1969年
金晋根 「竹島(独島)領有に関する若干の考察」 『法学論集』 1 1977年 3月 〈大阪経済法科大〉 pp.97~117
中村三愛著 『竹島を譲った男』 1978年1月 (東京)新人物往来社
上地龍典 『尖閣列島と竹島 : 中国・韓国との領土問題』 1978年10月 教育社 入門新書;:時事問題解説;no95
梶村秀樹 「竹島=独島問題と日本国家(付・資料)」 『朝鮮研究』 182 1978年 9月 pp.1~37
堀和生 「1905年日本の竹島領土編入」 『朝鮮史研究会論文集』 24 1987年 3月 pp.97~125
田川孝三 「竹島領有に関する歴史的考察」 『東洋文庫書報』 20 1989年 3月 pp.6~52
国際法事例研究会著 『領土』  shim
1990年
慶応通信 (日本の国際法事例研究 3)
関周一 「十五世紀における山陰地域と朝鮮の交流」 『史境』 20 1990年
内藤正中 「山陰における日朝関係史(Ⅰ)(Ⅱ)」 『経済科学論集』 16,17 1990,1991年
『竹島かえれ島と海』 1992年 〔松江〕 : 島根県竹島問題解決促進協議会   
藤田明良 「15世紀の鬱陵島と日本海西域の交流」 『神戸大学史学年報』 8 1993年 5月 pp.1~24
国立国会図書館調査及び立法考査局編 『竹島領有権問題の経緯』 1994年 国立国会図書館調査及び立法考査局 調査と情報;244号 15p
塚本孝 「平和条約と竹島〔再論〕」 『レファレンス』 3月号 1994年3月
内藤正中 「鬱陵島と因伯-鳥取県の日朝関係史」 『北東アジア文化研究』 2 1995年 10月 pp.23~32
領土返還国民協議会同人編 『日本の領土 : 北方四島・竹島・尖閣列島の諸問題』  1996年 領土返還国民協議会
田村清三郎著 『島根県竹島の新研究』 1996年3月 島根県総務部総務課 復刻版
* 『竹島考證 : 上・中・下 : 国立公文書館内閣文庫所蔵「外務省記録」』 1996年4月 エムティ出版
下條正男 「竹島問題考」 『現代コリア』 361 1996年 5月 pp.54~73
川上健三著 『竹島の歴史地理学的研究』  1996年6月 古今書院  復刻新装版
* 『竹島関係文書集成 : 国立公文書館内閣文庫所蔵「外務省記録」』 1996年6月 エムティ出版
『独島領有問題 民族意識』 1996年8月 독립기념관 한국독립운동사연구소독도학회
신용하 『독도(獨島), 보배로운 한국영토 : 일본의 독도영유권 주장에 대한 총비판 1996年8月 서울 : 지식산업사 213p
慎鏞廈 『独島の民族領土史研究』 1996年
韓國精神文化研究院歴史研究室  『獨島研究』 1996年9月 성남 : 한국정신문화연구원 185p, 図版 [8] p 
内藤正中 「元禄の年安龍福事件-鳥取県の日朝関係史(3)」 『北東アジア文化研究』 4 1996年 10月
内藤正中 「竹島問題考」 『海外事情』 44-12 1996年 12月 〈拓殖大・海外事情研 pp.2~22
鹿嶋海馬著 『アジア国境紛争地図』  1997年 三一書房  (三一新書)
신용하 『독도의 민족영토사 연구』 1997年1月 서울 : 지식산업사 337p : 図版 ; 23cm
浜田太郎 「竹島(独島)紛争の再検討-竹島紛争と国際法、国際政治(1),(2)」 『法学研究論集』 6,7 1997年 2,9月 〈明治大・院・法学研究科〉 pp.291~308,125~141
田村清三郎 『島根県竹島の新研究」 1997年 2月 島根県総務部総務課 (復刻版)160p
秋月望 「日韓領土問題再考-竹島・独島」 『国際学研究』 16 1997年 3月 〈明治学院大・国際〉 pp.111~115
内藤正中 「19世紀末の鬱陵島と鳥取県-鳥取県の日朝関係史(4)」 『北東アジア文化研究』 5 1997年 3月 pp.53~73
下條正男 「続・竹島問題考(上),(下)」 『現代コリア』 371,372 1997年 5,6月 pp.62~78,38~57
慎鏞廈著 ; 韓誠訳 『史的解明 独島(トクト)(竹島)』 1997年6月 京都 : インター出版 228p
牧野愛博[著] 『尖閣・竹島・北方四島 : 領土問題テキストブック』 1998年 朝日新聞社総合研究センター調査研究室 社内報告:234
内藤正中 「元和4年竹島渡海免許をめぐる諸問題-鳥取県の日朝関係史(6)」 『北東アジア文化研究』 7 1998年 3月 〈鳥取女子短大〉 pp.1~16
독도영유권 문제와 해양주권의 재검토 1998年4月 사단법인 독도연구보전협회 독도학회 심포지움
下條正男 「竹島論争の問題点」 『現代コリア』 388 1998年 7月 pp.22~39
太寿堂鼎著 『領土帰属の国際法』  1998年8月 東信堂  (現代国際法叢書)
梁泰鎭 『獨島研究文獻輯』 1998年8月 [ソウル] : 景仁文化社 一雲梁泰鎭研究叢書;第21輯
宋炳基 『鬱陵島と独島』 1999年
田久保忠衛著 『日本の領土―そもそも国家とは何か』 1999年 PHP研究所 
芹田健太郎著 『島の領有と経済水域の境界画定』 1999年6月 有信堂高文社
下條正男 『日韓・歴史克服への道』 1999年8月 東京 : 展転社 414p
羅洪柱 『獨島 領有權 관한 國際法的 研究 : 독도는 일본의 인접 소도서"Smaller adjacent islands" 아니다』 2000年3月 서울 : 법서출판사 329p.
李鍾學編著 『日本 [の] 獨島政策資料集』 2000年8月 [水原] : 史芸研究所 領土資料叢書;5 817p, 図版 [16] p
宋炳基[内藤浩之訳] 「高宗朝の鬱陵島経営-検察使の派遣と開拓」 『北東アジア文化研究』 12 2000年 10 月 〈鳥取女子短大・北東アジア文化総合研〉 pp.1~22
内藤正中著 『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』 2000年 10月 多賀出版 257p
池内敏 「17~19世紀鬱陵島海域の生業と交流」 『歴史学研究』 756 2001年 11月 pp.1~22
落合功 「「竹島渡海一件」について」 『中央史学』 24 2001年 3月 pp.49~61
池内敏 「竹島一件の再検討-元禄六~九年の日朝交渉」 『研究論集』 47 2001年 3月 〈名古屋大・文・史学〉 pp.61~84
臼杵英一 「研究資料:竹島/独島問題」 『紀要』 40 2002年 3月 〈大東文化大〉 pp.1~33
森須和男著 浜田市教育委員会編 『八右衛門とその時代 : 今津屋八右衛門の竹嶋一件と近世海運』 2002年 浜田市教育委員会  (石見学ブックレット / 浜田市教育委員会編 ; 3)
下條正男ほか 『知っていますか、日本の島』  2002年12月 自由国民社  142p
大西俊輝著 『日本海と竹島―日韓領土問題』 2003年1月 東洋出版  358p
朴炳渉 「日本の竹島=独島放棄と領土編入」 『姜徳相先生古希・退職記念 日朝関係史論集』 2003年5月 新幹社
下條正男著 『竹島は日韓どちらのものか』  2004年 文芸春秋  (文春新書;377)
金学俊著;ホサカユウジ訳 shim,shim,shim,shim,shim,shim,shim
『独島/竹島 韓国の論理』
shim,shim,shim,shim,shim,shim,shim,shim,shim,shim
2004年5月
論創社
shim,shim,shim
奥原碧雲 『竹島及鬱陵島』 2005年6月 ハーベスト出版
独島研究保全協会 『独島領有権資料の探求』 第1-4巻 独島研究保全協会
竹島関係リスト (2)史料          
著者名 論文名 書名 号数 発行年 発行 備考
『三国史記』 于山国の新羅編入を記す。
『世宗実録地理志』 1454年 「于山武陵二島、県の正東の海中に在り。〔分註〕二島相去ること遠からず、風日清明なれば則ち望み見るべし」
『東国輿地勝覧』 1481年 鬱陵島はその昔于山国と称して、新羅の智証王13(512)年6月に異斯夫が攻略し、新羅に帰属の記事。「于山島、鬱陵島〔中略〕。二島は県の正東の海中に在り。三峯◆〔山/及〕◆〔山/業〕として空を撐え、南峯やや卑し。風日清明なれば則ち、峯頭の樹木及び山根の沙渚、歴歴見るべし。風便なれば則ち二日にして到るべし。一説に于山鬱陵本一島。」
『太宗実録』 鬱陵島の空島政策の記事
『太宗実録』 17年2月 鬱陵島の近傍にある于山島から十五戸、男女八十六名を連れ出すの記事
李晬光 『芝峰類説』 1614年序 「近く倭奴の磯竹島(鬱陵島)を占拠するを聞」くの記事
柳馨遠 『輿地志』 1656年 現存せず:①申景濬の『彊界考』の引用:「輿地志に云ふ、一説に于山鬱陵本一島」②『東国文献備考』の引用:「鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」
『日本国記』 1643(寛永20)年8月13日朝鮮通信使として来日中の従事官申濡(竹堂)の求めに応じ、応接役の林鵞峰と林讀耕斎が贈る(筆写本)
『本朝事跡考』 正徳年間 「日本国記」が刊行されたもの。隠岐国条に「隠岐の海上に竹島(鬱陵島)あり」と記され、「竹多く、鮑多くして味甚だ美、海獣を葦鹿という」の記事
大谷文子 『大谷家古文書』 大谷甚吉が幕府から拝領した竹島渡海船の三つ葵紋の船印と時服。鬱陵嶋に渡海する際、大谷家が御船奉行山崎主馬から発給された浦々御番所宛の「往来手形」。いずれも大谷武廣氏より米子市立歴史館に寄贈され、同館蔵。
『武鑑』 大谷・村川両家が鬱陵島で捕獲した鮑が鳥取藩の献上品である、記事
『和漢三才図絵』 伯耆国条で大谷・村川両家が鬱陵島で捕獲した鮑が産物五品の一つに数えられている。
『毛吹草』 隠岐国の名物として「串鮑」と「海馬」を挙げる
齋藤豊仙(出雲藩士) 「国代記」 『隠州視聴合記』 1667年序 「国代記」で松島と鬱陵島を日本の「西北限」と明記
『粛宗実録』 安龍福の記事
大谷九右衛門 『竹嶋渡海由来記抜書書控』 米子の大谷家が鬱陵島に渡るようになるのは1618(元和4)年からの記事・「竹島一件」の記事
(鳥取藩) 『池田家御櫓日記』 「竹島一件」の記事
越克明編(対馬藩) 『竹嶋記事』 1726年編纂の命 「竹島一件」の記事
『辺例集要』 「竹島一件」の記事
『備辺使謄録』 粛宗代 安龍福・朴於屯帰国後の対応の記事
雨森芳洲 「竹島ノ事」 少論派政権からの書契受け取りの件
(江戸幕府) 『通行一覧』 巻之百三十七、朝鮮国部百十三 「竹島」条:鬱陵島は朝鮮領とする記事
『因府年表』 鬱陵島への渡航禁止で大谷・村川家の困窮の記事
(朝鮮政府) 『漂人領来謄録』 安龍福の鳥取藩での訴訟後の廟議の記事
南九萬 『薬泉集』 「柳相国に問う」廟議での発言
李瀷 「鬱陵島」 『星湖◆(イ塞)説』 龍福の功績を評価する記事
李孟休 「鬱陵島争界」 『春官志』 1745年 英祖の命を受け、孟休編纂。龍福の功績を評価する記事
申景濬 『彊界考』 1750年代 「安龍福事」
伊藤東涯 『輏軒小録』 安龍福に尋問した鳥取藩の儒者辻晩庵の回顧の記事あり。
北园通葊 『竹島図説』 宝暦年間(1751~63年) 「隠岐国松島」「隠岐の松島」と記す
成海応 『研経斎文集』 「安龍福伝、李孟休の著すところの春官志に載す」
英祖命 申景濬等編 「輿地考」 『東国文献備考』 1770年 孟休「鬱陵島争界」を引用
『増補文献備考』 『東国文献備考』を引用
『萬機要覧』 『東国文献備考』を引用
長久保赤水 『日本輿地路程全図』 1779年 竹島、松島、沖永良部島、青ヶ島には彩色はないが、沖永良部島には、「是より南百二十里、琉球國」と、あり、沖永良部島を日本領との認識はあり。竹島(鬱陵島)には、「高麗を見ること、猶雲州より隠州を望むがごとし」という付記あり。
青木昆陽 『草廬雑談』 1783年 竹島(鬱陵島)を朝鮮領としたことは幕府の失政と見る記事
林子平 『三国通覧輿地路程全図』 1785年 日本海の中ほどの「竹嶋」に、「朝鮮の持也」と「此島ヨリ隠州ヲ望、又朝鮮ヲモ見ル」の書き込み。(竹嶋は鬱陵島)
矢田高当 『長生竹島記』 享和年間(1801~03) 「〔松島)は本朝西海のはて也」
江石梁(岡島正義:鳥取藩士)編述 『竹島考』 1828年 慶長のころには鳥取県米子の大谷甚吉と村川市兵衛という者の一党が鬱陵島に渡っていることの記事・竹島一件の記事・竹島を朝鮮に奪攘されたことを惜しむ記事
『鬱陵島地図』 1831年 竹嶋を「所謂于山島」とする
1849年 西洋人として初めて今日の竹島を発見したフランスの捕鯨船李安クール号に由来する「リャンコ島」
鈴木驥園 『増訂大日本國郡輿地路程全図』 1852年 長久保赤水の『日本余地路程全図』の改訂版。竹島、松島、沖永良部島、青ヶ島に、日本本土と同じく黄色い彩色あり。
松浦武四郎 『竹島雑誌』 1854年編述1871年刊行 「彼地、元来我属島」の見地から編纂。米露等によって開墾されれば、日本の海防は困難、鬱陵島を開墾すべしと主張。
吉田松陰 「桂小五郎・久坂玄瑞宛書簡」 1858年 長州の海防状、「鬱陵島開墾は鎖国を破る妙案」
佐田白茅 報告 「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」 『朝鮮国交際始末内探書』 1870年 竹島(鬱陵島)と松島を朝鮮に附属とする
武藤平学 「松島開拓之議」 1876年 1876年7月外務省では武藤平学が建議。松島(鬱陵島)開拓の検討はじまる。武藤はウラジオストク在留の米人コーペルが「日本の属島に松島と称する一島あり」と聞く。
島根県 『日本海内竹島外一島地籍編纂方向』 1876年 1876年10月内務省地理寮は地籍編纂のため島根県に竹島(鬱陵島)について照会。島根県は竹島(鬱陵島)と外一島は朝鮮領であると報告。
1877年 内務省は太政官の判断を仰ぐが、竹島(鬱陵島)と外一島は日本領ではないと結論。
1877年 下総国印旛郡佐倉町の斎藤七郎兵衛もウラジオストク滞在中松島(鬱陵島)開拓を貿易事務官の瀬脇寿人に出願。瀬脇は1877年4月25日付けの意見書を通して、松島開拓を外務卿寺島宗則に打診。
1880年 外務卿寺島宗則、軍艦天城を松島(鬱陵島)に派遣し、現地調査。松島は朝鮮領の鬱陵島と判明。開拓話は立ち消えに。
『高宗実録』 1881年、高宗、李奎遠に鬱陵島検察を命ず。翌年、踏査。
李奎遠 『鬱陵島検察使日記』 1882年
李奎遠 『鬱陵島内図』 1882年
李奎遠 『鬱陵島外図』 1882年 竹嶼の記載
「朝鮮竹島探検」 『山陰新聞』 2月18日付 1893年 (鬱陵島では)「常に耕作を専業とす。漁業は絶えて従事するものなく、まったく知らざるものの如し」という状態
朝鮮水路誌朝鮮沿岸海図索引 1894年11月
朝鮮水路誌第四編朝鮮東岸 1894年11月
日本水路誌第四巻関係海図索引 1897年3月
朝鮮史編修会編 『朝鮮史』 李太応31年(1894)正月7日 「鬱陵島土地未だ尽く開墾せず、人民衆からざるを以って、特に命じて賦税徭役を一切免ず」
『大韓輿地図」 1898年 鬱陵島の属島は于山島まで
玄采 『大韓地誌』 1899年 東経130度の鬱陵島を朝鮮の東の極限とする
大韓帝国学部編集局 『大韓全図』 1899年 鬱陵島の属島は于山島まで。竹嶼を于山島とする。
『皇城新聞』 1900年9月22日附 鬱陵島に「附属する小六島中で最も顕著な島は、于山島と竹島」と報じる
大韓帝国政府 「勅令四十一号」 1900年10月25日 鬱陵島を「鬱島郡」に昇格。行政区域は「鬱陵島全島と竹島、石島」
『駐韓国日本公使館記録』 1899年当時、鬱陵島の水産業は日本人の独壇場だった。
葛生修亮 『韓通海漁指針』 1903年刊(1901年脱稿) 明治30年代に、鬱陵島には韓人の戸数約四五百、本邦人は三百、純然たる日本人町を形成していた。「松島」(現在の竹島)を「韓人及び本邦漁人は之をヤンコと呼」ぶ。
〔軍艦新高の日誌〕 1904年9月25日 「韓人之を独島と書し、本邦漁夫等略してリアンコ島と称せり」
中井養三郎   「リヤンコ島領土編入並に貸下願」 1904年9月29日 内務、外務、農商務省に提出 中井養三郎が1903年5月竹島で、アシカ猟を始める。翌年から、山口県の岩崎某らが鬱陵島の韓人を人夫として雇い、アシカ猟に参加。その年のアシカ猟従事者は邦人54名、韓人16名、捕獲したアシカは1800頭。すぐに過当競争となり乱獲の弊害が出始めたのでリャンコ島の領土編入を願って中井養三郎が請願書を提出。
明治政府 閣議決定 1905年1月28日 「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡ナク」として「リャンコ島」を「竹島」と命名し「島根県所属隠岐島司ノ所管」とした。
島根県 『島根県告示第四十号』 1905年2月22日 竹島の島根県編入
「鬱島の盛況」 『大東新報』 9月 1905年 鬱陵島の盛況は日本人の貢献によるもので、鬱陵島は日本原有の地であると報じる。
『大韓毎日申報』 9月22日付 1905年 大東新報の鬱陵島日本原有の地説に反論
田中阿歌麿 『地学雑誌』 210号 1906年 竹島の「東島に於ては菰葦の仮小屋あり」「此小屋は中井養三郎の竹島漁業会社の所有にかかるもの」と記す。
奥原碧雲 「竹島渡航記」 『竹島及鬱陵島』 1906年3月に島根県第三部長神西由太郎が隠岐島司東文輔以下十四名を率いて竹島視察。途中天候不順で鬱陵島に避難、鬱島郡庁に郡守の沈興澤を訪問
郡守の沈興澤が「本郡所属の独島」が「日本の領地」となったと、江原道に急報。江原道観察使署理の春川郡守李明来も中央政府に報告。議政府参政大臣李齊純は李明来に「該島の形便と日本人の行動をさらに調査し、報告せよ」との指示
『大韓毎日申報』 5月1日付 1906年 「日本官員一行が本郡に来到し、本郡所在の独島は、日本属地と自称し、地界の潤狭と戸口の結数を一一録去、云々」
『皇城新聞』 5月9日付 1906年 「本郡所属の独島は外洋百余里の外に在るが、本月四日に日本官人一行が官舎に来到し、自ら云うには、独島が今、日本の領地と為った故、視察のついでに来到し、〔中略〕戸総人口と土地の生産の多少と人員及び経費幾許、諸般の事務を調査して録去した」と報じた。
日本水路誌第四巻関係海図索引 1907年6月
『韓国水産誌』 1910年 「(鬱陵島の)住民は元農業を主とし、漁は採藻のみ」「烏賊は光武7年(1903)、日本人漁獲を始めし処」
日本水路誌第六巻 第二編東岸・鬱陵島 1911年12月 pp.44~51
日本水路誌第六巻関係海図索引 1911年12月
日本水路誌第四巻関係区域及同海図索引 1926年12月
黄玹 『梅泉野録』 20世紀初
GHQ 『訓令第六百七十七号』 1946年1月29日 「日本から除外される地域として済州島、竹島、鬱陵島」として、竹島は日本の領土から除外される
マッカーサー マッカーサーライン 1946年6月22日 竹島は朝鮮側
シーボルト駐日政治顧問 1949年11月14日 竹島はもともと日本の領土として提言
対日講話会議準備委員会 1951年4月16日 「独島」も朝鮮領に含めるべきであると主張
韓国政府 1951年6月初旬 独島とともに波浪島を第二条に追加する意見書を米国政府に提出
韓国政府 1951年7月12日 日本が対馬島に対する権利を放棄することなどを加えた十項目の覚書を米国に送る
韓国政府 1951年7月18日 米国に5項目の要求、「独島、対馬島、波浪島」を朝鮮領に含めるよう求める
韓国政府 1951年7月26日 米国に日韓の新たな漁業協定が定時されるまで、マッカーサーラインの存続を要請
『サンフランシスコ講話条約』 第二条(a) 1951年8月16日 講和条約最終案の提示「日本から除外される地域として済州島、巨文島、鬱陵島」→1952年4月28日発効
李承晩 李承晩ライン〔平和線〕 1952年1月18日 独島を韓国領に
독도박물관 1997年8月 독도박물관
吉岡吉典 竹島問題について―特に島根県との関係について 1963年3月27日
注)
(1)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、一九九二年、三四七頁
(2)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻新装版)古今書院、一九九六年
(3)外務省『外交青書』二〇〇一年、三九頁
book2_r1_c5
(4)半月城通信、http://www.han.org/a/half-moon/mokuji.html#dokto
(5)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版、二〇〇〇年、七七頁
(6)池内敏「竹島一件の再検討」名古屋大学文学部研究論集』史学四十七号、
   二〇〇一年、八一頁。
(7)塚本孝「竹島関係旧鳥取藩文書および絵図」『レファレンス』一九八五年
   四月号、八一頁
(8)梶村秀樹、前掲書、三三七頁
(9)内藤正中、前掲書、一〇〇頁
(10)神戸市立博物館『古地図セレクション』神戸市体育協会、二〇〇〇年、四一頁
(11)徳川幕府開成所『官板実測日本地圖』発行は一八六七年と推定される
    (影印版、日本地圖選集刊行委員會『江戸時代 日本絵圖並萬國全圖集成』
    人文社、一九九〇年)
(12)神戸市立博物館、前掲書、三〇頁
(13)同右書、三三頁
(14)同右書、三七頁
(15)長久保赤水『新刻日本輿地路程全圖』一八三三年
    (影印版、日本地圖選集刊行委員会『江戸時代 日本全圖歴覧』
    日本地図選集第四巻、人文社、一九九〇)
(16)『日本外交文書』第三巻、一三七頁、明治三年四月十五日付
(17)『公文録』内務省之部一、明治十年三月十七日条、国立公文書館所蔵
    (二A一〇―公二〇三二/マイクロリール二五六、一三五〇コマ~)
(18)塚本孝「竹島領有権問題の経緯(第二版)」『調査と情報』第二八九号、
    一九九六年、五頁
(19)『公文録』内務省之部一、明治十年三月二十日条、国立公文書館所蔵
    (二A一〇―公二〇三二/マイクロリール二五六、一三六四コマ)
(20)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』
    第二四号、一九八七年、一〇四頁
(21)川上健三、前掲書、一二頁
(22)北澤正誠『竹島考證』(復刻版)エムティ出版、一九九六年、一九〇頁
(23)同右書、二六一頁
(24)同右書、二七三頁
(25)清水常太郎『大日本管轄分地圖』一八九四(影印版、
    日本地圖選集刊行委員會『大日本管轄分地圖』、人文社、一九九〇)
(26)堀和生、前掲稿、一〇六頁
(27)海野福寿『韓国併合』岩波新書、一九九五、一三二頁
(28)堀和生、前掲稿、一一四頁
(29)島根県広報文書課編『竹島関係誌料』第一巻、一九五三年。
(30)『軍艦新高行動日誌』防衛庁戦史部所蔵
(31)『公文類聚』第二十九編巻一政綱門行政区、国立公文書館所蔵
    (二A十一―類九八一/マイクロリール一七三、一三七五コマ)
(32)内藤正中、前掲書、一七五頁
(33)愼鏞廈『史的解明 独島(竹島)』インター出版、一九九七年、一九三頁
(34)『われらの北方領土』外務省国内広報課、二〇〇〇年、一六頁
(35)同右書、一七頁
(36)塚本孝「平和条約と竹島(再論)」『レファレンス』一九九四年三月号、三九頁
(37)高崎宗司『検証 日韓会談』岩波新書、一九九六年、一八頁
(38)田村清三郎『島根県竹島の新研究』島根県総務部、一九九六年、一四九頁