隣接諸科学を動員することを惜しんだばかりに、せっかくの力作だけに「画竜点睛を欠く」結果となった事例として、
*『通訳酬酢』田代 和生著(2017/9/25)
がある。
その書名にある「通訳酬酢」の内で、「通訳」はともかくとしても、「酬酢」の解釈が正鵠を欠くからである。田代氏は朝鮮王朝時代の用例を発見できないとして、苦肉の策として諸橋轍次著『大漢和辞典』に中国語の用例に求めている。その挙句、「酬酢」とは「応対」の意だという。
中期朝鮮語で記述された対馬文書を知る者に、もし田代和生氏が問い合わせたならば、すぐに氷解したはずである。
例えば、対馬資料の中に、「酬酢」の日本語訳は「おはなし」とある。つまり「通訳酬酢」とは、「通訳のお話」と解すれば、良い。
博大な知識と卓越した史観、エネルギッシュな執筆活動の田代氏だけに、惜しまれる。