2022年2月5日土曜日

天平勝宝4年6月22日 新羅国使が持参した経典

新羅国使人所請來経 10巻 黄紙及表綺緒紫檀軸竹帙浅緑裏及帯錦緑 法華(花)経1部8巻 梵網経1巻 頭陀経1巻  並縹絹外浅紫錦表及綺牙軸用銀墨写表浦坐仏像 右天平勝宝4年6月22日新羅国使人等所奉請者 6月22日 呉原生人 (以上は、間経目録:続々修12ノ5,12ノ293ー298)>新羅国使が持参した経典10巻は、紫香楽宮で写経された。その目録が残存。紫香楽宮での写経の時期は不明である。「律論疏集伝等本収納返送帳」(正集33裏、8ノ185~193)(正集33裏、24ノ258)(正集21裏、9ノ365~367)(続修8裏、3ノ161~163)は天平15年4月から天平20年2月に渡る経典の貸借返却台帳であるが、その時期に書写されただろう。 >

ところてん

「ところてん」の歴史を知らないが、正倉院文書を見ると、写経所で働く人に対する食料支給記録が残されている中に、「ところてん」がある。 主食はコメである。「経師」、「題師」、「装演」。「校生」、「雑使」「仕丁」の身分に応じて、支給量が異なるのは当然である。 「造東寺司解」には、「経師」、「題師」、「装演」。「校生」には、「心太(ところてん)」が毎日2両ずつ支給されたとある。 大宝律令では、1両=10匁=1/16斤。毎日、毎日、ところてんを支給された側では、どのような思いで食していただろうか。 そのところてんの原材料であるてんぐさは、奈良時代において御食国として指定された若狭国・志摩国・淡路国から貢納された。 中国にある「海菜凉粉(hǎi cài liáng fěn)」や、韓国の「우무묵」は、ところてんの源流を暗示する。