桓武天皇延暦9年(790)10月3日、佐伯宿祢今毛人の薨伝は、次の通りである。
『続日本紀』「《延暦9年(790)10月乙未【三】》○乙未。散位正三位佐伯宿禰今毛人薨。右衛士督従五位下人足之子也。天平十六年。聖武皇帝。発願始建東大寺。徴発百姓。方事営作。今毛人為領催検。頗以方便勧使役民。聖武皇帝。録其幹勇。殊任使之。勝宝初。除大和介。俄授従五位下。累遷。宝字中至従四位下摂津大夫。歴播磨守大宰大弐左大弁皇后宮大夫。延暦初授従三位。尋拝参議。加正三位。遷民部卿。皇后宮大夫如故。五年出為大宰帥。居之三年。年及七十。上表乞骸骨。詔許之。薨時年七十二。」
さて、これまで不思議であったのは、佐伯宿祢の嫡男の名前に、なぜ、「(今)エミシ」と命名したか、である。
以下は、まったくの想像である。それには井上光貞先生の高論を前提となる。
ところで
『令集解』賦役令辺遠国条
凡辺遠国、有二
夷人雑類一
、謂、夷者夷狄也。(略)古記云、夷人雑類謂二
毛人・肥人・阿麻弥人等類一
。問、夷
人雑類一歟、二歟。答、本一末二。仮令、隼人・毛人、本土謂二
之夷人一
也。此等雑 -二
居華夏一
。謂二
之雑類一
也。一云、
一種無レ
別。之所、応レ
輸二
調役一
者、随レ
事斟量。不三
必同二
之華夏一
。」
とある。 「古記」は大宝令(701 年制定)の注釈書であり、「夷人・雑類」として「毛人」の
ほかに「肥人」(九州)、「阿麻弥人」(奄美島人か?)などが例示されているにもかかわらず、佐伯宿祢の男子の名に付けられている。
なぜだろうか。
井上説は次の記事に注目する。
『日本書記』』景行 51 年 8 月 4 日条
「 於 是、所 献 神宮 蝦夷等、昼夜喧譁、出入無 礼。時倭姫命曰、是蝦夷等、不 可 近 於神宮 。則
進- 上於朝庭 。仍令 安 置御諸山傍 。未 経 幾時 、悉伐 神山樹 、叫呼隣里 、而脅人民。天皇聞之、
詔群卿 曰、其置 神山傍 之蝦夷、是本有 獣心 、難 住 中国 。故随 其情願 、命 班 邦畿之外 。是今播
磨・讃岐・伊予・安芸・阿波、凡五国佐伯部之祖也。」
これでは、文意が不明であるものの、
*『令集解』職員令大国条
「大国
守人(略)其陸奥・出羽・越後等国兼知 饗給、謂、饗 食並給 禄也。釈無 別也。(略)古記云、問、
大国撫慰、与考仕令招慰 、若為 別。答、種云々。征討 ]
とあり、陸奥・出羽・越後国司は「饗給」と「征討」によりエミシを服属させ、捕虜となったエミシを国内に移動させ、次の記事を重ね合わせると
*『続日本紀』神亀 2 年閏正月 4 日条
「俘囚百卌四人配 于伊予国 、五百七十八人配 于筑紫 、十五人配于和泉監 焉。」
この記事には伊予・筑紫・和泉とあるが、たしかに
『天平十年駿河国正税帳』
「 従二
陸奥国一
送二
摂津職一
俘囚部領使相模国余綾団大毅大初位下丈部小山上一口従一口三郡別一日食
為単陸日上三口 従三口
俘囚部領大住団少毅大初位下当麻部国勝上一口従一口郡別一日食為単陸日上三口 従三口 当国俘囚部領使史生従八位上岸田朝臣継手上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口従三口 俘囚部領安倍団少毅従八位上有度部黒背上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口 従三口
(略)
従 陸奥国 送 摂津職 俘囚壱伯壱拾伍人部従六郡別半日食為単参伯肆拾伍日従」
とあり、「陸奥国から摂津国へエミシが壱伯壱拾伍人移送された。
井上説によると、陸奥から日本国内各地に移送されたエミシが農民として定着していった。彼らエミシ「弓馬戦闘夷
狄所レ
長。」(『類聚三代格』承和4年2月8 日太政官符)であったので、当然ながら中央に集められ、天皇の親衛隊となったとして、「塞ぐ」が「サエキ」となったという。
さて、当面の課題である「佐伯宿祢今毛人」こそ、その氏族伝承を語り伝えたものにほかならず、しかもわざわざ「今」を挿入したと愚説を提出したい。
当然な反論として、それでは「蘇我蝦夷」はどうなるかと指摘する論者もいるはずである。わたしの目には、だからこそ単に「エミシ」ではなく、「今エミシ」と命名する佐伯氏だと考えたい。
なお、延暦2年6月17日には、
「従三位行左大弁兼皇后宮太夫大和守佐伯今毛人」【「太政官牒 旧表題 新羅江庄券 、東南院文書 84頁)
とある。