2023年10月22日日曜日

古代人名の読みの事例ーー「縄麻呂」は「ただまろ」

 古代人名の読みは一筋縄に行かないのは周知に事実である。

ベテランの万葉学者にしても、その読みに無関心な方がおいでである。

例えば、

内蔵忌寸縄麻呂

のばあいである。「(すけくらのいみきつなまろ)」(全注)などと読む。

しかしながら、奈良時代に即してみれば、

(すけくらのいみきただまろ

と読むべきである。

したがって、慶雲4年(770)5月9日、従三位民部卿藤原朝臣縄麻呂が正倉院より屏風三帖を借用したときの「縄麻呂」も、当然ながら「タダまろ」と読む。

また、『続日本紀』の

《宝亀6年(775)正月庚戌【16】》○庚戌。従五位下参河王。伊刀王。田上王並授従五位上。従四位上藤原朝臣家依。大伴宿禰伯麻呂並正四位下。正五位下多治比真人木人正五位上。従五位下高向朝臣家主。藤原朝臣鷲取。中臣習宜朝臣山守。佐伯宿禰国守並従五位上。外従五位上坂上忌寸老人。外従五位下浄岡連広嶋。正六位上百済王玄鏡。坂本朝臣縄麻呂。小治田朝臣諸成。田中朝臣難波麻呂。大伴宿禰上足並従五位下。正六位上高市連屋守。越智直入立並外従五位下。」事畢宴於五位已上。賜禄有差。


も同様である。

2023年10月9日月曜日

出雲国のエミシ(蝦夷、毛人)

以下は、武廣 亮平著「古代のエミシ移配政策とその展開 」(専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 3 号 2017年3月)の教示に全面的に依拠した紹介である。武廣氏に感謝する。

2091_0003_12.pdf

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出雲国に移配されたエミシは、

*『類聚国史』延暦 19 年(800)3 月 1 日条    

「出雲国介従五位下石川朝臣清主言。俘囚等冬衣服、依 例須 絹布混給 。而清主改 承前例 、皆以 絹賜。又毎 人給 乗田一町 。即使 富民佃之。新到俘囚六十餘人、寒節遠来、事須 優賞 。因各給 絹一疋、綿一屯 。隔 五六日 、給 饗賜 禄、毎 至 朔日 、常加 存問 。又召発百姓 、令 耕其園圃 者。 勅、撫 慰俘 、先既立 例。而清主任 意失 旨、饗賜多 費、耕佃増 煩、皆非 朝制 。又夷之為 性、 貪同 浮壑 。若不 常厚 、定動 怨心 。自今以後、不 得 更然 。」


  右の史料は出雲介である石川朝臣清主が「俘囚」(エミシ)に対しておこなっている独自の処遇である。

*『類聚国史』弘仁 5 年 2 月 10 日条  

「夷第一等遠胆沢公母志授二 外従五位下 。以討出雲叛俘之 也。 

*『類聚国史』同 2 月 15 日条  

「 出雲国俘囚吉弥候部高来・吉弥候部年子、各賜 稲三百束 。以遇荒橿之乱、妻孥被害也。 」

*『類聚国史』同 5 月 18 日条  

「 免  除出雲国意宇・出雲・神門三郡未納稲十六万束 。縁 有 俘囚乱 也。」

*『日本後紀』同 11 月 9 日条 

「免 出雲国田租 。縁 有 賊乱及供蕃客也。 }


 

佐伯宿祢今毛人

 桓武天皇延暦9年(790)10月3日、佐伯宿祢今毛人の薨伝は、次の通りである。

『続日本紀』「《延暦9年(790)10月乙未【三】》○乙未。散位正三位佐伯宿禰今毛人薨。右衛士督従五位下人足之子也。天平十六年。聖武皇帝。発願始建東大寺。徴発百姓。方事営作。今毛人為領催検。頗以方便勧使役民。聖武皇帝。録其幹勇。殊任使之。勝宝初。除大和介。俄授従五位下。累遷。宝字中至従四位下摂津大夫。歴播磨守大宰大弐左大弁皇后宮大夫。延暦初授従三位。尋拝参議。加正三位。遷民部卿。皇后宮大夫如故。五年出為大宰帥。居之三年。年及七十。上表乞骸骨。詔許之。薨時年七十二。」


さて、これまで不思議であったのは、佐伯宿祢の嫡男の名前に、なぜ、「(今)エミシ」と命名したか、である。

 以下は、まったくの想像である。それには井上光貞先生の高論を前提となる。


ところで

『令集解』賦役令辺遠国条   

凡辺遠国、有二 夷人雑類一 、謂、夷者夷狄也。(略)古記云、夷人雑類謂二 毛人・肥人・阿麻弥人等類一 。問、夷 人雑類一歟、二歟。答、本一末二。仮令、隼人・毛人、本土謂二 之夷人一 也。此等雑 -二 居華夏一 。謂二 之雑類一 也。一云、 一種無レ 別。之所、応レ 輸二 調役一 者、随レ 事斟量。不三 必同二 之華夏一 。」

とある。 「古記」は大宝令(701 年制定)の注釈書であり、「夷人・雑類」として「毛人」の ほかに「肥人」(九州)、「阿麻弥人」(奄美島人か?)などが例示されているにもかかわらず、佐伯宿祢の男子の名に付けられている。

なぜだろうか。

井上説は次の記事に注目する。

『日本書記』』景行 51 年 8 月 4 日条  

「 於 是、所 献 神宮 蝦夷等、昼夜喧譁、出入無 礼。時倭姫命曰、是蝦夷等、不 可 近 於神宮 。則 進- 上於朝庭 。仍令 安 置御諸山傍 。未 経 幾時 、悉伐 神山樹 、叫呼隣里 、而脅人民。天皇聞之、 詔群卿 曰、其置 神山傍 之蝦夷、是本有 獣心 、難 住 中国 。故随 其情願 、命 班 邦畿之外 。是今播 磨・讃岐・伊予・安芸・阿波、凡五国佐伯部之祖也。」


これでは、文意が不明であるものの、

*『令集解』職員令大国条  

「大国    守人(略)其陸奥・出羽・越後等国兼知 饗給、謂、饗 食並給 禄也。釈無 別也。(略)古記云、問、 大国撫慰、与考仕令招慰 、若為 別。答、種云々。征討 ]


とあり、陸奥・出羽・越後国司は「饗給」と「征討」によりエミシを服属させ、捕虜となったエミシを国内に移動させ、次の記事を重ね合わせると

*『続日本紀』神亀 2 年閏正月 4 日条  

「俘囚百卌四人配 于伊予国 、五百七十八人配 于筑紫 、十五人配于和泉監 焉。」

この記事には伊予・筑紫・和泉とあるが、たしかに

『天平十年駿河国正税帳』   

「 従二 陸奥国一 送二 摂津職一 俘囚部領使相模国余綾団大毅大初位下丈部小山上一口従一口三郡別一日食 為単陸日上三口 従三口   

俘囚部領大住団少毅大初位下当麻部国勝上一口従一口郡別一日食為単陸日上三口 従三口 当国俘囚部領使史生従八位上岸田朝臣継手上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口従三口 俘囚部領安倍団少毅従八位上有度部黒背上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口 従三口     (略)

従 陸奥国 送 摂津職 俘囚壱伯壱拾伍人部従六郡別半日食為単参伯肆拾伍日従」

とあり、「陸奥国から摂津国へエミシが壱伯壱拾伍人移送された。

井上説によると、陸奥から日本国内各地に移送されたエミシが農民として定着していった。彼らエミシ「弓馬戦闘夷 狄所レ 長。」(『類聚三代格』承和4年2月8 日太政官符)であったので、当然ながら中央に集められ、天皇の親衛隊となったとして、「塞ぐ」が「サエキ」となったという。

さて、当面の課題である「佐伯宿祢今毛人」こそ、その氏族伝承を語り伝えたものにほかならず、しかもわざわざ「今」を挿入したと愚説を提出したい。

当然な反論として、それでは「蘇我蝦夷」はどうなるかと指摘する論者もいるはずである。わたしの目には、だからこそ単に「エミシ」ではなく、「今エミシ」と命名する佐伯氏だと考えたい。


なお、延暦2年6月17日には、

「従三位行左大弁兼皇后宮太夫大和守佐伯今毛人」【「太政官牒 旧表題 新羅江庄券 、東南院文書 84頁)

とある。

2023年10月1日日曜日

「大原采女勝部鳥女還本郷。」⇒都へ送り続けていた大原郡の郡司の仕送りは田2町歩分のお米

 『続日本紀』《天平十二年(七四〇)六月庚午【丙辰朔十五】

「大原采女勝部鳥女還本郷。」

この記事は前後と文とは無関係に挿入されているために、ともすると見逃しがちであるが、事実は、采女勝部鳥女が「本郷」である「出雲国大原郡」に「還」ったいう内容である。その理由は明記されていないが、『続日本紀』に特記している以上、特別な理由があったとみるべき だろう。

 ところで見逃しがちな論点は、

*采女には任期規定が存在しない

ことである。一度、都へ貢進されるとほぼ終身の任期であったと考えてよい。それは仕丁と同一である。


事実、出土した木簡には、

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細 (nabunken.go.jp)

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK011028000029
木簡番号0
本文□□□出雲国大〈〉\大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂〈〉
寸法(mm)(377)
40
厚さ2
型式番号019
出典東大寺防災-(1769)(日本古代木簡選・木研11-28頁-(29))
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名東大寺大仏殿廻廊西地区
所在地奈良県奈良市雑司町
調査主体奈良県立橿原考古学研究所
発掘次数旧境内第9次
遺構番号
地区名
内容分類
国郡郷里出雲国大原郡佐世郷
人名勝部□智麻呂
和暦 
西暦 
木簡説明 

■研究文献情報

当該木簡を取り上げている研究文献一覧を表示します。

とあり、すくなくとも大原郡佐世郷に勝部一族が居住していた。『出雲風土記』から、

大原郡:大領:勝部臣、少領:額田部臣、主政:日置臣、主帳:勝部臣

は判明しており、しかも同風土記には、

【大原郡】 斐伊郷…新造院:堂/僧5躯/大領勝部臣虫麻呂 新造院:堂/尼2躯/斐伊郡人樋伊支知麻呂 屋裏郷…新造院:層塔/僧1躯/前少領額田部臣押島(今少領伊去美の従父兄) 

とあることから

大領勝部臣虫麻呂 

*少領額田部臣伊去美+従父兄であり前少領額田部臣押島

の3名の名前を知る。

『出雲国風土記』大原郡条

「 所三以号二大原一者、郡家東北〔正西〕一十里一百一十六歩、田一十 町許平原也。故号曰大原。往古之時、此処有郡家、今猶追旧 号大原〈今有郡家処号云斐伊村〉 。 (中略)斐伊郷、属郡家。 」

とあり、大原郡では、郡家の移動があった。

 我々の関心を引くのは少領額田部臣の存在である。欽明天皇の娘額田部皇女(推古天皇)の額田宮に使える額田部臣(職名+臣)は元来勝部臣よりも上位の豪族であった。その証拠に、岡田山一号墳出土大刀銘に「各田卩臣□□□□□大利□」も登場する額田部臣であり、岡田山1号古墳が位置する出雲を支配した一族は「出雲臣」で地名+臣であったはずだが、大刀銘文に記されたのは「額田部臣」であった。額田部臣が出雲を支配する一大勢力であった。それにもかかわらず、大原郡では大領と少領との勢力が逆転していることからして、上記の木簡資料の

大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂

は郡家が大原郡佐世郷から斐伊郷への移転を語る傍証にならないだろうか。


ところで、誰しもが思い出す大化改新の詔には、

凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。」(『日本書紀』二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。)

とある、律令制下の日本では、全国を五畿七道に分け、その国には都から国司が派遣されたが、郡では律令制以前から支配していた在地豪族が終身の郡司に任命されていた。これは、各国において、郡司の郡支配を保証するとともに、その一方で中央政権の一端に組みこまれていたともいえよう、

こ 采女は天皇による郡統治の保証書であると言え、人実であるともいえよう。

つまり采女は郡司(大領もしくは少領)の姉妹もしくは子女で、しかも形容端正(容姿端麗)の者を貢進せよとある。今ここでは大化の改新の詔の信ぴょう性に関しては論じないが、すくなくとも采女は誰でもよかったのではなく、中央と地方の支配隷属関係を裏付けるものであったと考えたい。

 しかも「以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁」とある限り、采女の出身国の農民100戸から「庸布」を物納させたとある。1戸につき五斗の庸米であるので、100戸で500斗、穀で100斛。和銅大升では穀100斛が稲1000束。とすれば、田2町歩に該当する面積の稲田を郡司は農民に耕作させ、そして都の采女に送付して生活費に充当させていた。

何よりも、『続日本紀』に

《天平十四年(七四二)五月庚午【廿七】》○庚午。制。凡擬郡司少領已上者。国司史生已上、共知簡定。必取当郡推服。比都知聞者。毎司依員貢挙。如有顔面濫挙者。当時国司、随事科決。又采女者。自今以後。毎郡一人貢進之。」

とあり、その当時550郡存在したので、この記述通りに進めば、550人の采女が都に送られた。


付記)

【綱文和暦】
大同2年5月13日(08070050130)
【綱文】
出雲国の采女勝部真上が病で郷里に帰り、稲五百束を賜る。