2017年8月22日火曜日

パラオ調査日記 --パラオの「アリラン」など

           パラオ調査日記
  (200915日から111日)
                         
30分遅れて、午前830分に自宅を出発。出かけに、アメリカの友人(Stanford大学、Colonial Modernity研究者)からの電話で、あれこれと話し込む。彼の希望を聞き入れる方向で、Workshopのスケジュール調整に努める。結局は、韓国式に「ケンチャナヨ」式で決着。アメリカに在住して20年以上の彼にしても、結局は、「ケンチャナヨ」人間。とはいえそのスタイルは韓国語を使っているときだけで、英語を駆使するときには、その魔法のマントを脱ぎ捨てるかも知れない。とはいえ、Palau調査旅行の出鼻に、彼とColonial Modernity
 空港が都心にある便利さで、午後925分に福岡空港国際線に到着。すでに全員が手続きを終えていた。慌てて、手続きカウンターに向かう。Continental Air LineJAlともANAとも提携しない航空会社であるそうで、JALのカードの威力を発揮できず。
 福岡からPalauまでの航空券2枚を受け取る。福岡―Guam.,Guam―-Pala共に座席はエコノミークラス5C。出国審査を終えて、空港待合室でメールチェック。空腹を覚えたのと、日本食を口にしたかったので、売店でおにぎりを購入。昆布おにぎりは105円。
 搭乗前に、早速、皆で南洋庁による統治方式に関する議論に花が咲く。誰一人として、見ぬPalauへの期待感が気分を高揚するのか。
 Guam行きの座席は、4名バラバラであったので、機内で熟睡できたのは、幸いであった。Lunchだと言って、無理に起こされた後、持参した資料(引揚の記録)を通読。南洋群島の引揚の概観を付け焼き刃的に頭にたたき込む。
  1、昭和1811月から、婦女子を中心に引揚が開始されたようである。
  2,各島における引揚は、農耕の有無によった。農耕自活可能なクサイア島やポ  
ナペ島などは、婦女子も残留し、日本軍の勝利を信じ続けたようである。
  3,昭和19217日:赤城丸爆沈、婦女子500余名が死亡
    昭和1936日:アメリカ丸爆沈、婦女子500余名死亡。
    昭和196月:千代丸および白山丸爆沈、婦女子380名が死亡
  4,昭和1812月までの南洋群島からの引揚者
    パラオ:4920
    ヤップ:820
    サイパン:2596
    テニアン:1658
    ロタ:387
    トラック:3246
    ポナペ:2208
    ヤルート:362
      総計:16179
    海没遭難者:1580
  5,降伏文書の調印
    ロタ:92
    ヤップ:95
    クサイ:910
    ポナペ:911
    トラック:10月初旬
    ヤルート:825日占領
今日の収穫は、PalauDay care centerにおいて、パラオ人老婆の口から「アリラン」の歌が飛び出したことである。「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリラン『とうげ』ノモガンダ」、と。
 注意深く聞いたならば、「アリランコゲルル ノモガンダ」とあるべき歌詞であるが、この老婆は、なぜかしら「アリラン『とうげ』ノモガンダ」と歌ったことに興味を引かれる。
誠に残念ながら、録音器を持参しなかったので、その声を再現できないものの、老婆の記憶の中の歌詞に迷いはなかった。数十年ぶりに歌う「アリラン」は、老婆にとって、記憶の底から絞り出すメロディーであった。そして、敗戦以前にパラオに育った老人の多くは「アリラン」を歌えるそうである。朝鮮人から教わったからだというが、いつ、いかなる機会に、なぜ記憶する理由があったのだろうか。
老婆の話しは、更に続く。
 1945815日以前に、多数の朝鮮人がパラオに居住していたこと。彼らは沖縄人・パラオ人と共に混在しながら、パラオの裏通りに住んでいたこと。パラオ在住の朝鮮人のために、京城(当時)で製作された朝鮮映画がパラオの映画館で上映されたこと。日本人と共に、朝鮮人とも一緒にパラオ人たちがコロール島を脱出して疎開し、敗戦を知らず2~3週間の間、パラオ本島に隠れ住んでいたこと。そしてアメリカ軍が投下した敗戦を知らせるビラによって、パラオ人をはじめとする全員がコロール島に戻ってくると、日本人と朝鮮人の位置が逆転して、朝鮮人が肩で風を切って歩いていたことなどなどを語った。
 パラオの町の中は、約2万名の国民国家が示すように、交通信号がゼロである。多くの車両が日本製の中古であり、右側通行に右ハンドルであるので、一見して奇妙な錯覚に陥る。本来であれば、右側通行であれば、左ハンドルであるべきだが、日本製中古車を改造しないままに使用するために、不思議な車が町中を大手で走り回ることになる。
 我らが借りたレンタカーで走り回った町中には、今なお60数年前に消滅した日本統治下の南洋庁関連建築物と日本人が居住した痕跡を探し出せる。思い出すままに列挙すれば、南洋庁コロール支社、昭南クラブ、パラオ公園、日本人墓地、南洋神社、パラオ医院、南海楼などなど。かってパラオに居住した方々の記憶に定着した植民地空間を地図に落とした資料が存在するからこそ、これらの建物の痕跡を眼前にして、その地図と確認しながら納得するわけである。しかしながら絵葉書や写真などの画像資料を通して、パラオの植民地空間を知る我々には、現在のパラオの変貌は顕著である。絵葉書や南洋庁発行各種出版物に紹介されるお馴染みの画像には、南海の楽園のイメージが強調される。椰子の並木道と日本風の商店街、着物姿の日本女性が歩くメインストリート、物資が溢れる街角などに対して、裸体に近い原住民像とのコントラストは興味深い。そして何よりも着物姿の女性、燕尾服姿の男性を取り囲む現地民を写したポートレートの多さは、やはり南海における日本人の優越感を誇示する画像に他ならない。
200917

 「鶏鳴」
 この言葉をすっかり忘れてしまっていたが、パラオの朝は、民宿の四方から聞こえてくる鳴き声が、起床の合図となった。   
「                     」

 本日の調査の圧巻は、昭和15年建設の官弊大社南洋神社であった。
日本全国津々浦々に鎮座する神々の社を、海外の植民地にも拡大することは、1901年(明治34年)創建の台湾神社がその嚆矢である。その後も、いわゆる外地に神社が多数創建されたが、各地域に官弊大社が創建され始めるのは、官弊大社・樺太神社(1911年・明治44年)をもって最初とする。その後、1919年(大正8年)718日付けの内閣告示第12号「朝鮮神社を創立し官弊大社に列格せらるる旨仰出」によって、朝鮮神社創建が決定されたものの、1官弊大社「朝鮮神宮」の創建は1925年(大正14年)10月まで待たざるを得なかった。祭神を天照大神と明治天皇と定めて鎮座式が挙行されたが、その祭神は外地の官弊大社のモデルを提供することとなった。
1901
年(明治34年)創建の台湾神社は、1944年(昭和19年)6月に官弊大社「台湾神宮」に格上げされ、祭神は天照大神であったし、大陸に目を向けると、遼東半島旅順に官弊大社「関東神宮」が創建され、1944年(昭和19年)101日に鎮座式が挙行された。祭神は、同じく天照大神と明治神宮であった。
 さて、南洋神社設立の経緯を辿れば、皇紀2600年を祝福した1940年(昭和15年)の紀元節(211日)の記念行事であったが、実際には計画が大幅に遅れて、1940年(昭和15年)111日、官弊大社の鎮座式が開催された。祭神は、天照大神。
 今ここで、改めて「日本帝国の南進基地」建設と皇国臣民化運動と結びつけて、官弊大社南洋神社を説明する事に異論を差し挟むものではないが、我が関心は、さまざまな理論的説明よりも南洋神社神域の実測調査、平面調査、データの獲得にある。さらに言えば、設計図さえ手にはいるのであれば、それで解決する問題であるが、それが困難である場合、実測図を作るために、測量さえ実施したいとも願う。
 我が知る限り、朝鮮神宮・台湾神宮はその痕跡を失っている以上、その現存状態が比較的良好な南洋神社の調査は、不可欠である(樺太神社に関する情報は未入手)。
 ちなみにアメリカ軍の爆撃が激しくなるにつれて、昭和205月以降に、パラオ本島大和村に仮本殿が建造されたという。空襲によって、本殿が甚大な被害を受けたからでもある。
 
ところで今日も暑い一日であった。水分補給に何本のペットボトルを飲み干しただろうか。

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南洋神社
天照大神
昭和15年11月1日
パラオ島コロール町アルミス高地
官幣大社
朝日神社
天照大神
昭和14年9月3日
パラオ島朝日村
 
清水神社
天照大神
昭和15年6月1日
パラオ島清水村
 
瑞穂神社
天照大神金比羅権現
昭和15年9月1日
パラオ島瑞穂村
 

200918
 Peleliu州政府発行の入島許可書06358を3ドルで購入し、Peleliu島に上陸する。
コロール島から約50キロ離れたパラオリーフの最南端に位置するPeleliuは、昔であれば、3日かけて渡る距離であったと言うが、我々の快速ボートは最短時間40分で到着する。しかしながら、私たちのボートは船長の厚意で途中の見物スポットに立ち寄りながら、ゆっくりと進み、各所で南海ならではの風光明媚な観光スポットを楽しむ。
 Peleliu島に近づくにつれて、島全体は遠浅であるので、港への航路の両側を杭で示してあり、船はその間を巧みに通り過ぎる。パラオの中心地コロール島から遠く隔絶した島に、よもや車が走り廻っていると言えば、Peleliu島民にお叱りを受けるだろうが、我々を乗せた船が港に接岸して、陸に第一歩を記したとき、最初に眼に飛び込んだのは、島を一周する舗装道路であった。場違いなほどに大きな道路である。いかなる産業が島を支えているかと思いやる内に、我々一行を乗せたマイクロバスは、一軒のホテルの玄関に到着した。ビーチに隣接する絶好な地理的な位置に、One Roomがそれぞれ独立するアバイ風建物が八棟、玄関の右手にGift shopを兼ねたCheck in Counterがあった。驚くべきは、そのホテルの主人が若き日本女性であったことである。出身も、動機も尋ねることはなかったが、このPeleliu島に居住し、現地のPeleliu人男性と結婚し、三名のお子様をお持ちの日本人が、我々の前に姿を現したのであった。よもや、この地に日本人がといえば、時代遅れの誹りを免れないだろう。しかし、主人に加えて、さらにホテルのスタッフとして四名の日本人(男性一名、女性三名)も居住していると聞き、我が耳を疑ったほどである。その内のお一人の女性は福岡市出身であった。
 ホテルの主人も日本人一行の突然の来訪に対して、快く迎入れてくれた。話しに花が咲く内に主人が漏らした言葉は、日本人の滞在は長くて5日から6日、それに比べて欧米人は最低でも3週間、バケーションの長さが断然違います、と。
 とはいえ、我々のように、ダイビングもせず、ビーチで泳ぐこともせず、ひたすら各地の戦跡を尋ね廻る人間の出現に、ホテルの主人も、過去の慰霊団関係者であればいざ知らず、それと無縁な歴史研究者の一団に、逆に新鮮さを覚えていたようであった。
 話しぶりから推測して、南洋の孤島の、さらに離れ島に定着した日本人のお子さんたちはPeleliu島にある小学校に通学しているが、中学校に進学するときから日本に送り返したいと親は希望する。僅か165戸で、周囲が数キロのPeleliuで教育を受けた南洋育ちの子供たちが日本に足を踏み入れたときに、どのような文化落差を感じ、その落差ははたして埋めることは可能であろうかと、人ごとながら余計な気遣いをするほどである。
 Peleliu訪問の目的は、世界に進出した日本人に会うためではなく、あくまでも当初通りに植民地空間の痕跡(小学校と公学校など)とそれに関する資料(主にオーラルヒストリーを中心に)を探し出すためであった。党内を一周すればするほどに、歴史を捨象し、歴史と無関係でいたいと願う日本人ダイバーたちの無邪気な笑顔に接する。島の周辺にある珊瑚礁と回遊する魚群を楽しむ彼らの無関心さを認めつつも、その一方で日本人の「愚かな歴史」の蓄積にも関心を向けて欲しいと願わずにいれられない。
 平坦なPeleliu島全体に戦跡が残されている。しばしば激戦地であったと報じられるが、それは完全な誤りである。兵器・食糧・人員・情報を絶たれた旧日本帝国軍に勝ち目など有るはずはなく、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍の前に、如何に持久戦をとげるか、いかに降伏を延ばすかという「カミカゼ」特攻精神で、旧日本帝国軍の戦いは始まった。誰が考えても、南太平洋の孤島で繰り広げられた戦いは無意味であった。1944年(昭和19年)当時の高揚した戦意のなかで、日本軍の勝利だけを信じて戦地に赴いた兵士たちに、疑問の余地などはなかった。残り少ない乾パンと150発の銃弾だけでは。アメリカ軍に勝てと戦意を奮い立たせた将校たちの真実は、何であっただろうか。
 南国特有の密林に飲み込まれてしまったPeleliu公学校址は、僅かに二本のセメント門柱が立っているだけである。すでに学校跡であると推測させるものは見あたらないが、偶然に出会った老婆によれば、彼女たちは裸足で弁当を背負って片道6キロの道のりを通ったという。正課4年、補習科2年の6年間、毎日、毎日。彼女の笑い話しを紹介しておこう。「今の子供はスニーカーを履き、スクールバスに乗って通学するが、毎日がAbsent」。自分の孫たちを指さしながら、皮肉を浴びせながら。
 美しい日本語の響き、豊富な日本語の語彙と言い回し、それが実現した南太平洋の孤島における日本語教育の実態を知りたいと願う。先生は、校長先生を含めて3名、日本人の平松先生、パラオ人の先生であったという。
2009年1月9日
 パラオに縁を持つ某君のルート探しが始まった。僅かな情報によると、彼の祖父はコロール島に居住なさったそうである。若干の混乱があったものの、熱帯産業研究所に勤務なさったと判明する。その研究所があった場所を探すために車を走らせたが、コロール市内ではなく、研究所はパラオ本島アイミリーキ村に設立されたというので、早速、その地に向かう。地元の人々が「Nekken」と記憶する場所である。その一帯は確かに人工的に植樹された椰子の木に囲まれた地域であり、研究目的に人為的な植林が実施されたと推測できるが、現在、その研究所が存在した痕跡を探すことは不可能なほど密林に覆われている。木々を取り除き、草を刈り、表面の土壌を除去すれば、何かの支柱石などが発見できようが、その努力は無駄であり、むしろ自然に還るようにすべきであろう。人々の記憶の中に、「Nekken」という言葉が残り続けようとも。

Palau通信第6便

南洋庁下のパラオにおける朝鮮人を考えるときに、その実態は今なお不明である。しかし次のような記事が偶然に眼に飛び込んだ。

著者は、「パ 業」社団法人 太平洋諸島地域研究所 理事長 小深田 貞雄氏である。

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「私は昭和15(1940)韓国移民約10家族をパラオに移送するため、釜山へ出張した。航海中出産があったり思い出はつきない。」

7信 Palauの写真


戦前のPalauを紹介する写真。左の写真は日本人植民者による開拓村アイライ。中央は、コロールに建設された日本人町、右はPalau人のカイシャル村。

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