2017年11月27日月曜日

俳人の寿命

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

旅に生き、旅に死んだ芭蕉。享年、51歳(元禄7年、1694)。

丈草(43歳)
其角(47歳)
西鶴(52歳)
嵐雪(54歳)
許六(60歳)
支考(67歳)
立圃(75歳)
宗因(78歳)
鬼貫(78歳)
長蕭子(81歳)
季吟(82歳)
貞徳(83歳)
南御堂前、御堂筋の緑地帯に芭蕉翁終焉の地の碑が建つ。

金印偽作説の再検討

今なお真贋論争が生まれては消え、消えては生まれる金印。
なによりも出土地が怪しく、しかも発掘者が不明。
黒田斉隆用印11面を見ても、その疑いが晴れない。
卑見によれば、偽作説に与したい。



奥の細道と東海道中膝栗毛と伊勢参り

日本人の「旅」に、3種のタイプあり。奥の細道と東海道中膝栗毛と伊勢参り。

2017年11月19日日曜日

長崎の対馬屋敷

「(長崎)対馬邸の前にて朝鮮人を見るに、顔黒く惣髪にて山伏の姿に似たり。謙益ぬし烟草をのみ居たりしが、手を出して乞ふようにすれば、少しひねりてやいければ大いに喜び、我も我もときたりてもとむ。」(日柳燕石「旅の恥かきすての日記」巻之下、板坂耀子編『近世紀行文集成』第2巻、九州編、37頁、葦書房、2002年)

2017年11月18日土曜日

朝鮮に設立された鉄道図書館

用事があって、金某氏の『日帝下の鉄道図書館に関する研究』(修士論文)を読む機会があった。辟易したのは、鉄道図書館設立の目的は、
*日帝の韓国統治のための政策遂行に貢献すること
であるという前提で、論文が執筆されていることである。読むに堪えない。

それはともかくとして、1920年7月21日に南満州鉄道京城図書館が開館した。兵漢字に、235193冊(1946年)を架蔵した。林清一主事の強力なリーダーシップで、図書館は運営された。

新羅時代の日本担当セクション「倭典」

新羅に日本担当セクション「倭典」が存在した。
『三国史記』に、
*領客府本名倭典、真平王43年改為領客典(後又別置倭典)、景徳王又改為司賓府、恵恭王復故、令二人」
とある。

2017年11月11日土曜日

人呼んで「陸士8期生」のスター:金鐘泌先生

金鐘泌先生は「陸士8期生」の一人である。1948年12月8日、ソウル郊外にあった陸軍士官学校に入学した1800人あまり。平均年齢、22歳前後。学歴要件は中学校卒業以上。民間出身者は6ヶ月、軍歴を持つものは3ヶ月で卒業。1949年5月、金鐘泌先生は8番で卒業。
 朝鮮戦争時に、金鐘泌先生は中尉として戦場にたった。休戦時には少佐であった。
1960年5月段階では、中佐に昇進していた金鐘泌先生は、張勉政権に不満を持つ八期生8人、吉在号・金炯旭などと共にクーデター計画に着する。
 1960年9月、金鐘泌・金炯旭ら陸士8期生11名はソウルの東和デパート東向かいの食堂「忠武荘」に集合し、夜ごとクーデター計画を練り上げた。そして、クーデター前夜の打ち合わせは、???。1961年5月16日午前3時、軍事クーデターが実施される。海兵隊第1旅団と空挺部隊はソウルの南部から漢江橋を渡り、ソウルに突撃。陸軍第6軍団砲兵隊はソウル北部のミアリ峠を越えた。ソウルに無血突入した兵士は約3千名。米軍と韓国軍第1軍の動きがクーデターの成否を決定した。

ちなみに金鐘泌先生は朴正熙大統領の実兄の娘婿。

金先生から直接に聞いた話の中で、絶対におもしろいのが、
*朴正熙と共に軍事革命計画を練り上げた話
であった。すでに多くの方々の衆知の事実であろうから、改めてこの場で紹介するまでもないだろう。実に愉快な話が仁寺洞の旅館事件。軍事クーデター前夜の緊張感漂う雰囲気の中での「笑い話」である。
もう一つは、
*自民党の大野伴睦副総裁、熱海の別荘訪問
の話である。この話は日韓正常化会談の交渉経緯を語るに欠かせないが、あまりにも愉快すぎて、これも口外するわけにいかない。

金鐘泌先生に10回以上お目にかかっったが、豊かな人間的魅力に富み、加えて頭脳明晰であった。

仮に再会が許されれば、
1)韓国軍の南ベトナム派兵の舞台裏
2)初代中央情報部長時代の実話
3)



寺内文庫調査--田川孝三先生

昭和40年4月5日発行の「寺内文庫朝鮮本調査目録」が公表されている。調査者は田川孝三先生。
昭和40年現在、朝鮮本は276部1279冊。
田川先生選定の一級本リストは、次の通り。
1)103「高句麗広開土王碑」4幅
2)244「正祖王書帖」
3)245「帖王書」

思いつくままに特徴を記したい。
1,噂とか、あるいは韓国の通説にある「寺内文庫は日本人による朝鮮本強奪倉庫」だという。そうであれば、これだけ「後人の臨模」とか「後人の書写本」などはない。つまり。1級品ではない。むしろ朝鮮人にだまされて、これだけインチキ品を購入させられたとするならば、寺内正毅総督はお人好しといわざるを得ない。寺内総督も知りつつ、インチキ品を入手したに違いない。売りつける朝鮮人の巧みさに舌を巻く。

2,我が逸品は、
*82「益斉月落帖」--李斉賢の書
だけ。