2018年3月29日木曜日

台北帝国大学所蔵資料

台北帝国大学所蔵資料のいくつかが紹介されているので、転載しておこう。
1,院庁牒
2,北条実政自筆書状
3,感神院所司奏状
4,沖縄県古拓本
5,土佐光起筆三条西実隆像
6,歴代宝案
7,足利義満御教書
8,北条氏輝下知状
9,蒙古襲来絵詞
10,芥屋新六交し貿易絵巻
などなど。昭和11年(1936年)の開学記念展覧会。

2018年3月11日日曜日

河上肇博士の歌と万葉かな

『貧乏物語』の著者河上肇博士の歌

*たどりつき振り返り見れば、山河は越えては越えてきつつものかな

河上博士が1932年(昭和7)日本共産党に入党したときに、その感懐を歌ったモノである。
私が知る歌は、歌集などではなく、京都の法然寺に墓所がある河上博士の墓石に、この歌は、
*多度利津伎布理加弊理美礼者山川遠古依天波越而来都流毛野哉
と、万葉かなで記載されている。
この万葉かなをめぐるメモを書きたいと思う。



2018年3月10日土曜日

岡山の鼻塚

JR香椎駅の東には、耳塚(きりみみづか)や馘塚(くびきりづか)と呼ばれる石塔がある。その真相は不明であり、世に喧伝される文禄慶長の役と無関係かどうかを知る調査は未了である。
ところで、岡山県備前市香登本にある「千鼻霊社」は、小祠。俗に言う「六助の千人鼻塚」。現在の祠は1982年再建されたそうだ。文禄慶長の役で秀吉軍の残虐性を喧伝する格好の資料として活用されている。
 ところで、この千鼻霊社とは何か?

 伝説形成のメカニズムを考えさせる上に、1992年11月に開催された韓国仏教福祉協会による慰霊祭が決め手となり、もはやこの霊社は文禄慶長の役との関連を否定できなくなった。さらに地元紙が「400年ぶりに魂故国へ秀吉出兵で犠牲の朝鮮兵士」と見出しをつけることで、追い打ちをかけた。

2018年3月9日金曜日

イタリア ベネチア アジア博物館蔵 シーボルト関係資料

イタリア ベネチアに遊んだとき、アジア博物館を訪問した。書蔵のシーボルト関係資料を拝見するためであった。
以下は、その時のメモ


Engelbert Kaempfer ケンペルについて

ケンペルの郷里、Lemgoに遊んだことがある。約10年前のこと。

その後、大英図書館で、Gardner先生編の

*Engelbert Kaempfer's Japanese Library (British journal of Far eastern Studies Vol VⅡ1959)

を拝見した。

筑前国箱崎の利休

時は、天正15年6月10日、秀吉は箱崎天満宮境内に茶の釜を立てる。

「唯今は筑前国箱崎御逗留に候、御茶湯ざしき立申、急度数寄出可申候」

とは、利休の書簡にあり。

天正18年頃の熱海温泉--利休と古田織部

ふときづいたので、メモを書き残したい。茶人利休が秀吉の小田原攻めに随身したときの歌に、
*ふけぬれば あたみのほらのつゆとともに こけのむしろを やどりとぞする
がある。

ちなみに、本歌は、小田原に着陣した秀吉の閑暇に、古田織部と共に利休が熱海に巡遊したときの歌。