2019年5月26日日曜日

李太祖発給の古文書2通


日本と比較して、朝鮮半島には古文書の残存が圧倒的に少ない。「かくれんぼをしている」と冗談さえ通じないほどである。ましてや新羅時代や高麗時代、李朝時代でも文禄慶長の役以前の古文書は容易に目にできない。
 『朝鮮史』第4編第1巻(朝鮮史編集会)には、二つの写真が掲載されている。
鎮安君芳雨田■(水+田)賜給文書
康舜龍進封王旨
である。この2つの文書の歴史学的考察は後日を期すこととして、今、私の関心の赴くままに記述してみたい。
(1)鎮安君芳雨田■(水+田)賜給文書
 この文書の発給年代は「洪武二拾五年捌月」とあることによって、1392年であると知る。今、土地の面積を呼称するに「頃と結」を用いているが、その「頃」は不明である。しかし「結」は租税を意味し、李朝時代には「結負」と呼んだので、それは動かないだろう。そして水田には「斗落、もしくは石落」を、水田ではない「火田」には「日耕もしくは朔耕
」を用いていることにも留意したい。
 この文書で注目すべきは「父祖伝来田■(水+田)等乙良(吏読「を」の意)」の箇所である。文書の発給者は「王」、つまり李太祖であり、王の第1子鎮安君芳雨に与えた文書だけに、李太祖の「父祖伝来」の文字が気になる。李太祖の父は桓祖、そして祖父は度祖に遡るが、いつごろから「朔方道」(つまり「咸鏡道」)に伝来の所有田が存在したかである。
 我が見解では、そもそも女真人であっただけに李太祖の来源を明確に語る好個の文書だと考える。
 なお、この文書の印も見逃せない。なぜならば王であれば、4カ所に押印された「行信之印」は不思議であり、本来であれば「寶」とあるべきだからである。洪武25年と言えば、李太祖が開城の壽昌宮で建国を宣言した翌月である。王に即位した直後であるだけに、そのFormatは未決定であったと推測される。

(2)康舜龍進封王旨
 康舜龍とは、李太祖の継妃神徳王后の実兄。そして神徳王后は李太祖の世子芳碩の生母であるだけに、康舜龍は叔父に当たる。我が関心は、その姻戚にあらず、印「朝鮮王寶」にある。李朝時代の教旨に押印されるのは「施命之寶」であり、明国への事大文書には「朝鮮国王之印」である。とすれば、この「朝鮮王寶」とは異例である。朝鮮半島で建国を宣言したものの、冊封体制にあった朝鮮は明国に対して「権知国事」とのみ称していたので、李太祖は「こっそりと」朝鮮王を自称していたことに他ならない。

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