『日本書紀私記』弘仁私記序には、次の書名を認める。しかし佚書である。
1)世有神別記十卷<天神天孫之事、具在此書>
2)諸民雜姓記、
<或以甲後為乙胤、或以乙胤為甲後。如此之誤徃徃而在。苟以曲見、或無識之人也。>
3)諸蕃雜姓記。<田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等祖思須美、和德兩人、大鷦鷯天皇御宇之時、自百濟國化來而言、己等祖是貴國將軍上野公竹合也者。天皇矜憐、混彼族訖。而此書云諸蕃人也。如此[書]觸類而世也。>
現代のデータベースでは、
『日本書紀私記』弘仁私記序には、次の書名を認める。しかし佚書である。
1)世有神別記十卷<天神天孫之事、具在此書>
2)諸民雜姓記、
<或以甲後為乙胤、或以乙胤為甲後。如此之誤徃徃而在。苟以曲見、或無識之人也。>
3)諸蕃雜姓記。<田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等祖思須美、和德兩人、大鷦鷯天皇御宇之時、自百濟國化來而言、己等祖是貴國將軍上野公竹合也者。天皇矜憐、混彼族訖。而此書云諸蕃人也。如此[書]觸類而世也。>
現代のデータベースでは、
『続日本紀』天平18年12月是歳の条に、
「 是年、渤海人及鐵利惣一千一百餘人、慕化來朝、安置出羽國、給衣糧、放還」
「癸巳、敕陸奥、出羽等國、用常陸調絁、相模庸綿、陸奥稅布、充渤海、鐵利等祿、又敕、在出羽國蕃人三百五十九人、今屬嚴寒、海路艱險、若情願今年留滯者、宜恣聽之」
とあり、ここにも「渤海と鉄利」の名を見る。併せて、出羽国には約1450名の渡来者が記述されている。その当時の出羽国の人口は数万人であったと推定しているので、その比率は限りなく大きい。
注目するのは、この記述形式であり、「渤海人及鐵利」のように、渤海には「人」が付き、鉄利にはそれがないことである。その記載差に注目すれば、渤海は国家として認め、鉄利は国家名ではなく、部族名であるとさえ想到してもかまないだろう。
なお、 『唐書』巻219[6179-7]に よれば、「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」とある。
その靺鞨は高句麗に接した所にいた栗末部、その北にいた伯咄部、その東北に安車骨部、伯咄部の東に沸涅部、その東にいた号室部、安車骨部の西北に黒水部、そして粟末部の東南には白山部の7つのグループに分かれていたらしい。
高句麗が滅亡した後、白山部・安居骨部・沸涅部・号室部などがいずれかに吸収されたが、黒竜江流域に居住していた靺鞨の内で黒水部と粟末部のみが生き抜いた。
したがって、渤海語の根幹にツングース語系の粟末靺鞨語があったと推定され、語彙などに高句麗語を含まれていたと考えてよいだろう。というのも、そもそも渤海は粟末靺鞨と高句麗の残党によって建国されたからである。
『日本書紀』垂仁2年是歳条に、
「一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海𢌞之、經出雲國至於此間也。」
とある。この記事自体はあまりにも著名であるので、不要な解説は抜きにして、早速私の問題の所在を指摘したい。
本文によると、角鹿在地の人が来着した「額有角人」に対して質問する、「何国人也」と。その来着者は「意富加羅国」人だと答える。その名を「都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐」と回答する。この名に関しては、後考に委ねる。
当面の考察対象は、「何国人也」と尋ねたのに対して、その来着者が「意富+加羅+国」と回答した時に、「加羅」の前に「意富」という語を付着させていることである。この「意富」は「おほ」と読み、「大きい」と理解するのが定説である。例えば、「お ほ ち (大 路 )」だけを取り上げれば、容易に納得できるだろう。 「青 丹 よ し 余 良 の 於 保 知 は 行 き よ け ど こ の 山 道 は 行 き 悪 し か り け り (安乎尓与之 奈良能於保知波 由吉余家杼 許能山道波 由伎安之可里家利)」(万 3728番歌 ) とか「路(ミチ、 オ ホ チ)(名 義 抄 )」を提示するだけでもその補完は十分である。なお、追記するならば、『続日本紀』天平18年正月条の
*大辛刀自売
の例も頭の隅においてよいだろう。
その考え方を支持するならば、その問答は日本語運用者しか理解出来ないことになる。加えて、敦賀に来着した朝鮮半島人と現地人との間に訳語(通詞)が介在しない会話を成立させている。
ここで想像を許されるならば、その朝鮮半島の「おほから」の地が日本語と朝鮮語(加羅語)の両言語の通用を可能にした多重言語地帯であったと考えられる。人々はバイリンガルもしくはトリリンガルであったと推測したい。例えば、シンガポールでは英語・中国語・マレー語・タミル語の4言語が公用語であるように。
なお、日本の統治地域であったと想定するつもりは全くない。朝鮮半島に存在した百済や新羅の王権が及ばず、そして日本の支配も届かない、いわば両統治が重なり合う中間地帯を想像したい。それがこの朝鮮半島南部地域において政治的に必要であったからである。朝鮮半島各国や日本列島、さらには中国大陸などの諸権益の緩衝地帯であったのではないだろうか。
もちろんこの一語(「意富」)だけを針小棒大化して、すべてを解決できると甘い期待を持つわけではない。むしろ硬直した日韓古代交流史に多様な考えを提出したいと願うだけである。
下記は『続日本紀』天平宝字2年(758)10月28日条である。
(資料①) 「丁卯、授、遣渤海大使從五位下小野朝臣田守、從五位上。副使正六位下高橋朝臣老麻呂、從五位下。其餘六十六人、各有差。
美濃國席田郡大領外正七位上子人、中衛無位吾志等言、子人等六世祖父乎留和斯知、自賀羅國慕化來朝。當時、未練風俗、不著姓字。望隨國號、蒙賜姓字、賜姓賀羅」「『経国集』巻20 策下 対策
問。三韓朝宗。為日久矣。占風輸貢。歳時靡絶。頃藂爾新羅。漸闕蕃礼。蔑先祖之要誓。従後主之迷図。思欲。多発楼船。遠揚威武。斮奔鯨於鯷壑。戮封豕於鶏林。但良将伐謀。神兵不戦。欲到斯道。何施而獲。
文章生大初位上紀朝臣眞象上
臣聞。六位時成。大易煥師貞之義。五兵爰設。玄女開武定之符。人禀剛柔。共陰陽而同節。情分喜怒。與乾坤以通靈。實知。天生五材。民並用之。廢一不可。誰能去兵。若其欲知水者先達其源。欲知政者先達其本。不然何以驗人事之終始。究徳敎之汚隆。故追光避影而影逾興。抽薪止沸而沸乃息。何則。極末者功虧。統源者効顯。觀夫。夷狄難化。由来尚矣。禮儀隔於人靈。侵伐由於天性。雁門警狁火。獫猾於周民。馬邑驚鹿驕。子梗放漢地。自彼迄今。歴代不免。其有協柔荒之本圖。悟懷狄之遠筭者。是蓋千歳舞階之主。江漢被化之君也。故不血一刄而密須歸仁。不勞一戎而有苗向徳。然則兕甲千重。虎賁百萬。蹴蹋戎冠之地。叱咜鋒刄之間。徒見師旅之勞。遂無綏寧之實。我國家。子愛海内。君臨㝢中。四三皇以垂風。一六合而光宅。青雲中呂。異域多問化之人。白露凝秋。將軍無耀威之所。兵器鎖而無用。戎旗卷而不舒。別有西北一隅鶏林小域。人迷禮法。俗尚頑兇。傲天侮神。逆我皇化。爰警居安之懼。仍想柔邊之方。秘略奇謀。俯訪浅智。夫以。勢成而要功。非善者也。戰勝而矜名。非良將也。故擧秋毫者。不謂多力。聽雷電者。不爲聡耳。古之善戰者無智力。無勇功。謀於未萠之前。立於不敗之地。是以權或不失。市人可駈而使。謀或不差。敵國可得而制。發號施令。使人皆樂聞。接刄交鋒。使人皆安死。以我順而乗其逆。以我和而取其離。孫吳再生。不知爲敵人計矣。是百勝之術。神兵之道也。於臣之所見。当今之略者。多発船航遠跨邊岸。耕耘既撫甿之術。役之勞。紛織無脩。室盈怨曠之歎。殆撫甿之術。恐貽害仁之刺。誠宜択陸賈出境之才。用文翁牧人之宰。陳之以徳義。示之以利害。然後啗以玉帛之利。敦以和親之辭。絶其股肱之佐。呑其要害之地。則同於檻獣。自有求食之心。類於井魚。詎有觸綸之意。謹對。
問。上古淳朴。(以下、略)」
いずれにせよ、席田君らは「新羅人」だと自称することによる利益を見出さなかったからだろう。だからこそ、彼らは急いで「賀羅国」人へと衣換えをすることで、彼らはチャンスを捕まえ、さらには大きな利益が期待できたからであろう。