2024年6月10日月曜日

意富加羅国と大辛氏

 『日本書紀』垂仁2年是歳条に、

一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海𢌞之、經出雲國至於此間也。」

とある。この記事自体はあまりにも著名であるので、不要な解説は抜きにして、早速私の問題の所在を指摘したい。

 本文によると、角鹿在地の人が来着した「額有角人」に対して質問する、「何国人也」と。その来着者は「意富加羅国」人だと答える。その名を「都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐」と回答する。この名に関しては、後考に委ねる。

 当面の考察対象は、「何国人也」と尋ねたのに対して、その来着者が「意富+加羅+国」と回答した時に、「加羅」の前に「意富」という語を付着させていることである。この「意富」は「おほ」と読み、「大きい」と理解するのが定説である。例えば、「お ほ ち (大 路 )」だけを取り上げれば、容易に納得できるだろう。 「青 丹 よ し 余 良 の 於 保 知 は 行 き よ け ど こ の 山 道 は 行 き 悪 し か り け り (安乎尓与之 奈良能於保知波 由吉余家杼 許能山道波 由伎安之可里家利)」(万 3728番歌 ) とか「路(ミチ、 オ ホ チ)(名 義 抄 )」を提示するだけでもその補完は十分である。なお、追記するならば、『続日本紀』天平18年正月条の

*大辛刀自売

の例も頭の隅においてよいだろう。

その考え方を支持するならば、その問答は日本語運用者しか理解出来ないことになる。加えて、敦賀に来着した朝鮮半島人と現地人との間に訳語(通詞)が介在しない会話を成立させている。

 ここで想像を許されるならば、その朝鮮半島の「おほから」の地が日本語と朝鮮語(加羅語)の両言語の通用を可能にした多重言語地帯であったと考えられる。人々はバイリンガルもしくはトリリンガルであったと推測したい。例えば、シンガポールでは英語・中国語・マレー語・タミル語の4言語が公用語であるように。

なお、日本の統治地域であったと想定するつもりは全くない。朝鮮半島に存在した百済や新羅の王権が及ばず、そして日本の支配も届かない、いわば両統治が重なり合う中間地帯を想像したい。それがこの朝鮮半島南部地域において政治的に必要であったからである。朝鮮半島各国や日本列島、さらには中国大陸などの諸権益の緩衝地帯であったのではないだろうか。

 もちろんこの一語(「意富」)だけを針小棒大化して、すべてを解決できると甘い期待を持つわけではない。むしろ硬直した日韓古代交流史に多様な考えを提出したいと願うだけである。



 

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