『続日本紀』天平18年12月是歳の条に、
「 是年、渤海人及鐵利惣一千一百餘人、慕化來朝、安置出羽國、給衣糧、放還」
「癸巳、敕陸奥、出羽等國、用常陸調絁、相模庸綿、陸奥稅布、充渤海、鐵利等祿、又敕、在出羽國蕃人三百五十九人、今屬嚴寒、海路艱險、若情願今年留滯者、宜恣聽之」
とあり、ここにも「渤海と鉄利」の名を見る。併せて、出羽国には約1450名の渡来者が記述されている。その当時の出羽国の人口は数万人であったと推定しているので、その比率は限りなく大きい。
注目するのは、この記述形式であり、「渤海人及鐵利」のように、渤海には「人」が付き、鉄利にはそれがないことである。その記載差に注目すれば、渤海は国家として認め、鉄利は国家名ではなく、部族名であるとさえ想到してもかまないだろう。
なお、 『唐書』巻219[6179-7]に よれば、「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」とある。
その靺鞨は高句麗に接した所にいた栗末部、その北にいた伯咄部、その東北に安車骨部、伯咄部の東に沸涅部、その東にいた号室部、安車骨部の西北に黒水部、そして粟末部の東南には白山部の7つのグループに分かれていたらしい。
高句麗が滅亡した後、白山部・安居骨部・沸涅部・号室部などがいずれかに吸収されたが、黒竜江流域に居住していた靺鞨の内で黒水部と粟末部のみが生き抜いた。
したがって、渤海語の根幹にツングース語系の粟末靺鞨語があったと推定され、語彙などに高句麗語を含まれていたと考えてよいだろう。というのも、そもそも渤海は粟末靺鞨と高句麗の残党によって建国されたからである。
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