考古学者の発言はかなり意欲的である。
河野通明著「大阪府の在来犂 Ⅱ ―渡来人の動向と泉南・紀北圏の復原」
が、それである。
まず、河野氏の指摘によって、「畿内の曲轅の海のなかでひときわ朝鮮系をアピールする中央
低地の直轅犂は,662~3年ごろの政府モデル犂配付時に渡来人子孫によって意図的に選択され
たものである。ところでこの寝屋川市から東大阪市にかけてと大阪市域の低地部分は大化5年
(649)の立評時に茨田・讃良・河内・若江・渋川・東生・百済郡の前身の評に分断されるが,直
轅犂はその郡域を越えて分布していることが注目される。寝屋川市から東大阪市にかけての低地
のネットワークはもともと自主避難の渡来人のセーフティーネットとして形成された私的な情報交換組織であり生活防衛組織である。」(90頁)とする。
そしてこの地域では、「「韓の神」とするなら渡来から280年
前後,8~10世代を経てなお朝鮮系祭祀を続けているのはコリアタウンゆえと考えられる。」(90頁)だと推定する。
また、
「5世紀欄の3種の犂へらは第2期渡来人によって朝鮮半島から持ち込まれたもので,各地で形
が異なるのは朝鮮半島の出身地の違いであろう。奈良盆地・大阪平野欄の「朝鮮系2爪2鈕へ
ら」は犂柱を挟んで位置決めする小さな三角爪の付いたものなのに対して,7世紀の泉南・和歌
山県北部欄の「2爪2鈕へら」は政府モデル犂の上湾爪を採用した混血型で,両者は全くの別物
である。また朝鮮系2爪2鈕へらが使われていたことが確実なのは政府モデル犂が製作された明
日香村近辺で,広い奈良盆地・大阪平野には他のタイプも混在していたことが考えられる」(93頁)
とまで踏み込む。