2024年8月25日日曜日

養老4年(720)の「天の香具山」は?

古代諸書に「天の香具山」とある。「天の」という美称からして、ミソロジックな雰囲気を漂わせる。古代的思考による神話的想像力を働かせた「香具山」イメージも各種発表されている。松前健などによる諸事例は当該書に委ね、ここでは割愛する。

 我が関心は、『大倭国正税帳』所収の

「養老4年検欠香山正倉穀壱伯柒拾弐斛柒斗柒升」

や、

「養老7年(723)検欠香山正倉国弐伯伍拾玖斛柒升」

の記事に着目して、その香具山に「正倉」が存在した事実である。大量の欠穀がなぜ発生したかを議論することは他日に委ねたい。

 ここでは、「天の香具山」周辺に、何棟かの正倉が点在していた事実であり、それを含めて「天の香具山」イメージを論じたい。

2024年8月4日日曜日

大胆な考古学者の発言ーー河野通明著「大阪府の在来犂 Ⅱ ―渡来人の動向と泉南・紀北圏の復原」

 考古学者の発言はかなり意欲的である。

河野通明著「大阪府の在来犂 Ⅱ ―渡来人の動向と泉南・紀北圏の復原」

が、それである。

 まず、河野氏の指摘によって、「畿内の曲轅の海のなかでひときわ朝鮮系をアピールする中央 低地の直轅犂は,662~3年ごろの政府モデル犂配付時に渡来人子孫によって意図的に選択され たものである。ところでこの寝屋川市から東大阪市にかけてと大阪市域の低地部分は大化5年 (649)の立評時に茨田・讃良・河内・若江・渋川・東生・百済郡の前身の評に分断されるが,直 轅犂はその郡域を越えて分布していることが注目される。寝屋川市から東大阪市にかけての低地 のネットワークはもともと自主避難の渡来人のセーフティーネットとして形成された私的な情報交換組織であり生活防衛組織である。」(90頁)とする。

そしてこの地域では、「「韓の神」とするなら渡来から280年 前後,8~10世代を経てなお朝鮮系祭祀を続けているのはコリアタウンゆえと考えられる。」(90頁)だと推定する。

また、

「5世紀欄の3種の犂へらは第2期渡来人によって朝鮮半島から持ち込まれたもので,各地で形 が異なるのは朝鮮半島の出身地の違いであろう。奈良盆地・大阪平野欄の「朝鮮系2爪2鈕へ ら」は犂柱を挟んで位置決めする小さな三角爪の付いたものなのに対して,7世紀の泉南・和歌 山県北部欄の「2爪2鈕へら」は政府モデル犂の上湾爪を採用した混血型で,両者は全くの別物 である。また朝鮮系2爪2鈕へらが使われていたことが確実なのは政府モデル犂が製作された明 日香村近辺で,広い奈良盆地・大阪平野には他のタイプも混在していたことが考えられる」(93頁)

とまで踏み込む。


2024年8月3日土曜日

 『古今著聞集』に収録されている歌「青柳の緑の糸を繰り置きて夏へて秋ははたおりぞ鳴く

とある「はたおり」。「おり」は「織り」で解決できる。古来、「はた」に諸説ある。

ここで諸説を紹介するまでもない。

まず、日本における紡織機の歴史を振る帰ることとしよう。

 紡錘には、回転運動により糸に撚りをかけるための道具と回転軸となる「紡軸」 、その動きを作り出す「紡輪」(錘車)、そして地機・高機が重要な道具である。古代遺跡で発見される出土品の多くは「紡輪」である。その材質 ・形態 は様々で時代差を確認できる。近世以降には材料に木綿が使用されるようになり、紡錘は「糸車」 に置き換えられるが、古代の紡錘は主に麻などの植繊繊維に撚りをかけたと推定されている。

 さて、ここで紹介したいのは、

東村純子著『考古学からみた古代日本の紡織』(2011年、六一書房)である。高著である。東村氏のCVを存知しないが、考古学を基盤の上に歴史学・民俗学・民族学などの隣接諸学をどん欲に吸収しながら、大系的に紡織という生産技術史の理解を図った点に多大な貢献をしている。