教科書でもおなじみの日本古代の「条里制」を理解しなければ、「六反田」の語義は解しえない。
念のためにごく簡単に説明すれば、条理制とは土地表示システムであり、かつ課税管理システムである。1区画(1里=109.4m。高麗尺6尺=1歩、300歩=1里)四方に区画して、さらに東西南北に6区画を分ける仕組みである。その並べ方には千鳥式と平行式があったが、その説明はここでは割愛する。その二つの方式は各地の土地利用・地形に合わせて適用したので、一様ではない。
さて、鹿児島県では六反田のほかに、例えば川内市の場合だけでも「六反畑」(平佐町)・「六反平」(宮崎町)・「六反堀」(宮崎町)などに見るように枚挙にいとまがない。同種の問題関心で探索を全国に拡大すると、「二反」・「三反」・「四反」・「五反」などもある。インターネット検索ではヒットするものの、管見に拠る限り、「八反」・「九反」を実際に見たことがないので、博雅の士のご教示を得たい。
さて、「六反田」先生の由来に戻ろう。上記したように、条里制の下、1からスタートしてその坪へと数え、それから36坪まで数字化されて土地は表示される。つまり六反田とは、その36坪を示す。
したがって、六反田先生のご先祖の本貫がいずれにあるのかをお尋ねしないままであるが、その36坪の田を意味し、その表示田の持主もしくは借り主であったと仮説できる。
なお、この「六反田」姓は圧倒的に鹿児島県に集中して存在する。その理由は後考を俟つ。
0 件のコメント:
コメントを投稿