2026年5月19日火曜日

伎倍」考ーー紀平氏の由来

 世の中には、生命学ならぬ姓名学もあるそうだ。

例えば、紀平氏。学のない私などは、かって『国体の本義』の中心的執筆メンバーである紀平正美氏などを思い浮かべる。

>>【読み】きひら,きへい,のりひら,きのひら,のりへい,きたいら,きだいら

【全国順位】 4,848位
【全国人数】 およそ2,200人 出典 紀平さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net|日本人の苗字・姓氏99%を掲載!!

さて、この「紀平」は漢字に引っ張られて「きひら」とか「のりひら,きのひら,きたいら,きだいら」などと読むが、本来は「きへい」であったと仮説する。

 KIpei→KiFei→KiHei→紀平 → きへい,のりひら,きのひら,きたいら,きだいら

 ところで『万葉集』には「あらたまのきへ」という語句が1か所ある

*3353番歌

阿良多麻能 伎倍乃波也之尓 奈乎多弖天 由伎可都麻思自 移乎佐伎太多尼

あらたまの伎倍の林に汝を立てて行きかつましじ眠を先立たね


*2530番歌

璞之 寸戸我竹垣 編目従毛 妹志所見者 吾戀目八方

あらたまの伎倍が竹垣網目ゆも妹し見えなばわれ恋ひめやも

これら『万葉集』中の2530番歌にせよ、3353番歌にせよ、『倭名類聚抄』に「阿良多末」とあるように、「あらたま」は遠江国麁玉郡である。

 「きへ」に関しては、同じ『万葉集』に

*3354番歌

伎倍比等乃 萬太良夫須麻尓 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許尓

伎倍人の斑衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に

にもある。この3例から推測するに、「きへ」は特定地名とする先行研究が多い。その一方で、「きへ」は柵戸(城戸)で、城柵周辺に居住する古代防御性集落に擬する説もある。

今の未熟な 我が学識で、わずか3用例ではいずれとも決しがたいので、ここでは両論併記を許していただきたい。

「きへ」は特定地名説ーー浜松市貴平町周辺

②「きへ」は柵戸説ーー軍事的防御施設周辺の集落

確かに遠江国軍団は、これまでの出土した遺物や意向などを総合的に考えると、現在の浜松市中区の伊場遺跡周辺に設置された可能性が高い。したがって、木場遺跡から7~8キロしか離れていない貴平の地に城柵で囲まれた軍事的施設が設置されたことになる。

その理由として、

  • 国府の近く(徒歩で往来できる距離)

  • 官道(古代東海道・中路)沿線

  • 天竜川西岸(兵站・水運)


  • 平坦な段丘上(演習場の確保)

などの諸条件を勘案すれば、いちがいに否定もできない。

さて、念のために正直に告白すれば、私見は、「紀平」氏の由来を「城柵」説だと考えている。ただし、そのエビデンスがない。

*あらたまの伎倍の林に

*あらたまの伎倍が竹垣網目ゆも

伎倍人の斑衾に

の内で、とりわけ第2例目に文学的興趣を覚えるからである。


2026年5月18日月曜日

嘉永7年(1854)11月4日朝五ツ半時(午前9時)関東・東海道嘉永地震:浜松の被害事例

 奈川新田書留(『浜松市史史料編五』)中に記載されている地震記録である。被害調査のひな型である。

 
   一、崩死   誰何才       一、怪我   同
   一、土蔵   何ヶ所  内本潰  何ヶ所  半潰   何ヶ所
   一、物置   何ヶ所  内本漬  何ヶ所  半潰   何ヶ所
   一、田畑検地 凡何程       一、牛馬   死何疋
        〆
 右は去る四日之地震にて、村々より先日訴出候得共、書面雛形之通聢と取調、明後十日朝四ッ時無遅滞、新台所役所へ一村限可差出候、尤即死之者も今般之儀は見分等無之候間、無遠慮可差出候、此配符以刻付早々順達、留り村より可戻候、以上、
    十一月八日

なお、この地震では津波による被害も発生している。

宝永4年(1704)10月4日昼八ツ時(午後2時)の浜松大地震

  一、宝永四己亥年十月四日昼八ッ時頃大地震御座候て、道中筋所々家潰半潰大破損家小破損家、其節御料所宿々へ御大名様方御手伝御付被成候て、宿々へ金子被下御取立遊候、

  一、勢州四日市宿より遠州見付宿迄、本多吉十郎様御手伝御代官外細田伊左衛門様、
  一、遠州袋井宿より駿州由比宿迄酒井左衛門尉様御手伝、
  一、由比宿より相州小田原迄真田伊豆守様御手伝、
 右宝永五子年正月より同三月時分迄、

2026年5月8日金曜日

英国の著名な日本学者 チェンバレンの愛人は?

 Basil Hall Chamberlainは、1882年に『古事記』を世界で初めて英訳した人物として著名

KO-JI-KI, or Records of Ancient Matters(1882) Transactions of the Asiatic Society of Japan 第10巻補遺

彼の初来日は、明治6(1873)年5月9日来日」

明治政府の調査によると、明治23年に東京帝国大学教授を辞任した後、明治25年現在の住所は、

東京府赤坂区台町 426・37坪、33.854円 戸田キン(名義人) 英国人チェンバレン(所有者) 、2棟。備考:名義人は所有者の妾(表記のママ)なり


注:赤坂区台町は現在の赤坂6丁目。


とある。

2026年4月27日月曜日

寛永廿年、七島臥蛇島の人口(男廿人女廿五人)と薩摩藩による飢饉救済

 寛永廿年、七島臥蛇島へ飢米被成下候付、御書付之内、

 一 米拾石一斗弐升五合 但、雑穀麦ニテモ、

 右者、男廿人女廿五人三ヶ月ノ飯米、 一人ニ付一日ニ 弐合五勺ッ、、七島臥蛇島当年飢ニ及申由申来候付、 

相渡候様被仰渡可被下候、以上、 

此表、七島臥蛇島ノ者へ可被相渡候由、岩切六右衛門 升一合、外一一欠米四合、 一能米一斗、上白米七升七合、但、 一升ニ付小米落米弐 304 股御使-一テ承候-一付、米拾石一斗弐升五合ノ員数ヲ可

被渡候、己上、 

未五月廿四日  三原佐衛門佐印 

     阿多内膳正殿 

此表、春麦拾石一斗二升五合先カキ、七島臥蛇島ノ彦七へ可被相渡候、以上、

 未五月廿六日      阿多内膳正印   

   大島蔵衆中

(『島津家歴代制度巻之五』)


注;現在は無人島【2026年)

宝永3年、薩摩焼苗代川の人口は男女749人ーー薩摩国 人口職業別調査  島津家歴代制度(巻之七)

 宝永三、改薩隅日 

一  男女四拾六万千九百六十一人  内、三万二千百九十九人、成改増人

 内、男二拾二万二千二百七十八人 

  女拾六万八百二十六人

   生男四万五千八十

  生女三万三千七百七十七人

 内、男女九万二千八百五人  御直土 

男三百七十九人       直山伏

男千四百三十一人     出 家

 男八十四人         茶道坊主 

男拾人                                          検校並平家座頭

男八拾六人       直医師

 男女四千九百七十四人   社 家

男百三拾八人      内侍

 男女三万三千四百四十六人  一所衆内衆 

男拾一人           又内 医師

男女二千三十四人      御兵具所組 足軽

男女八百一人         御厩付 御中間

男女千百二十五人       諸座付 

男女千百五十九人       七島 <現在の十島村の前身。 昭和27年(1952年)の日本復帰以前に、トカラ列島の有人7島を指していた行政名称>

男女六千七百七十七人     寺門前下々迄

 男五十人           門山伏 

 男女七千二十三人        上・下・西田町人

男女二十一万三千百六十九人    在郷 

男女九千三百二十六人        岡町  <注:遊郭など>

男女三万八千五十三人        浦浜  <注;漁民など>

男女七百四十九人         伊集院苗代川者

男二十二人            町 山伏

男百五十八人            在郷 山伏 

男女八百七十六人          上方並他国居付 百姓

 男女千四拾九人          御船手付        <注:船頭など>

男女四万二千四拾一人       御直土其外諸座付   下人並文々内   <中間・小者・武家奉公人など>

男二百四十八人          座 向   <礼法家・礼法師範など>

女二十八人           コゼ   <「瞽女(盲目の女性芸能者)>

 男二百七十九人          文内 山伏 

男女三千百九人          上方並江戸他国  抱者並居付非人 

男女百七十人           上方並江戸他国  牢人

 男九十四人             入墨流人

男九十八人              諸島流人

 男女百六十二人           鹿屋ノ内笠野原へ苗代川移者


薩摩藩の陶磁器(「薩藩例規雑集」五)ーー帖佐焼・立野焼・苗代川焼ノ類

 


「 我国陶多シ、所調帖佐焼・立野焼・苗代川焼ノ類ナリ、 名器ヲ以天下ニ称セラル、俗ニ帖佐焼ハ我国古来ノ陶ナ リ、故ニ古帖佐焼アリ、苗代川焼ハ朝鮮人伝来ノ器ナリ トイフハ非ナリ、又立野焼ハ陶工星山・有材ノ二氏立野ニ住スレハナリ、星山氏其先朝鮮国星山トイフ所ニ住ス、 帖佐ニ来リ陶ヲ業トス、是ヲ古帖佐焼トイフ、今ノ帖佐 焼ハ其流ナリ、星山氏鹿児島立野ニ移テ焼ク、是ヨリ立野焼トイフ、朝鮮人ヲ苗代川ニ移シ玉フノ時、産業ナキ カ故ニ陶ヲ星山氏ニ学ハシメテ産業トセシム、是ヨリ今  日ニ至苗代川焼トイフ、



苗代川村朝鮮人ノ由来 (鹿児島県史料『薩摩藩法令史料集』6、四O四番 )

 『薩摩藩法令史料集』6、四O四番 

苗代川村朝鮮人ノ由来 

苗代川朝鮮人ハ、慶長三年惟新公朝鮮国ヨリ御帰朝之時、 朝鮮人多人数捕ヘラレ串木野ヘ召置カル、今愛ヲ本壷屋 トイフ、同八年ノ冬苗代川へ移サレ、子孫繁栄シテ今 二百五十三家、男女千二百七拾余人ニ及フ、他姓ヲ雑へス 他へ嫁セス、

 光久公以来御参勤御交替、此所ヲ宿ト定メラレ御目通ニモ召出サレ、李・朴・伸・伸ノ四家外 城士格ニ仰付ラレ、村中取扱イタシ、其外茶碗・磁器・ 焼物細工ヲ業トス、隅州鹿屋笠野原近年苗代川ヨリ 家移サレトモニ繁栄ス

***********

<参考資料①>

『薩摩藩法令史料集』巻五の三九四

苗代川焼註記

「苗代川焼ハ朝鮮人伝来ノ器ナリトイフハ非ナリ(略)星山氏鹿児島立野ニ移テ焼ク、是ヨリ立野焼トイフ、 朝鮮人ヲ苗代川ニ移シ玉フノ時、産業ナキカ故に陶ヲ星山氏に学ハシメテ産業トセシム (略) 」

帰化朝鮮人の星山氏から陶業を学び苗代川焼が始まったので、苗代川焼は朝鮮人伝来の器ではないと註記するが、串木野に上陸した朴平意などが苗代川に移り、慶長九年三月、苗代川で始めて築窯したとするのが通説である:(『鹿児島 県史』第二巻)


<参考資料②>

薩藩例規雑集一三 

 二四四 苗代川朝鮮人伸伸李朴四家帰化由来


<参考資料③>

藩例規雑集一四 

 朝鮮征伐

<参考資料④>

薩藩例規雑集二O 

朝鮮図書書式 

与新井白石書

 征韓役ノ形況概略

<参考資料>

薩藩例規雑集二三

朝鮮国王江被遺物三使以下江被下物
















『道昭集』の鹿屋と苗代川

 

『道昭集』鹿児島県資料【58】


 一 苗代川朝鮮人ハ慶長三年惟新公朝鮮国より御帰朝の時、朝鮮人 多人数捕へられ、串木野へ召置かる、今爰を本壷屋といふ、

八年の冬苗代川へ移され、子孫繁栄し今二百五十三家、男女 千二百七十余人に及ふ、他姓を雑へす他へ嫁せす、 光久公以来御参勤御交替此所を御宿と定られ、御目通にも召出さ れ、李・朴・伸・伸の四家、外城士格に仰付られ、村中取扱いた し、其外茶碗・磁器・焼物細工を業とす、隅州鹿屋笠野原近年苗代川より数十家移され、ともに繁栄す、 

鹿児島県安永8年地震メモ

 「安永8年亥の、九月

朔日より地うごき海底なりて潮鼎の湧くがごとく、こはいかならんと〜〜.」

津波の被害と火山噴火被害で、死亡者は164名、負傷者は「百余人」とある。

記事には、海底隆起で島が7つ出現したと記す。


高木善助、朝鮮に漂着した薩摩人から話を聞く

(1)薩摩国片浦(鹿児島県南さつま市笠沙町片浦ーー2月27日(記述は、2月28日条にあり)(第2巻、674頁)

「先年朝鮮漂流にて色々めずらしき、談あり」

(2)薩摩国秋目港(現在は鹿児島県南さつま市坊津町秋目、薩摩国河津郡久志秋目郷秋目村)ーー2月27日条

  「此宿の主も琉球行の者にて、先年朝鮮へ漂流のよし。色々談あり」(第2巻、674頁)

残念ながら、高木善助は聞き取った話を未記載。

2026年4月21日火曜日

笠野原 玉山神社に伝わる「神降しの神事」

 「旧8月14日~神降しの神事・巡幸祭 司人(現在は氏子総代)を任人として秘伝のの祓詞・御戸開・餅返・降神の呪文(祝詞は和文ではなく、異国の言葉である)による神降しの神事を行い、神託により集落内を巡幸」

玉山神社 よりの転載


笠野原の玉山神社は、宝永5年(1708)に薩摩国日置郡美山の玉山神社を勧請して創建された分社である。美山(旧・苗代川)は朝鮮陶工の居住地であり、同地の玉山神社で檀君信仰を祭っている。

そのため笠野原でも、

  • 檀君を祀る信仰体系の、苗代川から笠野原への移植

  • 朝鮮系の呪文を含む降神儀礼

が始まったらしい。


<参考情報>

「笠野原台地」は,「肝属川」本流と支流である「串良川」の間に挟まれた,東西の最大幅が約12km,
南北の最大幅が約16kmという,九州地方で最も広大な「しらす(シラス)台地」です。
しらす(シラス)は,元々鹿児島地方での方言で,正式には「入戸(いと)火砕流堆積物(非溶結部)」と言います。
入戸火砕流堆積物には,溶結部と非溶結部がありますが,しらすは非溶結部のみを指します。 すなわち,細粒の軽石や火山灰の混合物で構成されていま

日本の地形千景 鹿児島県:笠野原(しらす台地,シラス台地)

伊能忠敬測量日記に見る笠野原(鹿屋市)

 伊能忠敬測量日記

「鹿屋郷中の村字笠野原(先手昼休、此所は朝鮮人の末に而、男女共悉有髪)、鹿屋中の村、野町迄測る」


測量日記第7巻 概要

文化7年4月29日
(1810.5.31)
文化7年12月30日
(1811.1.24)

 本巻の対象地域は、九州第一次測量の内、飫肥城下入口の平野村から鹿児島、天草、熊本を経て大分までである。
 都井岬、内之浦から、大隅半島を鹿屋経由で横断し、西岸に出る。南下し、半島を一周して6月23日、鹿児島に着く。薩摩半島を南下、山川湊から屋久島、種子島に渡る予定だったが、風が悪いので枕崎方面に向かう。
 薩摩半島を測量ののち串木野で手分けし、海岸線と街道筋を測って肥後に入る。ここで屋久島、種子島測量を断念し、天草を測ったのち大分に12月28日に到着するまでが記載されている。



鹿児島県 いちき串木野市にあった高麗・朝鮮鐘

 偶然に止目した古文書に、高麗・朝鮮鐘の銘文があった。

現在、どこに所在するのか不明だが、鐘の銘文だけが残されている。

その鐘に刻印された銘文を見ると、鐘が鋳造された年を明徳5年とあり、その前後は高麗滅亡(1392)後、李成桂政権への政治権力移行期にあたるだけでなく明徳5年(1394年)は、日中朝三国すべてが「新しい秩序」を固めていく節目の年であった。

2026年4月20日月曜日

「笠之原」の読みは

 鹿児島県鹿屋市の「笠之原」の読みは、明和5年3月11日に、この村を訪問した高木善助の日記には、

*かさのばる

とある。

島津義弘が連れ帰った朝鮮人は、苗代川→笠野原→萩塚原へ:3か所の玉山神社

 島津義弘が連れ帰った朝鮮人たちの史実は、改めて説明するまでもない。

苗代川研究は大武進氏らの手で進展したので、本稿では再論するまでもない。

1704年(宝永元)薩摩藩は苗代川の朝鮮人陶工の家門の、戸数34、男女160余名を笠野原へ移転させた史実に関しては、ここでも割愛する。

ここでの問題関心は、1866年(慶応2年)ごろに、戸数80、男女350人余りを、笠之原から隣村大姶良村萩塚原(鹿屋市萩塚町)に移したことにある。苗代川・笠野原に続き、ここ萩塚原にも「玉山神社」が祭られている。

  • 神社名:玉山神社
  • 神社名カナ:タマヤマジンジャ
  • 鎮座地:〒893-0023 鹿屋市笠之原町2124
  • 例祭日:旧二月十四日 旧八月十四日
  • 通称:玉山宮(オクサング)
  • 旧社格:村社
  • 神紋:
  • 摂末社:2
  • 社宝:
  • 御祭神

    • 素佐之男命(スサノオノミコト)

    神事・芸能

    旧八月十四日~神降しの神事・巡幸祭 司人(現在は氏子総代)を任人として秘伝のの祓詞・御戸開・餅返・降神の呪文(祝詞は和文ではなく、異国の言葉である)による神降しの神事を行い、神託により集落内を巡幸する。

    由緒

    宝永五年、日置郡美山鎮座の玉山神社を勧請して創建された。豊臣秀吉の朝鮮出兵の折り連れ来った焼物師が奉斎したものである。祭神は韓国開祖檀君であったが、明治になって素佐之男命に改められた。


(2)玉山神社

  • 神社名:玉山神社
  • 神社名カナ:タマヤマジンジャ
  • 鎮座地:〒893-0035 鹿屋市飯隈町3081
  • 例祭日:十一月二十三日
  • 通称:
  • 旧社格:村社
  • 神紋:
  • 摂末社:
  • 社宝:

御祭神

  • 天照大神(アマテラススメオオカミ)

由緒

島津家久公が日置郡苗代川の御焼物所へ下向の折り、帰化高麗人の信仰する氏神を質された。朝鮮開祖の檀君を祭っている旨言上したところ、天照大神並びに素戔鳴尊を祭るようにと申されたため、二柱を祀る玉山宮を創建し、殖産興業の祖神、武神とした。当神社は、この玉山宮を勧請したものである。

明治十年の祭神・社格書上の折り、玉山神社と改めて無格社に編入され、昭和七年三月二十五日村社に列格された。

2026年4月14日火曜日

上総国阿波郡片岡里服織部小🔳戸服織部麻麻呂調壱束🔳

 木簡資料「上総国阿波郡片岡里」の地名に関して、『延喜式』や『倭名類聚抄』などから追跡できない。どこかの時点で、その地名は廃絶したらしい。

 ただし、藤原宮出土の木簡に「己亥年十月上捄国阿波評松里」とあることから、(己亥年)文武3年(699)10月段階に、上総国阿波郡(評)には片岡里のほかに「松里」も存在したと判明する。したがって、「総」の前には捄国・上捄・下捄など「捄」の字を用いていた。

 そもそも『古語拾遺』によると、

仍令天富命率日鷲命之孫求肥饒地遣阿波國殖穀麻種其裔今在彼國当大嘗之年貢木綿麁布及種種物所以郡名爲麻殖之縁也天富命更求沃壌分阿波齋部率往東土播殖麻穀好麻所生故謂之總國穀木所生故謂之結城郡(古語麻謂之總今爲上總下總二國是也)阿波忌部所居便名安房郡(今安房國是也)」

とあり、四国の阿波国と上総国阿波郡とは関連を有するという伝承があった。

その2地点を往来したのは「海上交通に従事した海人集団の墓」だと推定してもよいだろう。三角板革綴短甲、横矧板鋲留短甲、歩揺付金銅製品、銅製鈴、漆塗りの木製盾などが出土した大寺山巌窟墓は、その傍証であろう。

【市指定史跡】大寺山巌窟墓及び出土品等 | 館山市役所




<資料>

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ALRSE41000003
木簡番号0
本文・上総国阿波郡片岡里服織部小□戸服織部麻呂調壱束・○上総国阿波郡
寸法(mm)(247)
27
厚さ6
型式番号039
出典城12-10上(48)(日本古代木簡選)
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮東院地区
Heijō Palace (East Palace Sector)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数104
遺構番号SD8600
地区名6ALRSE41
内容分類荷札
国郡郷里安房国安房郡上総国阿波郡片岡里
人名服織部小・服織部麻呂
和暦 
西暦 
遺構の年代観710-730
木簡説明 
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6ALRSE41000003

■研究文献情報

<資料>

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AACVS15000020
木簡番号2267
本文安拝郡服織郷俵
寸法(mm)(208)
(20)
厚さ2
型式番号032
出典城44-21下(平城宮2-2267)
文字説明 
形状左欠(割損)。
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮造酒司地区
Heijō Palace (Office of Saké Sector)
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所
Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数22N
遺構番号SD3035
地区名6AACVS15
内容分類荷札
国郡郷里伊賀国阿拝郡服部郷
人名 
和暦 
西暦 
遺構の年代観710-756
木簡説明左側割損。二二六八と同文でしかも同筆の貢進札。同一の貢進物に附けられたものか。俵は米五斗の意であろう(延喜雑式)。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AACVS15000020

■研究文献情報


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF09000105
木簡番号0
本文・遠江国磐田郡壬生郷戸主服織→・○天平八年七月
寸法(mm)(123)
23
厚さ4
型式番号039
出典城30-45上(城24-24下(226))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)
Heijō Capital (Left Capital, Second Row, Second Ward, Fifth Block, Second Row Avenue, Moat-like Feature, Northern Part)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数198B
遺構番号SD5300
地区名6AFFJF09
内容分類荷札
国郡郷里遠江国磐田郡壬生郷
人名服織→
和暦天平8年7月
西暦736(年), 7(月)
遺構の年代観733-738
木簡説明 
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AFFJF09000105

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK005084000051
木簡番号0
本文己亥年十月上捄国阿波評松里
寸法(mm)(175)
26
厚さ6
型式番号039
出典荷札集成-75(木研5-84頁-(51)・奈良県『藤原宮』-(115)・奈良県藤原概報-(10)・日本古代木簡選)
文字説明 
形状上削り、左削り、右削り、下欠(折れ)。
樹種
木取り柾目
遺跡名藤原宮北辺地区
 
所在地奈良県橿原市醍醐・高殿町
調査主体奈良県教育委員会
 
発掘次数 
遺構番号SD145
地区名FG26-A(6AJEC-1)
内容分類荷札
国郡郷里安房国安房郡上捄国阿波評松里
人名 
和暦(己亥年)文武3年10月
西暦699(年), 10(月)
遺構の年代観 
木簡説明 
DOI

■研究文献情報


<参考資料>

『古語拾遺』の原文は、奈良女子大学所蔵、室町時代末期書写の卜部家本系統である。

「この系統の最古の写本は 卜部兼直が嘉禄元年(1225年)に書写した嘉禄本(天理図書館蔵)である。 本文庫本は、永正11年(1514年)の卜部兼満の奥書までを持つが、 「満」字は「-」を擦消して、その上に墨書したもので、室町末期の書写である。 原装渋引表紙、縦28.0cm、横22.0cm。本文と一筆の傍音訓・送り仮名・合符がある。 」

古語拾遺