小野勝年先生の論文を拝読し、以下の事実に接した。学恩に感謝したい。
中国山西省太原市の天龍山石窟には、造像記「右金吾衛将軍勿部玽功徳記」がある。この記文に関して、小野先生によると、すでにMarylin M.Rhie氏による英文での紹介もあるという(未見)。
そして活字に翻刻されたものとして、小野先生は『金石萃編』巻68を紹介されているので、誰にもアクセスできる記文である。
この記文によると、石仏を寄進したのは大唐天兵中軍副使・右金吾衛将軍・上柱国・遵化郡開国公勿部玽、本枝東海」であり、「内子楽浪郡夫人黒歯氏、即大将軍燕公之中女」であった。神龍2年(706)から造営し、はじめ石窟内に三世仏像(釈迦・阿弥陀・弥勒)のほかに諸賢聖像を製作し、神龍3年(707)8月に完成したという。碑文は景龍元年(707)に建立されたという。
660年に唐・新羅連合によって、百済が滅亡したが、それによって日本へ渡来した百済人の研究は相当に進んでいるが、その反面、唐の捕虜として百済人にかんしては ほとんど研究がなかった。
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