2019年11月3日日曜日

石橋道秀翻訳 パクヒョンチェ先生「国語発達史」翻訳


国語発達史 p125

Ⅳ 中期国語

1 概観

 朝鮮時代前期に該当するこの時期は、国語の発達過程にあって非常に重要な位置を占めている。14世紀末、高麗から朝鮮に王朝が変わったが、国語の中心勢力はソンドから遠くはない漢陽に移されただけ、京畿中部地域の言葉が持続され、大きな変動もなく引き継がれた。しかし、15世紀の中葉訓民正音の創製・頒布は国語生活全般に少なからず影響をもたらした。我が国の言葉を自由に書くことのできる文字が作られ、広く全面的に文字生活を支配することはできなかったものの、我々の意味と感情をそのまま表出する文字生活が始まったのである。このときから始められた仏教のハングル翻訳やハングル文学はこのような点において、その意義と成果が絶大であった。従って、これまで進行してきた国語における様々の変遷の様相が露わになり、一定の形態に整理さる様相を呈するに至った。これは、我が国の言葉を我々の固有の文字で正確に記録しつつ、自由に表せる文法意識に起因するものである。このような面を考慮する時、1443年訓民正音の創製頒布を分岐点として、新しい中期国語の時代が始まったと言ってよい。
 訓民正音は独創的な文字として、当時我が国の言葉の形態音素を正確に分析し、表記することができるように、非常に科学的な体系をもっている。一方、この新しい文字は、漢字音を表記する上においても、その効用性は極めて大きかった。しかし、ハングルが頒布された以後にも、両班の文字生活は、主として漢文に依拠しており、胥吏の公文書も引き続き、吏読や吏文に依存していたために、ハングルは庶民階層において多く用いられた。
 ところで、朝鮮初期の興隆していた文化は、壬・丙、両乱を経ながら、一大転換点を迎えるに至る。これにより、国語にも大きな変化が見られたが、ほとんどは訓民正音頒布150余年の間、変動してきた様々な現象が大きく拡大したり変動したりした姿を呈し、定着したものである。特に、16世紀末、朝鮮時代、各領域に大きな衝撃と、変化をもたらしていた壬辰倭乱は、社会現象の反映である国語発達にもそのまま影響を与えた。それゆえ、壬辰倭乱が終了した1598年までを中期国語の下限線として取り扱う。それ以後、展開される近代国語の時期には、発芽した庶民の意識を土台にして、ある新しい言語生活の様相が示される。では、15世紀中葉、訓民正音が発表され、16世紀末の壬辰倭乱が収束する朝鮮時代前期150年間の中期国語の時代に進行した国語変遷を概観すれば、次のとおりである。
 訓民正音が頒布された以後には、樂章・時調など、新しい文字による文学が発達し、仏教を主としてに多くの諺解本の出版が行われた。概ねは、中央官庁を中心としたソウル地域において出版されたものであり、中部地域語が主として反映されている。16世紀に入り、訓民正音が刊行され、訓民正音を再び整理し、宣祖時代には、経正庁を設置し、儒教の経典を翻訳した。そこで、この時期の文献は壬辰・丙子乱に遭遇したため大部分が散逸し、今日まで書物が残っているのは貴重なことであり、両乱の以後に出された重刊本だけ伝わる本も相当数にのぼる。しかし、我が国の言葉をそのまま書いた文献が大量に出版された時期は、国語発達史を記述するときに、正確に精密な資料を豊富に提供する意味において、極めて重要であり、よって、集中的な研究対象となって来た。
 中期国語は、基本子音20個と単母音7個の体系をもっていた。子音体系は閉鎖音系列から気音化と喉頭化対立をする3肢的相関束を形成し、摩擦音系列では喉頭化対立の2肢的相関束を形成している。
 子音の合用並書は硬音(濃音)を生み出し、各字並書は有声音の表記と見られる。単母音はを無関母音で後舌 対、非後舌 母音が相関的対立をなしており、このような対立は当時の母音調和と一致する。訓民正音の初期には終声の8個が使われているが、16世紀を過ぎて語末内破作用が起き、が中和され7個の終声に変わった。硬音化と激音化現象も明らかになったが、激音化は硬音化より多少遅く拡大されたようである。口蓋音化と鼻音化の作用は、15世紀に稀に表れるが、16世紀を過ぎると勢いが増した。この時期に発生の兆候を示す頭音法則現象はさらに遅く18世紀にならねば普遍化されることはない。中期国語末期になると音の消失を経験する。まず、第2音節以下に母音に変わる。これに伴い、後舌母音対非後舌母音だけの対立を示していた母音調和が体系に均衡を失い、厳格さが弱くなり始めた。中国語の四声によって、平・上・去・入声の声調が見られる中期国語は音の高低と長短による弁別力があったようである。しかし、16世紀を過ぎ、次第に意味上意味上の弁別力を消失しつつ体系が乱れ始め、近代国語に至っては表記もなくなってしまった。国語の漢字音は概ね、6~7世紀ごろの隋・唐初期の切韻音系である北方中原音が基層となっており、訓民正音頒布直後には現実中国音に立ち返ろうとする東国正音式の漢字音改新の試みがあったものの、程なく廃止された。
 文法部門において特筆すべき事項は、主格形語尾の登場である。以前まで一つの形態‘이’だけ存在していた主格形に16世紀後半に新しく登場した‘가’は、17世紀になってからは、広く拡散していった。郷歌にも見える語幹挿入母音-/-は中期国語においても主語話者の意図を意味するなどの使用が比較的多かった。時制も古代国語から体系化された過去(--)・現在(--)・未来(--)が用い続けられ、ただ過去形で15世紀に形成され使用を拡大させていった。敬語法としては主語を高くする主体尊待と、目的語に対する客体尊待、及び聞き手に尊待を示す相対尊待があり、それぞれ--, ,  に対応する。中期国語においては-, -, -, -など接尾辞形被・使などの形態が現代国語に、より生産性の高い力をもっており、相対的に’- 지다被動形と’- 使動形の分布が少なかった。否定文では、否定詞が本動詞の前に来る短い否定文と、古代国語後期に生まれた’- 아니という長い否定文がすべて自然に使われていた。中期国語だけでなく、開花期以前の近代国語までにも文献に表れる文語は、一連の一つの事件を一つの文章として表現しようとし、大部分が複合文の性格をもった非常に長い文章である。これらは当時口語と異なり、保守的な表現をもつこともあった。
 諺解本は、ほとんど口訣文の影響を強く受けた。長らく使用されて来た漢文は、文章だけでなく語彙の面においても大量の借用語を国語にもたらした。中期国語にも既に文化概念語の外に日常基本語彙に至るまで漢字語の使用は極めて広範囲に及んだ。韓国語の固有語まで駆逐する現象も少なくなかった。この時期まで国語の借用語のほとんど大多数は漢字語であり、仏教に関連した用語に梵語が中国を経て漢語として流入して来た。当時の中国から真っ直ぐ入ってきた中国語の借用語も見える。
 造語法は現代国語と似ている。名詞形には-음’が最も生産的で、‘이’の用法も今日よりはるかに広範囲であり、’-はその用いられ方が少なかった。複合用言形成においては、先行語幹の次に来る語幹を直接結合していた従来の造語形式において次第に二つの語幹の間に‘어‘を介入させる形態に変わりつつ共存していた。さらに当時用いられていた語彙の意味がその後にもほとんど変わっていない場合も大部分であるが、少なくはない語彙が、また、意味の変化がもたたらされて来た。意味が異なる値を持ち、縮小・拡大、または分化する通時的に様々の変遷の様相を示すのである。
 15世紀中葉訓民正音が頒布されて制定された文字の中で、一部、既に音韻の変化により自然に消滅した ㅎㅎ 15世紀に消滅し、' 16世紀末まで保つことなく、も変化を経た。訓民正音で規定した表音的音素主義的表記は、大体保持されてきたが、月印千江之曲には表意的形態主義で表記したものもあり、今日と同じ文法意識を示している。しかし、16世紀に至ると形態意識と表音性をすべて満たそうとする重綴表記を示しており、近代国語に至り、分綴表記として発達していった。15世紀中葉、当時の国語音韻に沿うよう作られた訓民正音は、時代が下るにつれて変遷する言語体系に沿う表記法としては自然のまま対応することはできなかった。朝鮮の公式文書でない政策的に整理できなかったためである。よって、16世紀を過ぎ、時代が下れば下るほど表記法の基準がなく混乱を避けることができなかった。
 以上、簡略に考えた中期国語の様々の変化は、壬辰乱を経て際だって表れ新たな曲面を迎える。政治・経済や文化の多くの分野にわたった近代社会としての変貌と共に近代国語の新しい時代が始まるのである。

2 資料

 この時期の文献資料は、我々の文字で書かれて刊行されされ、当時の言語の実態を極めて正確に反映している点において、これまでの資料と比べ高い価値をもっている。そこで、これらの編纂・刊行が概ね宮中やソウルの官庁で行われたものであり、ソウルを中心とした中央語が反映されており、両班・官吏など比較的上流階級の言語が盛り込まれている。仏教の漢文に対する諺解類が主として多く、漢文口訣と関わりのある翻訳の文体も一つの特徴である。また、口語と隔たりのある文語的表現も少なくない。しかし、綿密な考察を加えれば、156世紀国語の姿を明らかにする研究は、大きな成果を重ねることができる。漢字を借りて我が国の言葉の文章を記したり語彙を転写したりする方法によって記録されたそれまでの資料は、不完全であり分量面においても非常に少なく、古代国語研究に決定的な制約になってきた。中期国語時代に表れた文献も壬・丙両乱のときに多く消失し、現在本刊本に接するのが難しいのは惜しいことである。
新しい固有の文字である訓民正音で書かれた本としては、訓民正音を嚆矢とする。新しい文字の名称であり同時に本の名前でもある。訓民正音の版本には、いわゆる解例本と例義本がある。世宗25(1443)に創製完了し発表された訓民正音例義を記したものを例義本と呼び、例義の解説書として世宗28年に頒布されたものを解例本と呼ぶ。解例本は漢文本としてただ澗松文庫に伝わっている。例義本は実録、例部韻略に掲載された漢文本と月印釈譜の最初に掲載された国訳本がある。内容としては、御製序文と本文(新しい文字の音価及び使用法を明らかにした礼義)、そして解例정인지序文が載せられている。当時の新しい文字に対して、または、音韻体系や文法現象を研究するに当たっての基本的な資料として極めて重要な意味をになっている。

<以下、掲載略>

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