2022年5月30日月曜日

日本の大学における外国語教育--カリフォルニア大学バークレー校研修記(1)--2000年の事例

 

カリフォルニア大学バークレー校における外国語教育(前編)

 

 考えてみると、日本の大学における外国語教育は、1945年以降、いったい何時から、このような不可解な状態に陥ったのだろうか。

週2回、90分の授業。平均50~70名の多人数授業。開講数が全体の60%近くを占める英語科目のみならず、ドイツ語・フランス語等の未習外国語科目にしても、担当者の教材はバラバラで、各クラスの到達目標の設定もないまま。成績評価法も一致しなければ、教授方法もコースデザインも不揃い。英語以外の外国語教育における文法用語等の統一のなさも、この際指摘しておくべきであろう。その上に、大学の外国語担当教官の多くが各自の外国語教授法をマスターしないままに教壇に立っていることの不自然さも、忘れてはならないだろう。大学では研究業績の優秀なものだけが外国語教育に従事できる、たとえ各自の専門分野がその外国語科目とは無縁であろうとも。

 この数年、大学改革の名のもとで教養部解体が進行したが、地方の国立大学の大半では、憂慮すべきことに、外国語科目担当者のほとんどが専任教官ではなく、非常勤講師の手に委ねられてしまったという。かって教養部に在籍したからこそ、専任教官の責任が問われたが、それももはや放棄されてしまった。大学に外国語教育センターが新設されたところはまだ幸いである。というのもその名前の下に、外国語教育の責任が吸収されてしまったからである。

 なるほど幾つかの大学では、その大学独自の英語教材が作成された。東京大学教養学部の英語テキストはベストセラーにもなったので、思い出される方も多いに違いない。しかしながらその結果生じた事態は、大人数教室の設置であった。また外国語教育へのコンピュータの活用も進み、いまや講義室内には高価なLL機器が設置されている風景も珍しくない。

しかしながら自習や自宅学習でならばいざ知らず、教室内での教育に、人間が教える以上の効果をコンピュータに期待できるであろうか。

 21世紀の外国語教育はいかにあるべきかを課題として、2000年10月にアメリカに旅立った。

2022年5月16日月曜日

2022年5月15日日曜日

Berkeley アジア図書館所蔵 浅見コレクション朝鮮関係 写本リスト

 Berkeley アジア図書館所蔵 浅見コレクション 

活字本に関しては、私が作成した未熟なリストも含めて、4種ある。

現段階で、最も優れているのは高麗大学校海外韓国学資料センター作成の目録である。

http://kostma.korea.ac.kr/knowledge/knowAbout?knowType=%EB%8F%99%EC%95%84%EC%8B%9C%EC%95%84%EB%8F%84%EC%84%9C%EA%B4%80_%EC%86%8C%EA%B0%9C

その高麗大学作成目録に未収録のリストは、下記の通りである。




2022年5月13日金曜日

  顕宗5年7月戊申の密貿易事件 (현종실록 9권, 현종 5년 7월 19일 무신)

 東萊府使安縝密啓: "船乘昏來泊加德鎭, 商賈林之竹等, 以白金六千九百餘兩, 換貿石硫黃一萬一千三百斤, 黑角長鳥銃長劍等物。 

倭人所別贈之竹者, 長劍短劍長槍及石硫黃, 不敢私用, 竝進於朝, 請令廟堂稟處。 


又聞前島主平義成生時, 負萬金債於江戶, 義成所親愛權大夫者, 力勸島主義眞, 痛塞島中諸興利之路, 以償其債。 故館中開市之貨, 盡是島主販賣之物, 而至禁島中諸, 使不得出入私販, 又不得往來江戶, 以此島中人, 擧皆怨謗, 若此不已, 則必生大患云。 係是邊情, 竝此馳啓。" 蓋硫黃兵器, 上年問慰譯官入島時, 與倭人密約, 使之來泊加德, 以相換貿, 至是事得成。 備局請令密陽船運, 善山以馬, 至忠州復載船至京。


さらに、後日談 顕宗6年7月9日条には、


倭人密載硫黃一船, 來泊於龍草島, 尋皮奉事林主簿慶尙監司任義伯以聞。 所謂奉事、主簿, 卽商人林之竹皮起門, 自前與倭人潛貿硫黃者也。 備局令東萊及統制使, 分付兩人, 密使交易, 而且請自今一切禁斷潛商, 申飭于東萊府使。 從之。

とある。

顕宗6年7月19日条に、

東萊府使安縝密啓: "商秉昏來泊加德鎭, 我國賈人林之竹等, 以白金六千九百餘兩, 換貿石硫黃一萬一千三百斤, 黑角、(鳥統) 、長劍等物, 而其他所別贈亦多。 之竹竝進於朝, 請令廟堂稟處。" 蓋硫黃不産於我國, 諸軍門皆廣貿於境外。 南貿日本, 西貿遼東, 而皆是禁物, 故必密誘潛商, 時時生事。 上年問慰譯官入馬島時, 與倭人密約, 期於加德, 以相換貿。 至是, 備局請令密陽船運至善山, 自善山馬輸至忠州, 遞運至京。

ともある。


竹島城に「三層閣」、釜山城に「三層閣」あり。(宣祖28年11月庚午条)

 訓鍊主簿金景祥書啓:

十三日, 與黃愼, 進于梁山龍塘, 探審賊勢, 則同陣曾已燒撤, 我國人作田種牟茂盛矣。 北邊有家四坐, 伏兵稱云, 行長小將三人, 各率七八倭人留在, 捧納還上矣。 陣外北邊, 又有倭家六坐, 我國人爲半入接矣。 渡小津, 進于漢饣島, 探審, 則我國人家百五十餘戶居接, 又有倭人作家, 伏兵稱云, 七八人留在矣。


 蚊頭島探審, 則我國人二百餘家居接, 又有伏兵倭人作家, 六七人留在矣。


 金海饣飛乙山探審, 則我國人民三十餘戶入接, 又有倭賊三十餘名, 作畓四十餘斗落種, 時方秋收矣。


 十四日,

 到德島探審, 則我國人家百餘戶入接, 又有伏兵六七人留在矣。


 到竹島探審, 則陣中形止, 與釜山一樣, 賊數則大槪七八千云。 外則土城, 內則石城, 皆堅實, 而留陣江于道老者, 石城內, 作三層閣, 留在矣, 船數則百餘隻。 


金海府探審, 則城中等, 合于竹島, 只有收租二三百, 將帥則劉汝文, 出入竹島云。 同陣官客舍, 築石城, 將帥入接, 外則我國人及賊相雜入接, 我國人家, 至於六百餘戶矣。 


德橋探審則營盡燒, 合于竹島, 餘半渡海云矣。


 到安骨浦探審, 則舊盡爲渡海, 今則林浪浦 陣來接, 柵房重脩。 將帥則毛利一歧守, 自林浪, 入歸日本, 其子毛利豐前守代其衆, 率四小將, 各領四五百云。


 到加德, 則同陣盡爲渡海, 今則永登浦 義弘來陣, 留數二千餘名云。 我國人家百餘戶居接, 船數則六十餘隻矣。 


巨濟探審, 則永登場門所津三陣, 盡燒空虛矣。 熊川 熊浦森浦兩陣, 亦爲燒撤, 熊浦居民二百餘戶居接, 而安骨 賊, 每來侵掠, 故移接于金海釜山等處云矣。 


金海城中, 見我國被擄人金千同, 則自對馬島出來, 纔數日, 方在義智陣中。 且曰: ‘賊雖渡海, 不入于日本, 而對馬島近處三日程, 留住待變’ 云。 又曰: ‘對馬島作家, 待天使留置, 而關白許入後, 天使陪入’ 云云。 釜山探審, 則留賊盡爲渡海, 行長移陣于此, 率下將六人, 各領數千, 或率砲、劍手千餘, 船數則六百八十餘隻矣。 又有天使迎接 正成者, 東邊入接, 稱病不出, 天使到釜山, 幾至十日, 而不爲見謁云。 所築新城, 周回六七里, 又設市場, 賊男女及我國人民, 日日物貨交易矣。 自東平凡川, 我國人居接者, 多至三百餘戶, 佐子川近處, 鮑作居接者, 又百餘戶。 主山上築石城, 作三層闕, 賊禁人, 使不得入見。 問於我國人則曰: ‘軍器等物入置, 故不使人入見。’ 東萊探審, 則舊盡數渡海, 今則平義智, 自森浦來陣, 軍數則五百餘名。 與平調信合陣, 而調信則將天使入來之奇, 十五日入歸云。 城內外, 我國人居接者三百餘戶矣。 林浪西生豆毛三陣, 則淸正所屬也。 使不得出入, 故未能探審。 傳聞, 則西生之軍, 已爲撤合於豆毛, 而五六百名留在云; 林浪之軍, 撤合於安骨, 而四百名留在云。 大槪上天使到釜山, 則賊與天使, 一時渡海云然, 其言不可取信。"

文禄の役における朝鮮人商人と日本軍

 面高連長坊「高麗入日記」(『旧記雑録後編』巻33)

巨済島の島津軍に対して、「唐人」(朝鮮人)が魚の行商をしているとある。

`김해 죽도성  金海竹島城 宣祖28年2月12日条(李時発の啓)

 陳遊擊接伴使李時發書啓:

正月十二日, 早隨遊擊, 自楡川起身, 過密陽, 泊金海竹島營小將, 來見於船上請飯, 仍宿其所。 其營基址, 廣比平壤一般, 三面臨江, 周以木城, 重以土城, 內築石城, 高臺傑閣, 粉壁絢爛, 大小土宇, 彌滿櫛比, 似無一片空地, 量有萬餘兵容接矣。 大小船隻, 列泊城下, 不記其數。 有投付我民, 結幕城外, 處處屯結, 捉魚爲生矣。 有林通事稱名人, 以行長差遣, 伺候于遊擊, 乃浙江 溫州人, 年十三, 被擄于日本, 有妻子住活云。