2024年4月25日木曜日

蝦夷訳語

 元慶5年(881)5月3日条には、

「陸奥蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野」

の記事が見える。この日、物部斯波連永野は外従五位下を授けられた。そもそも物部斯波連は尚和7年(840)3月12日条に、

*物部斯波連宇賀奴

の名が認められる。しかも彼は「夷」とあるので、もともと蝦夷系住民であった。この宇賀奴との永野との間に血縁関係があったとする証拠はない。だが物部斯波連が蝦夷語に親しい一族であったとするば、2人の濃密な血縁関係を否定するには膨大なエネルギーを要するだろう。

2024年4月24日水曜日

江戸藩邸リスト

 『沙羅書房古書目録』第104号、304頁に、

「鶴岡より江戸道中絵画」(仮題)安永7年写し

が出品されている。原本は未見であるが、鶴岡から江戸中屋敷までの道中を記述するらしい。

グーグルの計算では、その道中は475キロ。

当時の鶴岡藩江戸藩邸は、

下屋敷(台東区浅草橋1丁目)→中屋敷(千代田区神田和泉町)→上屋敷(千代田区大手町1丁目)

であった。

なお、江戸藩邸の場所を知るに、

大名屋敷 – Google Earthで街並散歩(江戸編) (sannpo.iobb.net)

は便利なツールである。

参考資料

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)



2024年4月8日月曜日

新羅郡人沙羅真熊は同一人物か?

 『続日本紀』宝亀11(780) 年5月甲戌条に 武蔵国新羅郡人沙羅真熊等二人の名前を見る。

五月,甲子朔辛未,以京庫及諸國甲六百領,且送鎮狄將軍之所。
 甲戌,左京人-從六位下-莫位-百足等一十四人,右京人-大初位下-莫姓-真士麻呂等一十六人,並賜姓-清津造。左京人從-六位上-斯臈-行麻呂,賜姓-清海造。右京人-從七位下-燕-乙麻呂等一十六人,並賜姓御山造。正八位上-韓-男成等二人,賜姓-廣海造。武藏國新羅郡人-沙良-真熊等二人,賜姓-廣岡造。攝津國豐嶋郡人-韓人-稻村等一十八人,賜姓-豐津造。」

 

『文徳天皇実録』嘉祥3(850)年 11 月己 卯条には、

「 従四位下、治部大輔興世朝臣書主卒 (中 略)、能く和琴を弾き、仍大歌所別当為、常会供奉、新羅人沙良真熊、善新羅琴弾」

とあるが、この二人は同一人物だろうか。


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<参考情報>

没年嘉祥3.11.6(850.12.12)
生年宝亀9(778)
平安前期の官人。吉田古麻呂の子。百済系渡来氏族で,祖父,父共に侍医であったが,書主は早くから嵯峨天皇に寵愛されて左衛門大尉,左近衛将監などを歴任した。儒学に精通する一方,泳ぎや武芸にも秀でていたことから,武官に抜擢されたのであろう。和琴の名手としても知られ,新羅人沙良真熊から新羅琴を秘伝されている。和泉守,備前守としても名声を得た。承和4(837)年興世朝臣の姓を賜る。嘉祥3(850)年治部大輔となったが,山林に隠棲し仏道に専念,多感な生涯を送った。

(瀧浪貞子)