元慶5年(881)5月3日条には、
「陸奥蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野」
の記事が見える。この日、物部斯波連永野は外従五位下を授けられた。そもそも物部斯波連は尚和7年(840)3月12日条に、
*物部斯波連宇賀奴
の名が認められる。しかも彼は「俘夷」とあるので、もともと蝦夷系住民であった。この宇賀奴との永野との間に血縁関係があったとする証拠はない。だが物部斯波連が蝦夷語に親しい一族であったとするば、2人の濃密な血縁関係を否定するには膨大なエネルギーを要するだろう。
元慶5年(881)5月3日条には、
「陸奥蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野」
の記事が見える。この日、物部斯波連永野は外従五位下を授けられた。そもそも物部斯波連は尚和7年(840)3月12日条に、
*物部斯波連宇賀奴
の名が認められる。しかも彼は「俘夷」とあるので、もともと蝦夷系住民であった。この宇賀奴との永野との間に血縁関係があったとする証拠はない。だが物部斯波連が蝦夷語に親しい一族であったとするば、2人の濃密な血縁関係を否定するには膨大なエネルギーを要するだろう。
『沙羅書房古書目録』第104号、304頁に、
「鶴岡より江戸道中絵画」(仮題)安永7年写し
が出品されている。原本は未見であるが、鶴岡から江戸中屋敷までの道中を記述するらしい。
グーグルの計算では、その道中は475キロ。
当時の鶴岡藩江戸藩邸は、
下屋敷(台東区浅草橋1丁目)→中屋敷(千代田区神田和泉町)→上屋敷(千代田区大手町1丁目)
であった。
なお、江戸藩邸の場所を知るに、
大名屋敷 – Google Earthで街並散歩(江戸編) (sannpo.iobb.net)
は便利なツールである。
参考資料
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」
「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)」
『続日本紀』宝亀11(780) 年5月甲戌条に 武蔵国新羅郡人沙羅真熊等二人の名前を見る。
「 従四位下、治部大輔興世朝臣書主卒 (中 略)、能く和琴を弾き、仍大歌所別当為、常会供奉、新羅人沙良真熊、善新羅琴弾」
没年:嘉祥3.11.6(850.12.12)
生年:宝亀9(778)
平安前期の官人。吉田古麻呂の子。百済系渡来氏族で,祖父,父共に侍医であったが,書主は早くから嵯峨天皇に寵愛されて左衛門大尉,左近衛将監などを歴任した。儒学に精通する一方,泳ぎや武芸にも秀でていたことから,武官に抜擢されたのであろう。和琴の名手としても知られ,新羅人沙良真熊から新羅琴を秘伝されている。和泉守,備前守としても名声を得た。承和4(837)年興世朝臣の姓を賜る。嘉祥3(850)年治部大輔となったが,山林に隠棲し仏道に専念,多感な生涯を送った。
(瀧浪貞子)