我々の世代、つまり1970年代に活躍した布施明。「霧の摩周湖」や「シクラメンのかほり」などは我が愛唱歌であった。布施明の本名を知ることはないが、「布施」氏に関しては、一つの持説を紹介したい。
結論から言えば、それは古代日本に設置された「布施屋」の「屋」が脱落した語形と考えたい。古代交通の要衝に設置された民衆のための施設であった。
それは分かっているという博雅の士もおいでであろう。大阪府東大阪市布施駅、つまり近鉄大阪線と奈良線の交差する駅を思い出すだけで、すべてがイメージできるというに違いない。確かにその通りである。
以下は、吹田市立博物館のHPに記載された記事である。
古代の吹田と寺社|吹田市公式ウェブサイト (city.suita.osaka.jp)
古代の吹田と行基
行基は、人々のために池・溝を掘り田畑の開墾をたすけ、川に橋をかけ、各地に旅人たちが休息するための布施屋をつくり、運河を掘り、難波京を中心とした交通体系の整備を行いました。吹田周辺では、次田(吹田)堀川・垂水布施屋などの運河や旅人たちの休息所が造られました。この辺りが京や西国に通じる交通の要衝(ようしょう)であったことがわかります。また市内には行基の開創を伝える寺院がいくつか残り、現在にまでその活動の大きさを物語っています。
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さて、本論はこれからである。
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