2025年10月7日火曜日

両国国技館の土俵「荒木田土」から、その語源を推定する。

 両国国技館の土俵の土は、川越産の『本荒木田土』

もともと東京都荒川区荒木田原(現:東京都荒 川区町屋)で採取された土壌を利用していたからである。今は廃校になったけれども、荒川区立眞土小学校(「日暮里町大字谷中元字真土」、現在の「真土小思い出広場」三河島駅前)にそのゆかりだろう

Yahooニュースによると、この土は年に6回開催される大相撲本場所(東京・大阪・名古屋・福岡)の土俵に使われ、土の運搬の量は、多い所では総重量35トン、袋に詰めること何と43袋にもなるそうだ。「大相撲本場所の土俵に使われる『本荒木田土』は、実は川越にある初野建材工業という会社が土の採取から管理、運搬まで手掛けているんです!」(【川越市】大相撲の土俵は、実は川越産の土! テレビでも紹介された川越産の『本荒木田土』とは?(川越散策) - エキスパート - Yahoo!ニュース


閑話休題

さて、この「荒木田」は確かに木や雑草が繫茂した田と解されがちである。しかし「荒+木+田」の3語が同時に連立するのは意味システムからして奇妙である。

そこでの愚案は

「Ara+ Ki+ Ta」と分解できることから連想して、「安羅*来*田」と分析したい。

この安羅とは、562年に新羅に滅ぼされた加耶諸国の一つである。現在の韓国・慶尚南道咸安郡付近。

つまり朝鮮半島系渡来人の定着地の一つとしてこの荒川区を想定したい。


2025年9月28日日曜日

古代秋田城にあった3室の個室式水洗便所

 松井章氏( 奈良国立文化財研究所 埋蔵文化財センター)の「秋田城跡のトイレ遺構 1」を拝読。

松井氏の論文によると、古代秋田城の

「3. 遺構の機能的考察

 曲物埋設部の底から木樋への傾斜角度は9度である。これは、排池物が建物上から落下して自然 に木樋を通じて流出するには傾斜が緩すぎると言えるだろう。この遺構が水洗式便所として機能す るためには、遺構として残らない地上の水遺り施設を必要としたはずである。それは建物の立地す る西方の丘陵部の井戸から、木樋を使って水を導き、水洗槽に水をj留める施設であったろう 。この 施設を使用した人は、用便後、桝、ひしゃく などでj留められた水を汲んで曲物内に流して、たまっ た排池物を洗い流す構造であったと考えられる。」)(中略)

「特に総柱で床を張り、さらに扉まで存在した 個室式便所であったことは、この壮大な便所建物を古代としては例を見ないものとする。」


であったという。


ちなみに伊藤武士氏の「秋田城跡の発掘調査成果 」によると

第63次調査では,鵜 ノ木地区から上屋と優れた施設を伴う8世 紀後半の水洗便所遺構が検出され ている。便所遺構の寄生虫卵の分析から,ブ タを常食とする大陸からの外来者が使用した可能性が 指摘され,奈 良時代に出羽に来航した渤海使や,外 交拠点として秋田城が果たした役割 との関連性 が注目されている。」

(中略)

「沈殿槽の堆積土からは,排 泄後の処理に使用した籌木 (ちゅうぎ)と 呼ばれるクソベラが150本 以上出土した 他,糞 に集まる昆虫の遺体,ハ エ蛹,未 消化の食物残滓 や種子類,花 粉,さ らには各種の寄生虫卵が確認されて いる(図3・4)。 それらの寄生虫卵の分析や種子の同定 結果の他に,遺 構内土壌試料に残在する脂肪酸の分析で も,沈 殿槽堆積土が糞便堆積を多 く含有することが判明 しており,自 然科学的分析によっても一連の遺構が便所 遺構であることが裏付けられている(金 原ほか1995,金 原1996,金 原 ・金原1996)」

だという。

確かに、内山幸子氏(東海大学)の研究によると、渤海(698-926)地域のクラノスキ城址など遺跡群から出土した家畜は、イヌ・ブタ・ウマ・ウシ・ヒツジ・ラクダ属の6種だという。22720292 研究成果報告書


 


開催内容

前期企画展のタイトル

史跡秋田城







2025年9月19日金曜日

平藤喜久子氏の國學院大學国際ワークショップ総括を拝読して

 平藤喜久子先生(國學院大學)は未見の研究者である。

平藤先生の国学院国際ワークショップ総括報告を拝読して、今さらながら国学院に対する認識を一新した。このブログを執筆する理由はここにある。

我が愚を改めるに、平藤先生の紹介文に敬意を表する次第である。

 何と古い世代かと呆れられるかもしれないが、私が知る国学院は、國學院大學の母体である「皇典講究所」のままであったようだ。しかも神職養成部(神職教習科・神職講習科・祭式講習科)を併設して、全国の神社宮司後継者の養成所だと。

 今の人には、誰一人として記憶にないだろうが、順不同に列挙すれば、

①三矢重松

②武田祐吉

③折口信夫

④石川岩吉

⑤河野省三

⑥西田長男

⑦大場磐男

⑧宮地直一

⑨石上堅

岩橋 小弥太

⑪臼田甚五郎

⑫野村純一

⑬福田晃

⑭松前健

⑮鎌田純一

⑯小林達雄

⑰鈴木靖民

などなど多士済々である。

しかしながら、唯一、民俗学者である

*伊藤幹治

先生には、研究テーマはなるほど国学院らしいが、その研究パースペクティブは当時にあって斬新であった、英国構造人類学の主導者であったエドムンド・リーチの影響下で、構造分析と共同体の再結合などのキーワードで学界をリードした。彼の名著『稲作儀礼の研究』に誰もが魅了された。国学院スタイルを脱皮し、世界レベルの研究へと結実していた。

つまり伊藤幹治先生以外の研究は国学院のための、国学院による、国学院独自の言語モードで記述されていると誤解していた。

だからこそ、平藤先生の報告を一読して、驚く。そのグローバル thinkingに。

確かに國學院大學がその名の通り「国の学」(国学)に拘っていたならば、学問のダイナミックな発展は期待できない。越境する学問、つまりボーダレスな学問の地平の上で、世界に通用し、世界レベルに到達する「日本学」(国学ではない)でありたいと宣言している。

その宣言文として、この平藤先生の文章を拝見した。泉下で伊藤幹治先生もお喜びであるに違いない、平藤先生などのような鋭い切り口で果敢に日本研究に邁進する研究者が国学院に多数輩出しているから。




「万葉集」巻一〇、二二〇五番の上十一文字と重なる木簡

 



詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK031028000007
木簡番号0
本文・阿支波支乃之多波毛美□〔智ヵ〕\○□・○□□□□\□□□〔越中守ヵ〕○馬馬馬馬□□□□
寸法(mm)(234)
(24)
厚さ6~12
型式番号019
出典木研31-28頁-(7)
文字説明「万葉集」巻一〇、二二〇五番の上十一文字と重なる。
形状下欠、左欠(割れ)、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名馬場南遺跡
 
所在地京都府木津川市大字木津小字糠田
調査主体(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター
 
発掘次数本格調査第2次
遺構番号川SR1
地区名
内容分類習書
国郡郷里越中国
人名 
和暦 
西暦 
遺構の年代観 
木簡説明面の上半分は何度も削られてらしく、厚さ6㎜と半減していた。
DOI

■研究文献情報

 研究文献日本古代史関係研究文献目録データベース
(法政大学国際日本学研究所)
CiNii
(国立情報学研究所)
備考
1安積山の歌を含む万葉歌木簡三点と難波津の歌,森岡隆,『木簡研究』31,200918844640016935922
2山背国相楽郡神雄寺の発見―木津川市馬場南遺跡の検討―,伊野近富,『木簡研究』31,200918844740016935923
3木簡に歌を書くこと,犬飼隆,『木簡研究』31,200918844840016935924
4歌表記と仮名使用―木簡の仮名書歌と万葉集仮名書歌―,乾善彦,『木簡研究』31,200918844940016935925


2025年9月11日木曜日

明治時代の牛乳店「阪川牛乳店」

 世の中には、実に便利なデータベースが存在する。

名古屋大学が作った『人事興信録』データベースが、それである。

阪川霽 (第4版) - 『人事興信録』データベース


下記の記事によると、明治時代初めに日本で最初の牛乳屋であった阪川當晴経営の阪川牛乳店の一端を知る。


阪川霽 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級
爵位・身分・家柄東京府平民
職業阪川牛乳店
性別男性
生年月日明治六年九月二十七日 (1873)
親名・続柄 阪川當晴の二男
家族妻 ミツ 明一四、四生、香川、平、神内由已長女
記述部分(略伝)君は東京府士族阪川當晴の二男にして明治六年九月二十七日を以て生れ同三十年二月分家して一家を創立す牛乳搾取業を營み方今都下屈指の牛乳店として知らる直接國税七百二十餘圓を給む
家族は前記の外二女群子(明四〇、三生)三女楊子(同四二、一生)あり
住所・電話番号東京、麴町、麴町三ノ七 電話番町六九九
参照人物(親類)
参照次数
読みさかがわ はるみ




2025年8月20日水曜日

「返り点「レ」の使用開始時期に関する資料提供ーー和銅6年(713年)以前のいずれかの時点は、日本最古の資料か?

 『石川県史』に学んだが、

>「越前の庸木簡は二点あるが、ともに米である。一点は能登郡翼倚里からのもので、庸米六斗と明記している。

 ・「<越前国登能郡翼倚×
 ・「<庸米六斗 和銅六年×(木八〇)
 「登能」はその右横に「レ」が書いてあるが、これは能登と書くべきところを、書き間違えたため字を逆に読むように付けた記号である。したがってこれは能登郡のもので、翼倚は『和名抄』にみえる能登国能登郡与木郷にあたる。能登国は養老二年五月に羽咋・能登・鳳至・珠洲の四郡を越前から分割して立国したものである」

とある。この「レ」点に関心を持つ。俗に「返り点」と呼称される記号である。

この木簡から判明する情報は、
*能登国において、和銅6年(713年)以前のいずれかの時点で、この木簡に墨書した人物は漢文を返り点をつけて、学習していたこと
である。
管見によれば、レ点に関する日本最古の資料ではないだろうか。



****************


URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ACCDP22000106
木簡番号12752
本文・越前国登能郡翼倚→(能の右横に転倒符)・庸米六斗○和銅六年
寸法(mm)(103)
23
厚さ3
型式番号039
出典平城宮7-12752(木研26-240頁-(17)・城10-9上(59))
文字説明 
形状上削り、下欠(折れ)、左削り、右削り。
樹種スギ♯
木取り柾目
遺跡名平城宮第一次大極殿院西辺佐紀池南岸
Heijō Palace (Former Imperial Audience Hall, West Side, Southern Shore of Saki Pond)
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数92
遺構番号SD3825A
地区名6ACCDP22
内容分類荷札
国郡郷里能登国能登郡与木郷越前国能登郡与木郷
人名 
和暦和銅6年
西暦713(年)
遺構の年代観710-790
木簡説明上端・左右両辺削り、下端折れ。「越前国能登郡翼倚」は、『和名抄』の能登国能登郡与木郷にあたる。「レ」は転倒符(倒置符)で、その早い用例の一つである。転倒符の用例は、長屋王邸(平城京跡左京三条二坊一・二・七・八坪)のSE四七七〇井戸から出土した養老元年(七一七)十二月二十二日の年紀をもつ木簡(『平城京木簡一』六一)や、年不詳六月二十七日の日付をもつ木簡(『平城京木簡一』六二)に認められるほか、中国簡牘や、韓国咸安城山山城出土の六世紀の木簡にも認められる。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6ACCDP22000106

2025年8月13日水曜日

守随憲治先生と秤座

 守随憲治先生(1899年~1983年)と言っても、多くの方はご存じないだろう。歌舞伎研究者として著名であった。守随先生の謦咳に接した方々に言い伝えられている都市伝説は、大変に面白い。しかし、それは別な機会に。

 この守随家は江戸幕府によって設置された秤座の、東(江戸33か国)は守随(守随彦太郎)、西(京都33か国)は神(じん、神善四郎)家の双璧をなしていた。

だから、守随先生はというエピソードが残っている。

 なお詳細は、明暦4年(1658年)創業の守隨本店のHPを一覧してほしい。

守隨本店の歴史 | 守隨本店の歴史 | 守隨本店