2024年11月20日水曜日

高橋富雄著『蝦夷』(未定稿)

以下は、私淑する高橋富雄先生に捧げる。 

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なるほど高橋富雄著『蝦夷』(吉川弘文館、昭和38年)は古色蒼然とした文体である。またその通説的理解にしても、今日の観点からすれば、特に金田一京助論を踏まえた蝦夷基礎論は大幅に修正を余儀なくされだろう。加えて彼の研究フレームワークにしても、当時にあっては最新の研究の最前線に立っていたとしても、今日から見ると多くの誤謬を指摘され修正を要求される個所も多い。

だからと言って、高橋の著作の価値を減ずるものではない。むしろその逆に光芒を放つ。

考古学と文献史学の協業などは彼の時代にあって、果しえぬ夢であったので、高望みは戒めたいる「宮城県多賀城跡調査研究所」にしても宮城県教育委員会が設立したのは昭和44年であり、本書刊行後である。その後に陸続する東北全域における考古学発掘成果も参照することなく、本書は書き続けられた。だからこそ特筆すべきは、今日的観点からないものねだりをするのではなく、その逆に比較にならないほど少量の蝦夷に関する情報量と先行論文に依拠して、作り上げた高橋の悪戦苦闘である。そのトレースから知るのは、並々ならぬ努力へである。

むしろ最新の蝦夷研究が示すように、高橋のような全体を見通す図式を構想できていないのが事実である。名を出すまでもなく、たとえ「重箱の隅をつく」ほどに超細緻であったとしても、それらの記述は歓迎するとしても、何か物足りない感を持つのは私だけだろうか。いな、むしろ高橋論の傘の下もしくは掌の上で、各論を展開しているようにも思える、

 今日の文献史学研究者と高橋との決定的な差は、高橋の卓越した漢文力と外国語力であろう。しかも彼の「知の世界」への探求心と「日本とは何か」という主題設定にしても同様である。森羅万象とは言わないにしても、高橋の知的好奇心の範囲は広く、彼の学問を支えるすさまじい読書量に驚嘆する。彼の周到な準備を踏まえて、彼の「知の世界」は拡大し続けたに違いない。

高橋の研究室には、少なくとも諸橋の『大漢和辞典』などが常備されていただろうし、各種の文献資料を解読するときに、各巻を何度も紐解いていただろう。今日であれば、例えば『続日本紀』にしても、岩波版新日本古典日本文学大系『続日本紀』に依拠したテキスト分析から始まり、そして東京大学史料編纂所データベース検索や奈良文化財研究所『木簡庫』などのコンピュータ操作による関連資料の積み重ねで、各論文は埋め尽くされるだけである。高橋との決定的な差は思索の有無である。

我々が高橋の諸研究書から知るのは、中央政府の圧倒的な武力によって駆逐される蝦夷の人々に対する「温かいまなざし」である。今風に言えば、弱者に寄り添い、被征服者の側に立って発言する勇気である。しかも彼にとって、いまなぜ蝦夷研究をすべきかの根本的な問いも見逃せない。一言で言えば、無慈悲な戦争への反対する強い意志であると信じる。彼の戦争体験に関する情報を完全に欠如したままであるが、高橋の著書の行間に、律令政府による一方的な軍事侵攻によって逃げ惑い、時として反抗する東北の蝦夷の人々の苦悩や戸惑い、無力感・絶望感などを読み取るのは、私の思い過ごしだろうか。

この稿、続く。

未定稿





2024年11月11日月曜日

長崎・最教寺本の朝鮮製涅槃図像

 釈迦入滅の場面を描き表した涅槃図。箱書きなどから朝鮮半島から将来された涅槃図であると実証されているので、15-16世紀朝鮮半島にあって、最新の仏教情報を盛り込んでいると思われる。

以下、未完




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絹本著色仏涅槃図一幅|HIRADOじかん情報|長崎県 平戸市(ひらどし)ホームページ

よりの転載。


絹本著色仏涅槃図一幅

国指定重要文化財「絹本著色仏涅槃図一幅(けんぽんちゃくしょくほとけねはんずいっぷく)」 Vol.8-2

文禄・慶長の役に遠征した松浦家26代鎮信(法印)が朝鮮から請来し、のちに最教寺に寄進したことが、箱書などで判明しています。涅槃図は釈迦入滅の様子を描いた図で、中央部で頭を北にして西を向き、右脇を下にし床台で金泥身の釈迦が、沙羅双樹の下でまさに涅槃に入る様子、その周りで悲嘆にくれる弟子や動物たち、天空には釈迦を迎えに来た仏や摩耶夫人(釈迦の母)などが細かく描かれています。縦2.5m、横2.4mの大画面で李朝仏画の特徴である平明な色調と軽妙な描線で親しみやすい画面となっています。16世紀中ごろの作品とされています。

鐶頭太刀無銘拵付一口附太刀図一通

文化財詳細情報
名称絹本著色仏涅槃図一幅(けんぽんちゃくしょくほとけねはんずいっぷく)
種別国指定重要文化財
指定年月日大正5年5月24日
所有者最教寺
所在地平戸市

お問い合わせ先

文化観光商工部 文化交流課 文化遺産班

電話:0950-22-9143

FAX:0950-23-3399

(受付時間:午前8時30分~午後5時15分まで)

2024年11月7日木曜日

石決明と古代日本

 アワビにはは「鰒。鮑。蚫。鰒魚」などの漢字を用いる。

『賦役令』調絹絁条や『延喜式』主計寮上、諸国調条などでは、21か所から30種以上のアワビが貢納されており、平城京で大変に人気の高い品であったようだ。

今、大宰府から平城京の内膳司に貢納された鰒には、

①御取鰒459斤5裏

②短鰒518斤12裏

③薄鰒859斤15裏

④陰鰒86斤3裏

⑤羽割鰒39斤1裏

⑥火焼鰒335斤4裏 (已上調物)

⑦鮨鰒108斤3缶

⑧腸漬鰒296斤9缶

⑨甘腐鰒98斤2缶(已上中男作物)


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以下は、ウチダ和漢薬のHPからの転載

セッケツメイ(石決明) - 生薬の玉手箱 | 株式会社ウチダ和漢薬


基源:アワビの仲間 Haliotis spp. (ミミガイ科 Haliotidae)の貝殻


 「石決明」は『名医別録』に収載された生薬で、ミミガイ科のアワビの仲間の貝殻を基源としています。『中華人民共和国薬典(2005年版)』では、原動物として雑色鮑(和名:フクトコブシ) Haliotis diversicolor Reeve、皺紋盤鮑(エゾアワビ) H. discus hannai Ino、羊鮑(マアナゴ) H. ovina Gmelin、澳州鮑 H. ruber (Leach)、耳鮑(ミミガイ) H. asinina Linnaeus、白鮑 H. laevigata (Donovan) を規定しています。またアワビの仲間といえば重要な食材であり、日本では、メガイアワビ H. gigantea Gmelin、マダカアワビ H. madaka (Habe)、クロアワビ H. discus discus Reeve、エゾアワビ、トコブシ H. diversicolor aquatilis Reeve、フクトコブシが近海に生息し、一般に、前の4種が「アワビ」、後の2種が「トコブシ」と総称し、食用とされています。

 アワビの仲間は巻貝に分類されますが、その形態は一般的な巻貝とは異なっており、耳形や長卵円形の浅い皿のような形で、ふたはなく、内面に強い真珠光沢があるのが特徴です。また、殻には数個の孔が列状に並んでおり、この孔の下には、えら、肛門、生殖器などの器官が存在していて、孔から、呼吸に使った水や排泄物を体の外に出したり、繁殖期に精子や卵子を海中に放出したりしています。殻の成長にしたがって古くなった孔はふさがっていく傾向にあります。アワビ類とトコブシ類とでは、この孔の数と形態が異なっており、アワビ類では、数は通常4〜5個で、直径が大きく、孔の周囲が盛り上がり管状になり、トコブシ類では、数は通常6〜8個で、直径は小さく、孔の周囲は盛り上がらない形になります。

 歴代の本草書の中では、「石決明」の品質に関して、この孔に注目した意見が述べられています。『新修本草』には「七孔のものが良い」と記され、『図経本草』には「七孔と九孔のものが良く、十孔のものはよくない」と記され、『日華子本草』には「石決明」の別名として「九孔螺」とあります。また、日本の『和漢薬の良否鑑別法及調製方』にも「九孔といって穴の九つあるものが上等で、それ以外のものは薬用に供しない」と記されています。孔の数を基準にするかぎりは、古来の「石決明」の基源はアワビ類ではなく、トコブシ類ではなかったかと思われます。

 「石決明」の主治については、『名医別録』に「味鹹、平。無毒。目障瞖痛、青盲を主る。久しく服すれば、精を益し、身を軽くする」とあり、『日華子本草』に「目を明らかにし、障瞖をおろす」、『海薬本草』に「青盲内障、肺肝風熱、骨蒸労極をつかさどる」、『本草綱目』に「五淋を通す」と記されているように、目の病に対する重要な薬であり、緑内障、白内障などによる視力障害、結膜炎などに応用し、その他、肺結核の消耗熱、淋疾にも用いられてきました。また、日本の民間療法では、貝殻を溶かした水をやけどにつける、結膜炎に殻の粉末をねってまぶたにつける、乳腺炎に、殻の黒焼きをつけるなどの方法が知られています

 一方、『本草衍義』に「肉、殻ともに使用できる」とあるように、身も殻と同じ効能があり、薬用になります。江戸時代の本草書である『大和本草』には「石決明(あわび)は、肉も殻も目を明らかにする」とあり、『本朝食鑑』には「鰒(あわび)は、甘、微鹹、平。無毒。目を明らかにし、障(つかえ)を磨(おろ)し、肝熱を清(さま)し、五淋を通し、渇を止め、酲(ふつかよい)を解する」とあります。「アワビは目に良い食材だ」という言葉は、現在でもよく耳にしますが、このように本草書にも明記されています。また、アワビは乾鰒(ほしあわび)、長鰒(のし)などに加工して用いる場合も多くあり、『本朝食鑑』には「乾鰒、長鰒は、甘、鹹、微温。無毒。一切の病に対し、禁忌はない。多食すると、力を強くし筋を壮にする」とあり、乾燥加工前後で、薬性が平から微温に変化し、功能にも変化がみられます。

 アワビは夏が旬で、今が最もおいしい季節です。目に良いだけでなく、滋養強壮にも優れているので、暑い時期で体力が低下している場合にも取り入れたい食材です。ただし、消化しにくいので多量には摂らず、また胃腸が弱い人はスープやおかゆとして食べるとよいでしょう。

 

(神農子 記)

2024年10月28日月曜日

田川孝三先生のこと

 思い出す恩師

そのお一人に、田川孝三先生がいる。定年時の職種は、東京大学文学部専任講師。わずか3年の在職であった。それ以前は、東洋文庫研究員。中野のご自宅は質素な平屋建てであった。今でも。その道筋を思い出す。しかしその窓際の濡れ縁、今風に言えばサンルームであろうが、先生はそこに小さな机を置いて、勉強をなさっていた。愛蔵のご本はご自宅の奥の部屋から持参なさり、私は閲覧の供に預かった。
①京城帝国大学予科時代の友人
②京城帝国大学法文学部朝鮮史講座在学時期ー・小田省吾・黒田幹一・ 近藤時司・名越那珂次郎・田中梅吉・児玉才三・津田栄・横山将三郎などの教授陣のエピソードおよび講義風景。そして後輩である森田芳夫先生等。
③京城帝国大学法文学部田保橋潔教授の助手時代
④朝鮮史編集会修史官補時代ー申奭鎬先生。今西龍先生。中村栄孝先生、稲葉岩吉先生等
⑤書物同好会
⑥朝鮮半島および旧満州への資料調査
⑦京城市内および朝鮮半島の観光・風土・民俗
⑧緑旗連盟、静和女塾(田川先生の奥様の母校)など
⑨朝鮮本

本当に愉快であった。こうした談論ができる人はもはやいないだろう。

今からでも、その一つ一つを記録しておくつもりである。何よりも、後人による緑旗連盟の活動分析などは当時の植民地期朝鮮半島「帝国日本」を知らないが故の誤認も多いようである。


名著『李朝貢納制の研究』。吉田光男さんの『東洋学報』 70ー3・4、 p307-320, 1989年、東洋文庫参考のこと。

2024年10月26日土曜日

渤海語とは、ツングース語系言語の一種

 『唐書』巻219[6179-7]に よれば、「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」とある。

その靺鞨は高句麗に接した所にいた栗末部、その北にいた伯咄部、その東北に安車骨部、伯咄部の東に沸涅部、その東にいた号室部、安車骨部の西北に黒水部、そして粟末部の東南には白山部の7つのグループに分かれていたらしい。

高句麗が滅亡した後、白山部・安居骨部・沸涅部・号室部などがいずれかに吸収されたが、黒竜江流域に居住していた靺鞨の内で黒水部と粟末部のみが生き抜いた。

したがって、渤海語の根幹にツングース語系の粟末靺鞨語があったと推定され、語彙などに高句麗語を含まれていたと考えてよいだろう。というのも、そもそも渤海は粟末靺鞨と高句麗の残党によって建国されたからである。


なお、『旧唐書』巻199下に 、渤海靺鞨について「風俗興高麗及契丹同、頗有文字及書記」とあるものの、固有文字はなかった。

2024年10月13日日曜日

ウクライナ・ハリキウの大鵬記念館は今?

 ウクライナ北東部にあるハルキウ州の州都 、ハルキウ(1ウクライナ語Харків [ˈxɑrkiu̯] 英語Kharkiv)に、大鵬記念館があるという。大鵬幸喜を顕彰するために、親族が建設した。

ロシアによるウクライナ侵攻で、ハルキウも大きな被害が発生したという。大鵬記念館の無事を伝えるマスコミはない。無被害で、今後ともにウクライナー日本間の友好の懸け橋となってほしい。


河野六郎先生の仮説に瞠目

河野先生の仮説

以下の通りであるが、管見によると、瞠目すべき河野先生の仮説は

「高句麗」がツングース族でないことをつきとめた

②(濊人は)中国の河北から「貊族」の東方への大移動の波に押されて、中国東北地方から朝鮮半島を南下して行った、おそらく「倭人」が先に日本列島に入る以後に、朝鮮半島に残留した「倭人」と同系の民族であったと思われる。

の2点である。

 (a) 朝鮮の史書『三國史記』の「地理志」の古地名には、高句麗語の地名の中にむしろ日本語に近い人の言語の地名が伝えられていること。

(b) 『日本書紀』に伝えられる古代韓土の言語は主として韓族の言語であるが、百済の支配階級の貊族の言語も僅かに見出されること。
(c) 『三國志』以降の中国の正史から「高句麗」と「渤海」、「靺鞨」の関係を追究し、「高句麗」がツングース族でないことをつきとめた。

(d) 現在のツングース民族の分布状況を地図化して、言語地理学的に、「高句麗」はもと旧アジア人の1族であったが、ツングース族との接触でツングース化した可能性を推定した。。」


もはや河野六郎先生を知る方は多くない。その偉大な学殖は、

(1)千野栄一「嗚呼、河野六郎先生」

en (jst.go.jp)

に詳しく、何にもまして、

(2)『河野六郎著作集 』全3巻 平凡社 1979-1980、

を一瞥するだけで、その広大無辺の知識量に賛嘆する。東京帝国大学の卒業論文「玉篇 に現わ れたる反切の音韻的研究」を一読してほしい。不世出の言語学者の研究生活のスタート時点で、その凡庸さを超えている。

さて、その河野六郎先生が

『三国志に記された東アジアの言語 および民族に関する基礎的研究』 

研究課題番号 02451066 平成 203・ 4年度科学研究費補助金 一般研究 (B)研究成果報告書

河野六郎三国志と言語2019年02月20日22時27分27秒.pdf

を発表なさっている。

多くの方々は科研費報告書を目にすることはないのは、その専門性ゆえにである。しかも科研報告書は国立国会図書館にのみ完備されており、その入手に時間を要する。

それゆえに、あえてその一部を紹介したい。

<研究成果の概略>


第1年度(平成2年度)
(1)本研究の出発点である『三國志』の「魏志」「烏丸鮮卑東夷傳」の解明に「魏志」全体の文献学的研究を行なった。そのため「魏志」の文を大量に引用している宋代の類書『太平御覧』所引のテキストと通行本『三國志』のテキストの対比して、その異同を検討し、コンピュータを利用してその対照表を作成した。
(2) (1)で得られた対照表を利用して「魏志」に記載された諸民族に関する情報をコンピュータによって索引化した。
第2年度(平成3年度)
(1) 対照表によりテキストの対校を行なったが、その過程で『三國志』の原資料に記事の混乱が認められた。殊に「韓傳」の「辰韓・弁辰」の条は「魏人傳」とは時代を異にする状態の記述が混在していることが分かった。
(2) 各民族の詳細な索引を作っている中で、たとえば「單于」という首長の称号が、匈奴と同系の烏丸・鮮卑にも見られることが分かった。
当該年度・第3年度(平成4年度)には第1年度および第2年度の調査に基づき他の関係資料をも参考にし、次の4点の研究を行なった。
(a) 朝鮮の史書『三國史記』の「地理志」の古地名には、高句麗語の地名の中にむしろ日本語に近い人の言語の地名が伝えられていること。

(b) 『日本書紀』に伝えられる古代韓土の言語は主として韓族の言語であるが、百済の支配階級の貊族の言語も僅かに見出されること。
(c) 『三國志』以降の中国の正史から「高句麗」と「渤海」、「靺鞨」の関係を追究し、「高句麗」がツングース族でないことをつきとめた。
(d) 現在のツングース民族の分布状況を地図化して、言語地理学的に、「高句麗」はもと旧アジア人の1族であったが、ツングース族との接触でツングース化した可能性を推定した。


>>(2)研究目的

 戦後何度 か 日本人の起源 が問われ、その都度 日本語 の起源が問い直されてきたが、 日本語の起源 は今 のところ結局不明のままに終わ つて いる。 その起源の無益な論争よりも、 日本民族が古代の東ア ジア (中国東北部・朝鮮半島お よび 日本列島)に出  したとき、その周辺 にいかなる民族が居住し、 いかなる言語を話していたかを探究することの方が 、 日本語 の前史を明らかにする上で重要である。それを知る上で 最も貴重な史料 が 中国 の史書『 三 國志』であ る。 『 三 國志 』はその 中に東夷伝倭人の条 (い わ ゆる魏志倭人伝 )を 合 む こ とか らも 明 らか な ように、当時の倭 その他 の民族の諸状況 および 中国 との関係 を探 る上 で、 最も基本的な文献であ る。本研究 では、『三國志 』の成立と伝 承をめ る諸 問題 を 再検 討 し、な らび に本文批判 の基礎 の上 に、当時の東アジアの言語と民族 につ いてさまざまな角度から探 究することを目的とす る。 

(3)実施経過報 告 

第 1年度 (平 成 2年 度 )

① まず本研究 の 出発点 である『三 國志 』の「魏志 」 「烏丸鮮卑 東夷博 」 を解明す るため、 「魏志」全体 の文献学的研究 を行なった。 そ のた め、「魏志 」 の文 を大量 に引用 して いる宋 代 の類書 『太平御 覧』 (李昉奉勅撰 、 中華書局景 印本 )所 引 のテ キス トと通行本『 三 國志』 「魏志 」 (中華書局標点本 ) のテ キス トを対 比 して、その異同を検討 し、そ の対照表 を作成 した。 その結果 、哈仏燕京学社刊 の『 太平御 覧 引得 』 (1935年 1月 刊 )で 指摘 されている個条 よ り遥 か に多 く、989条 に及ぶ ことが明 らかにな った (そ の対 比の結果 は、『 (4)「 研究成 果 内容報 告」 I.『 三 國志』 のテ キス トと『 太平 御覧』引用文 の比較 』 に詳 しい)。 なお、理解 を深 め るた め に、『 太平御 覧』所 引 の「魏志 」のテ キス トに訓点 を施 し た。

 ② 「魏志」の中か ら、『太平御覧』 との対比において、特 に異同の多 い笛所 を 検索するため、パーソナル・ コンピューターを購入 して、その箇所の一部 を入力 し た。これは後 日、一覧表・索引を作成するためである。

 ③ ①で得 られたテキス トの対照表 を利用 して、本研究の対象である「魏志」に 記載 された諸民族のそれぞれ を採 り上げ、それ らの民族 に関する情報 を『三國志』の記 事 か ら能 うか ぎ り読 み取 るた め 、 それ らの民 族 の索 引 を コ ン ピュ ー ター を使 っ て作 成 した 。 そ の際 、各 民 族 につ いて、 そ の民 族 の名称 ・ 地 名 。人 名 等 の項 目を選 定 した 。


 第 2年 度 (平 成 3年 度 )

① 平成 2年 度 に完 了 した『 三 國志』 「魏志 」 と『 太 平御 覧』所 引 のテ キス トとの対照表 を検 討 して 、校勘 を伴 うテキス トをコ ンピュー ター に入力す る作業 を続 行 した。その際、本研究 の主題 に鑑 み、 まず 「魏志 」 の「 鳥丸鮮卑東夷停 」 よ り始 め次第 に関連 す る他の記 事 に及ん だ。な お、 このテ キス ト の対校 の過程 で 、『 三國志 』の原資料 に記事 の混 乱が認 め られた。殊 に 「韓傳」 の 「辰 韓・ 弁辰 」 の条 は 「倭人傳」 とは時代 を異 にす る状態 の記述が混在して いる こ とが分 か つた 。

 ② 一方、「魏志」「烏丸鮮卑東夷偉」に記 されている諸民族 につ いて、民族・ 部族 ・社会組織・地 名 。人名等について、詳細な索引を作 り、それをコンピュータ ーに入力 した。その索引を作成する過程で、た とえば、「單干」 という首長の称号 が、匈奴 と同 じく烏丸・鮮卑には見 られるが、他の民族 には見 られないことな どが 分かつた。 これらの研究 を行つている中に、貊族との正体を追究する必要 を痛感 し、次の 研究 に従事 した。


 (a)朝 鮮 の史書 『三 國史記 』 の 「地理志 」に記 され て い る古地名 が、貊族の高句 麗 の言語 に よる という説 が あ り、そ の説 につ いて考察 して 、然 らざる所以 を考 えた 。 その古地名 に は 日本語 に類 似 したも のが若千 見 出 され るが 、 それ は高句麗語 ではな く、語である可能性 を考 ぇた 。

 (b)『 日本書 紀 』の中の、韓 土 と交渉 のあ つた時代 の記 事 に韓 土 の言語 を伝 え て いるものが あ り、 それ につ いて調査 した結果 、多 くは韓族 の言語 を反映 し、その点 で は現代 の朝鮮語 の音形 を知 る こ とができ るが 、濊族の言語 につ いて は僅 かな単語 を残 して いるに過 ぎな いこ とが分 か つた。


 第 3年 度 (平 成 4年 度)

① 各民族の情報 を確実なものにするため、『三國志』 以降の中国の正史 の外夷伝から、高麗 (高句麗と高麗)、 株輻、渤海、契丹、女真 等の諸民族 について、すでに選定 した項 目にしたがつて索引を作 り、 これをコンピュ ーターに入力 した。この索引により調査 を進めている中に、ツングース族 であるこ とが明らかな「靺鞨」 と「高句麗」あるいは「渤海」 との関係を明 らかにすること の必要性を悟 り、その研究 に従った。

 ② ① と関連 してツングース族 の移動を追究することの必要を知 り、ツングース 族 の現在の分布状況 を地図にした (附 地図参照)。 この分布状況か ら、すでに得 ら れた歴史的事実 を参考 に して、ツングース族の移動の跡 を考えた。それは貊族の運命にも関係す るものであることが朧げに分かった。

以上 のよ うに、平成 2年 度 よ り3年 間 に亘 つて調査研究 を試 みた。 そして、その研究 は、各分野 の専 門家であ る研究協 力者 、すなわ ち、旧満 州史研究 の松村潤研究員、朝鮮古代史研究 の武田幸男研究員、 日本語学 の亀井孝研究員、 中国音韻学の古屋昭弘研究員の意見 を絶 えず徴 しつつ行 つた。研究協力者石 川重雄立正大学講師 に は中国史研究者 と して『 三 國志 』 「魏志 」 と『 太平御 覧』所 引 の「魏 志 」 との引用 記事 の比較対照一 覧 作成 の監 督及び研究事務 を総括 して貰 った。」

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すべては原著にあたってほしいが、この研究成果が広く公知となっていないことを寂しく思う。加えて、雑でやっつけ仕事の多い科研費報告書であるが、このような良心的な研究グループによる素晴らしい研究成果がなぜ出版できなかったかと思うと残念である。