2017年12月4日月曜日

津田剛先生追慕

津田剛先生追慕

 『東京日日新聞』昭和141030日付け記事によると、その前日の1029日に、府民館中講堂で朝鮮文人協会が設立されたという。初代会長は当時の「朝鮮文壇の大御所」であった李光洙であった。会員数は250数名。ペンの戦士を誓ったという。我が目を奪ったのは、津田剛氏が朝鮮文人協会設立に至る経緯報告をしたとあり、しかも李箕永・朴英熙・朱曜翰等と共に同会の幹事に選出されていることであった。
 津田剛氏とは、あの津田剛先生のこと。かって、毎年、東京から森田芳夫先生が集中講義にお越しになった。助手の役目の一つは、森田先生の送り迎えであった。福岡滞在中、森田先生は津田剛先生のご自宅に宿泊なさった。津田剛先生の奥様美代子様が森田先生の妹であられたからであった。ご自宅は福岡市茶山にあった。ご自宅は山腹の三叉路にある日当たりの良い家であった。津田先生のご自宅から九州大学箱﨑Campusまでは、妹である美代子様運転の愛車ミゼットでお越しになり、帰りは我がポンコツ車でお送りした。ほぼ毎日、美代子様お手製の夕食をご馳走になることも有り、森田先生・津田剛先生に向かい合う形で夕食の席に着き、極度の緊張で食事もろくろくのどを通らなかった想い出がある。なにしろお二人は全く冗談などから縁遠く、謹厳実直を絵に描いた方であった。
 毎日、毎日、茶山まで送迎しながら、そして遠慮なくお茶を頂戴し、時には食事までもご馳走になりながらも、ついにお伺いできなかったのが緑旗連盟に関する話題であった。むろん緑旗連盟設立者であった津田栄先生のことは何度もお伺いできた。
 津田先生がいかなる経緯で朝鮮文人協会設立発起人となり、李光洙などの朝鮮文壇の寵児と親しく交際なさったのかを知らなかったために、ついに津田剛先生に対して、「根掘り葉掘り」お伺いすることはしなかった。

 猶、本設立総会終了後に一同全員、「打ち揃って朝鮮神宮に参拝し、神前に文章報告の誠を誓った」とある。

その後、ふと思い出した話であるが、雑誌『緑旗』刊行をめぐるエピソードである。京城府初音町に所在した緑旗聯盟で、 1936 年 1 月に創刊され、1944 年 12 月まで刊行された『緑旗』。

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