「前間恭作先生の日記――」
第一章
九州大学は通称「前間文庫」を架蔵している。周知の事実であるが、生前に前間先生は朝鮮本の大半を東洋文庫に寄贈なさった。その後、数度にわたり前間恭作先生のご遺族から九州大学に寄贈された資料群がある。いずれもご逝去の直前まで先生の書斎にあった愛蔵品である。その中に恭作先生の日記「玄界庵日記」(2巻)がある。名著『古鮮冊譜』(東洋文庫)で著名なように、希代のメモ魔である前間先生の面目躍如と言えるほどの几帳面さが覗われる。冒頭「はしがき」は、豊臣方であった前間家の来歴から、対馬への移住、そして廃藩置県後の自らの履歴を語るが、すでに末松保和先生の好論があるので、ここでは略してもかまわないだろう。
日記は明治19年2月1日から始まる。その日の記事は「睡眠八時間」の5文字のみ。2月4日の欄に「此日太陰暦元日に当る」とあるので、日記は太陽暦で進む。毎日はその日の勉強量を記録し、例えば「代数四頁、外史1冊」(2月9日条)など。その月末には、「代数合計九十五頁、一日平均3.39頁、第4合計7頁、一日平均0.25頁、睡眠一日平均七時間六十分、睡眠合計二百十三時間、入費合計三拾銭」など綿密なデータを提示する。毎月末である。淡々と日々の読書と書翰の来着などを記載するが、「父公判無罪放免の言渡さるを知る」(明治19年6月10日)とあり、この時分、父の訴訟騒動に心静かではなかったようだ。丁寧に「判決文」をも収録している。2月1日の「スマイル氏自助論三頁」(明治19年2月1日)が初見にして、当時のベストセラー「斯邁爾斯(スマイルス)著『西国立志編原名・自助論』全8冊、中村正直訳」を読み始め、その年の12月に至る。勤勉な勉強ぶりだが、途中の3月に入り、「膝栗毛」を拾い読みした。年末の欄には、一年間の収支を記す。明治20年に入っても同様に勤勉実直な日々が続くが、この年から細字にて日々の家計簿を付け始める。読書の主は法律書であるが、11月だけは「里見八犬伝」の月であった。なお、前間先生は毎年の日記で「明治○○年一身上事故大要」を記して、その年を振り返える。明治二十一年に入ると、その年の2月22日条に「辞表ヲ出ス」とあり、日記には明記されていないが、大分始審裁判所の雇として生計を立てていた。いよいよ東上する。明治21年3月6日条からである。その当時の居所は大分。別府港から大阪行きの船に上船し、3月11日に大阪に上陸す。徒歩と汽車にて、3月22日午後5時に東京新橋に辿り着く。この東海道中の紹介も興味深いが割愛する。上京の目的は慶應義塾入試にあった。4月9日は、その入試日。試験科目は「万国史ヲ読マセタリ」とあり、英語1科目であったが、慶應義塾は即断即決で、前間先生の「予科1番の2」(1年2組)編入を許可した。というのも、その翌日の欄に「当日より共に慶應義塾に通学、課業七時半ヨリ11時迄」とある。教科書は「ロスコー化学、コックス文典、ヘスウェストン歴史及トドハンタル代数」であった。そして面白いことに編入を許されてから6日後の4月16日には「当日ヨリ19日迄共に慶應義塾期末試験」とある。5月1日から予科2年に進級する。慶應義塾予科の講義では生理学の講義が苦手であったらしいが、毎日、対馬人との交遊に明け暮れる。明治21年12月24日条には試験問題「我国ヲ如何せば東洋ノ英国タラシメ得ベキ乎」が載るが、それに対する先生の解答はなし。日記を見る限り、とにかく実直な2年生であったようだ。特記事項は12月に入り、日本古典の「伊勢物語」「源氏物語」「狭衣物語」などの読破ぐらいである。さて明治22日5月1日に、3年に進級する。その年の教科書は「テリー法律原論、ヘスチング伝(松原註:マッコーレー著か?)、ロックス第1文学論、ウイルソン幾何学」であった。この年の重大事件は熱病で9月23日から赤十字病院に入院し、10月25日に退院するまで病魔が襲ったことである。翌明治23年は勉学に勤しむ前間先生の日々は安泰そのものであった。ここで第1冊目が終了する。
第二章
第2冊は、明治24年1月1日から始まる。慶應義塾卒業後にいかなる進路に進むべきかを考え始めた前間先生は、対馬に生まれ、中学時代に学んだ朝鮮語運用能力の活用を思いついたのか、その年の1月23日から「室田ヲ外務省ニ訪ヒ面会ス」とあり、また「小田ノ紹介ニテ朝鮮公使館訳官金洛駿氏ニ初回ス」(2月13日条)、とか「朝鮮公使館ヲ訪ヒ」(2月18日条)の記事が散見される。同年7月27日に「外務省人事課に願書出ス、試験ノ通知ハ三日内ニアルベシ、翻訳位ナリトイフ」とあるが、その保証人が「田中義一」であった。前間先生とて、その外務省試験に自信がなかったからか、「夜、戸田紹介ニシテ松平頼綱を訪フ、宝田ニ留学生ノ事等合セ頼ミテ帰セシ」(同年8月1日条)とある。松平の力は絶大であったようで、「松平ヨリ宝田ガ依頼ノ事談ニアリ、志願者多キ故、一応ハ試験ノミニテハ覚束ナカルベシカヲ充分ニ尽力スベシトノ談アリシ由」(同年8月9日条)とあるが、その翌日には「外務省ヨリ御用召アリ明日十一時」(同年8月10日条)との通知があった。ここからがスピードが速く、現代では想像もつかないが、「午前十時外務省出頭、留学生ヲ命ズ、但シ京城に留学スベシ、学資金三百円ヲ給ス」(同年8月11日条)とあり、すべてお膳立てがついていたのではないかを疑う程である。朝鮮への出発は11月1日。「午前八時汽車ニテ朝鮮京城出発、田中義一・松平頼綱・小田久太郎汽車場迄見送ル」とある。そこから横浜港で「和歌の浦丸」に上船し、神戸・下関。長崎・対馬を経由して、11月9日に釜山に到着する。12日に仁川にて下船。翌13日に京城の地を踏む。「午前7時出発、陸上にて午後5時入京、即夜、梶山・竹田訪問、山之内に宿泊す。馬代1円6銭2厘5毛、渡3銭、中食20銭、草履18銭」の記述あり。
第3章
入京後、1週間ほどは京城市内を散策しながら、生活のセットアップに努める。それだけに注目されるのは当時の生活用品の価格。メモ魔前間の真骨頂と言えようが、とにかく細かく価格の記載あり、風俗史研究の好適な資料とならん。
さて目的の朝鮮語学習は11月23日から始まる。「国分ヲ訪ヒ朝鮮教師頼ム」(11月23日条)とあり、翌日、「朝ハ在宅午後朝鮮教師兪炳文氏に初面、月謝3円ニテ明日ヨリ受業ノコトニ取定メ、朝鮮町ニ借家ヲ得タリ、夜、岡倉氏ヲ訪ヒグリブ之朝鮮及文籍彙ヲ借用ス」(11月24日条)とある。この岡倉氏とは「岡倉由三郎」であり、岡倉天心の実弟にして、明治24年(1891)当時、官立(韓国政府)日語学校の教諭、東京帝国大学言語学科選科卒。韓国語教材は「興夫伝」(11月25日条)であり、朝鮮語教師であった兪氏と講読。
さて、我々の注目は朝鮮本大コレクターである前間がいつから購入し始めるかであろう。その日は、11月26日に訪れた。「華語類解1冊6銭、千字文10銭、類合10銭」とある。この3冊からスタートし、「玉篇2冊45銭、璿系(「璿源系譜紀略」)1冊30銭、蚕桑抄説15銭、民堡輯説(申観浩輯、銅活字本、全史字か?)16銭」(12月1日)とある。在京中の前間先生の購書熱は日増しに高まるが、惜しむべきは明治25年3月30日の条で玄界庵日記巻2が終了していることである。
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