2022年6月13日月曜日

由水常雄著『正倉院の謎』魁星出版、2007年刊 読後評

 ふとしたキッカケで、由水常雄著『正倉院の謎』を手にした。もともと買い求めていたのであるが、長い間、他の関心に紛れて、いつの間にか書棚に眠っていたままであった。裏表紙の手書きのメモを見ると、20数年前であった。当時、正倉院に関心を持たなかったので、書店の店先で偶然に止目して購入したらしい。由水氏といえば、古代ガラス史研究の第一人者である。正倉院所蔵のコバルトブルーで目を引くガラスのコップ「瑠璃坏(るりのつき)」(奈良国立博物館、2012年10月27日(土)から11月12日(月)、第64回正倉院展で実見)などの一連のペルシャ・ササン朝のガラス工芸品の説明書だと一人勝手に理解したまま、それを筐底に秘することとなった。

 さて、あらためて本書を手にすると、その書名に驚いた。「謎」とある。そもそも古代のすべてが謎に満ちていると理解する私にとって、謎解きに興味津々であるものの、由水探偵が挑戦するミステリーには単なる殺人事件の犯人捜しなどとは異なる意想外の「謎」であった。

 他の読者はどのようにお考えになるのかはわからないが、私は由水氏特有の文言に出くわすたびに、読み進めるスピードが遅くなりがちであった。例えば、

 *「完全な無血革命」(72頁)

 *「正倉院クーデター」(98頁)

確かに本の販売を伸ばすために、とかく出版社の編集部のセールス戦略は過激な文章に仕立て上げがちであるとはいえ、由水氏の文はいささか挑戦的である。

謎1)なぜ、『国家珍宝帳』に、なぜ、「天皇御璽」印が487個も押されているのか。

謎2)なぜ、「東大寺封戸処分勅書」(天平宝字4年7月23日付け)に、「天皇御璽」印の偽印が押されているのか

謎3)なぜ、正倉院の宝剣5振(陽宝剣、陰宝剣、金婁宝剣2振、銀荘御太刀)が出蔵されたまま、返納されていないのか。そもそも持ち出したのは、誰か。

 私の知る限り、『国家珍宝帳』に関する解説として最も優れているのは、関根真隆氏のそれである。

 「天平勝宝歳六月二十一日献物帳(種々薬帳)右の国家珍宝帳とC天平勝  

  宝六歳六月二十一日献物帳(国家珍宝帳)すまでもなく聖日に薬六十種を奉  

  献された目録種々薬帳とも称する。聖武帝崩御後十九日忌に当る日のも

  ので文中のはじ言葉をとって家珍宝帳ある珍宝帳とも称

  す珍宝という語は先記のようにすでに天武紀に例がある。 

   表紙は緑麻紙で題に東大寺献物墨書して皇御靈一を押す発装に綺

  帯の断片が付着す表紙には在補強のために見返に裏打様薄い紙が全体に貼ら

  れている貼られた時期は正確な記録がないので明らかでないが大正年間のこと

  ではないかといわれいる。 

   表紙の長さは上端で二四ンチ下端は二三五センチですこ

  しずれがあるそれが本来のままか否かは明らかでな二五八セ

  ンチ。

   本紙は白紙三張郵の幅は二~二センチ高二二セ  

  ンチで、面上に天皇御璽を堅1行に3163総数489を押す。      

  そして文中に所々朱書、墨書の付箋がある。本紙全長は約14.7メー

  トル、竪25.9センチ、また本紙各紙の長さは、第1紙77.5セン

  チ、第2紙80.8センチ、第3紙~第17紙は87.0~87.9セ

  ンチ、但し第7紙87.6センチ、最末の第18神は11.5センチ。

   軸の軸端は撥型の桑木軸木は杉材で長さ25.2センチ全長31.2センチ 」

であり、信頼に足る記述である。

 さて、問題は由水常雄氏が説く謎である。しかしながら、なぜ、489の天皇御璽を押印したかのは不明であり、その数の多さをいくら問い続けても、あくまでも仮説に終わるだけである。その由水氏の仮説を知りつつも、現段階の資料上の制約がある限り、どのような仮説であれ、その論証が困難である以上、関根氏が自重するように、どこまでも事実のみに禁欲的であるべきである。私の立場からすれば、次の関根氏の解説で十分である。由水氏の自説を無視するのではなく、それも頭に置きつつも、語るべき時期が来るまで、単に語らないだけである。

   献物帳の問題点 

  献物の概要を右述べたが次にこれらの題点というものをとあげてみたれには書としての形式天皇御璽本紙、巻末連署の人その他などの諸問がある。 

  そのまず第一文書としての形式であるこれら献物帳を通覧しても明らかなように文書として形式の統は必ずしもとれてなくその都度かな自由にしたためられたらしいことであこで共通しているのはずれも天皇御璽が全面に押されていことであることは一れらが勅旨であるとを味するのであろう正確にい えば物帳には明確にるものとそうでないものとの二通り がある。 
 まずはっきと勅とあるのは、(3)風花棄等帳、(4)大小王真、(6)法隆寺献物帳であとみえなのは、(1)珍宝帳、(2)種々薬帳、(5)真蹟屏風帳で
 してこれら密に区別するならば勅とあるのは孝謙女帝の勅許による奉献そうでないのは皇后によるものと一応考えられよう。
 確かに(1)珍宝帳には皇太后御製の願文があ、(2)種々薬は(1)と同日のものであるという点から皇太后ご意志のものであろうと思われるし、(5)は不比等公のもので皇ご愛であったからやはり皇太后の意志のものとしなのが当然とえるこれらに対して(3)風花氈等帳、(4)大小王真蹟、(6)法隆寺献物帳いずれも勅とある以上は孝謙帝による奉献と解さなければならないだろうしかし当時の状勢から みて孝謙帝の背後にはやはり皇太后の御あったとは否定しえないことでいうなれば勅となのは皇太后私的なとあるのは 公的なものというべきであろう
  (中略)
は天皇御璽の問題であるが影は一辺~八センチぐらいで、わゆる内印方三寸に相当す最古の内印の印影は述の平田寺蔵の聖武天皇勅に押されたものであるがれもここに述べる献物帳の諸帳に捺されたのと同一であろだそ違うという意見もある。
 帳の印影を写真によって全体的に通すると巻にわたって実に謹厳に整然と押されているしかしそのなかにも特徴な点が二つあるようだその一つは印が心もち右さがりに押された様子のあ るこ二は印影にむか左側御璽の朱が濃くついているような傾向があるとに者の点は本の屏風を記載する辺りから巻末にかけての左肩の朱がかなり濃くつていのが顕著に認められる(図版4)。
 (2種々薬帳の印右述の珍宝帳と同様に整然と押されている ちらかとえば珍宝帳反対でやや右あがりの気味であるしかしなが 種々薬帳全体についての特徴の左肩の朱のつきが濃く押さ れているのがとくに目につそしてこの点が実は宝帳後~巻末 にみる傾向によく共通していのであ(234)それは(1)珍宝帳とこのとは同日のものであることからまず珍宝帳に押印て次に直ぐに同じ人の手によってこの種々帳にも押されたた宝帳巻末あたりの押癖がそのまま続たように思われる。 
 (3)屏風花誕等帳の印影はやや右さがり気味のところがた向て左側御璽の部分の朱のつきがややよくこれは(1)珍宝帳、(2)種々薬帳にも通じうであるいは前二者と同一人による押印であったかもしれない。  
 (4)大小王真珠帳、(5)原公真蹟屏風帳に押された印は明らかにこれの(1)珍宝帳、(2)々薬帳、(3)風花◆等帳などとは異なったしかたである(版56)それはいうなればかなり乱雑な押しかたであ、 れまでの三つの帳あるいは次の(6)法隆寺献物帳のような謹厳さとい ものが全くじられなあたかも仲麻呂の専権の時代にた時のも ので天皇御の取扱いの変化がこの二帳からよみとるとが できる。(6)法隆寺資帳の印は、(1)(2)(3)と同様に整然と押されてお全体的にはやや右下りのもあによく朱印がついているようでこれらは(1)(2)に通じるようであるは時期的にみても同人の 押印かもしれな。」(26-27頁)

 


 

  


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