2022年7月17日日曜日

日本統治期京城で開催された愛書家たちの集まり

 

書物同好会について

 

(1)はじめに

かって京城(今のソウル)には、綺羅星のごとき愛書家で、蔵書家の一群がいた。前間恭作・鮎貝房之進・藤田亮策・末松保和・ 藤塚鄰・田川孝三・中村栄孝・今西竜・稲葉

君山・三木栄・奥平武彦らの日本人に加えて、李仁栄・宋錫夏・崔南善らの韓国人である。かれら蔵書家たちは「書物同好会」を発足させた。昭和12年5月5日、その創立第1回会合が開催された。ただし理由は明確ではないが、崔南善だけは加入しなかった。

創立会合に参加したメンバーは、飯島磁次郎・岡田貢・菊池謙譲・岸謙・黒田幹一・桜井義之・末松保和・岡野真吉・中吉功・山田富士松の11名であった。メンバー全員が日本人である。創立メンバーを見る限り、京城やその周辺に在住する京城帝国大学・朝鮮総督府・中枢院の研究者・京城帝国大学図書館司書、京城電気社員・新聞社経営・医師など多彩な職種の会員で組織されていたことが判明する。

この中の桜井義之(当時、京城帝国大学法文学部助手)が発足の呼びかけ人であったし、創設から会の活動が停止するまで会の実務を担当した。

 昭和13年1月21日改正の会則は、5つの本則と1つの附則で構成されている。

 

    会則

1、組織及事業

第1条      本会ハ「書物同好会」ト称シ書物同好ノ士ヲ以テ組織シ書物ヲ

中心トシテ東洋文化関係事象ヲ研究シ併セテ会員ノ親睦ヲ図ル

ヲ目的トス

第2条      本会ハ第1条ノ目的ヲ達スル為左ノ如キ事業ヲ行フ

1、毎月1回例会ヲ開催

2、研究会、座談会、展覧会等ノ開催

3、其他例会二於テ適切ト認メル諸事業

2、会員

第3条  本会会員ハ左ノ各項二該当スル者ヲ以テ会員トス

1、書物ヲ愛好スル者

2、本会ノ趣旨二賛同スル者

         会員タラントスル者ハ会員ノ紹介ヲ要ス

第4条  会員ハ会費トシテ年額金2円ヲ納入スルモノトス

 

        (以下、略)

 

 

 

 この会則に照らし合わせて、書物同好会の主要活動である月例会は、この後、第1回から第63回(昭和18年11月26日)まで継続された。昭和12年から昭和18年の間といえば、すでに中国大陸では戦雲が立ち込めている時期であった。

各月例会の題目と発表者に関しては、別表に見るところであるが、その発表回数や活動報告に照らし合わせると、藤田亮策・末松保和・奥平武彦・桜井義之らの京城帝国大学・中枢院勢、三木栄・岸謙・今村鞆らの民間人が活躍するが、残念ながら李仁栄・宋錫夏らの韓国人が月例会で発表することは無かった。もっとも会の雑誌である『書物同好会報』には、李らは寄稿していることから推測して、書物同好会そのものに反対していたようには思われない。念のために付言すれば、李らが毎月開催された月例会に出席したかどうかは確認できない。少なくとも会報末尾に掲載された概報には、二人の名前を見出すことは出来ない。

 

(2)3人の先達――前間恭作・鮎貝房之進・今村鞆

 

月例会で発表された内容の多くは、雑誌『書物同好会報』(第1号から第20号)に転載されており、活発な活動内容の一端を知ることが出来る。月例会の性格からして、発表者の手配がどうしても優先される関係上、例会は統一したテーマで毎月連続してはいない。むしろ諸種雑多と言うべきであるが、月例会の発表を掲載した会報を見ることで、一応の方向性を確認しておこう。19冊発刊された会報の中で、唯一特集された号が、第2号「紙」であろう。

 

 「紙反古」――藤田亮策

 「造紙署の事ども」――田川孝三

 「朝鮮紙について」――安田邦誉

 「朝鮮紙文献一覧」――桜井義之

 

 

 

 

 

 

そして特集号と言えば、次の4号は同好会の会員諸氏の思いがどこにあったかをよく知りうるものであろう。

 

第9号―――「今村鞆先生古希祝賀記念特輯」

第15号――「前間恭作先生追悼号」

第十七号――「鮎貝房之進先生喜寿祝賀号」

第19.20号――「奥平武彦教授追悼号」

 

 

今村鞆・前間恭作・鮎貝房之進の3人は、1910年の日韓併合以前に韓国に渡ってきたものたちであり、かれらは警察官(今村)、総領事館通訳官(前間)、そして与謝野鉄幹とともに閔妃殺害事件に関与した一在野の民間人(鮎貝)であった。しかしながら彼らは大学等の教官ではなかったものの、

 

 

今村鞆―ー『朝鮮風俗集』『朝鮮漫談』『船の朝鮮』『朝鮮の姓名氏族に関する

研究調査』『人参史』『李朝実録風俗関係資料撮要』『各種文献風

俗関係資料撮要』『高麗以前風俗関係資料撮要』『扇・左縄・打毬

・★』など

前間恭作――『校訂交隣須知』『韓語通』『龍歌故語箋』『鶏林類事麗言攷』『朝鮮

の板本』『半島上代の人文』『古鮮冊譜』『訓読吏文』など

鮎貝房之進――『雑攷』(第1輯~第9輯、計12冊)

 

               

といった著作リストを瞥見するだけでも、日本人の韓国研究の先達たちの健筆と偉大さが分かると言えるものである。今村にしても鮎貝にしても二人の膨大な蔵書がどのような内訳であったのか不明であるが、在山楼主人として知られる前間恭作の旧蔵書は、幸いにも白鳥庫吉の懇請によって東洋文庫に譲渡されていたために、前間の蒐書の全貌をほぼ知りうることが出来る。

 昭和12年から昭和18年にかけて、前間恭作はすでに朝鮮半島を離れ、福岡に居住していたために、書物同好会会員が直接に指導を受けてはいないようであるが、手紙魔ともいえる前間の書簡を手にした会員は、異口同音に前間からの教えに感謝している。しかも書誌学データベースなどない時代にあって、前間の名著『古鮮冊譜』は会員による典籍調査の指針となっており、彼からの薫陶は計り知れないものがあったに違いない。それに反して、当時、今村や鮎貝は京城に在住していたために、会員諸氏は日々その声蓋に接していた。開化期の朝鮮に來住し(鮎貝は明治27年、今村は明治??年)、各会員よりも一早く朝鮮本の蒐書を開始した先輩であったので、其の蔵書の質は、前間にけっして劣るものではなかった。財産家であっただけに、鮎貝の蔵書のクオリティーの高さが光り輝くが、1945年の敗戦と共に、彼のコレクションが散逸してしまったのは惜しまれる。

一方、昭和17年当時、今村宅には約3000冊の朝鮮本が所蔵されていたと言う。

 なお第4番目の特集号であった「奥平武彦」に関しては、後述する。

 

(3)活字に就いて

 

昭和の初め、京城の古書籍商といえば、翰南書林白斗鏞・書買朴駿和・書買朴鳳秀らが著名であった。その当時、書誌学辞典はいうまでもなく、専門の書誌学者さえいなかったわけであるから、同好会員諸氏が購入した典籍の鑑定に苦労したに違いない。

 会報をみると、最も多い記事は活字に関してである。最古の金属活字を作り出した国の朝鮮で作成された典籍であるだけに、多様な活字を作り出して刊行されおり、異本、刊行地や刊行年次の決定などに、どうしても活字に対する正確な知識は必須であった。

 

 

  第4号  「李朝初期の活字印刷につき」―――園田庸次郎

  第5号  「甲辰活字について」---―末松保和

  第6号  「朝鮮の宋元明板覆刻本」――奥平武彦

  第10号 「古活字2題」――関野真吉

  第11号 「鋳字所応行節目につきて」――藤田亮策

  第11号 「板堂考(鋳字所応行節目)」

  第11号 「鋳字雑記(1)」――駝駱山下人(藤田亮策)

  第12号 「鋳字雑記(2)」――駝駱山下人(藤田亮策)

  第17号 「乙亥字小攷」――李仁栄

  第18号 「文禄役直前の朝鮮活字」――李仁栄

 

 

 

 この他にも書物同好会では、毎月の月例会で、

第3回例会 鮎貝房之進「支那及び朝鮮の古活字に就いて」

の発表があった。

  藤田亮策が適切に指摘するように、書物同好会員たちのバイブルは、前間恭作の『朝鮮の板本』であった。

   「活字の実例を挙げての説明は極めて有意義であるばかりでなく、同一活字の年次を隔てての増鋳・改鋳を注目して、同じ種類の活字に数種の刊版あることを注意されたことは寔に尤なことで、多数の本の比較研究によって初めて知りうることである。鋳字の種類並びにその刊行に就いては、前間氏の本で大体尽くされている」(藤田亮策、第111号、10頁)

 

 (?)謎

 

念のために付言すれば、李らが毎月開催された月例会に出席したかどうかは確認できない。少なくとも会報末尾に掲載された概報には、二人の名前を見出すことは出来ない。

 

 

朝鮮総督府図書館の萩原館長の参加もない。


0 件のコメント:

コメントを投稿