発表題目:
「植民地空間京城の博物学者・藤田亮策」 --「『朝鮮』は『朝鮮』だよ」---
第1章 はじめに
本稿は、日本統治期韓半島に設立された京城帝国大学に勤務し、京城に結成された「書物同好会」に所属した藤田亮策らを紹介しつつ、彼らの愛書行動のみならず、彼らの旺盛な博物学的関心に焦点を据えて、それを多文化主義の観点から分析することにある。
そもそも日本が第2次世界大戦に敗北した1945年8月段階で、韓半島に在住していた日本人の数は約70万人であった。これ以外にも「外地」に一旗を揚げるために、あるいは「内地」に居づらくなって流れ着いたりして、住民登録をしなかった日本人たちも多数いたと予想されることから、最終的には約90万名が韓半島に居住していたと筆者は推測している。さらには、朝鮮駐屯日本軍(1905年~1945年)約2万名も加えるべきであろう。1880年代から日本人は無断で韓半島に進出し、家を建築し、生計を営み始めたが、本格的な日本人移住は、日韓併合後の1910年以降であった。はたして韓半島に居住した日本人の通算が何百万名になるのか、あるいは作家夏目漱石や画家小磯良平などの著名人を初めとして観光客や一時滞在者なども含めると、その数は計り知れない。
韓半島に足を踏み入れた日本人の大多数は、関釜連絡船を活用して、釜山に上陸したが、植民地の光景は強烈な印象を与えたにちがいない。港や駅、郵便局などの赤煉瓦のヨーロッパ風建造物であったが、軒が反り返る韓国風の屋根が連なる町並みや、町を歩く「白衣民族」と呼ばれた韓国の人々の服装に驚き、そして食器や食べ物、酒などに好奇心を抱いたに違いない。
第2章 植民地期韓半島日本人植民地者のエキゾチズム
(2-1)我々の考察を開始する前に、日本人植民地者のエキゾチズムを知る手がかりを得ることも、一見すれば迂遠ではあるが、我々の考察の邪魔にならないはずである。その手がかりを、植民地期韓半島と日本国内を往来した絵葉書を例としよう。何よりも視覚イメージとして明確な資料であるからだ。
一般的に自分自身の目的地に至り、その無事な到着を連絡するなり、あるいは、その間に観察した韓国の光景を日本にいる親族や友人などに知らせるためにも、郵便葉書が使われる。葉書の裏面に画像情報があれば、それによって、葉書の差出人の現況を知らせる補助資料となろう。周知のように、日本の絵葉書の普及は1904年に勃発した日露戦争が契機であった。戦地が中国であり、しかも戦況を伝える手段として、絵葉書が大流行した。しかも兵士が中国に数万名派遣され、勝利の戦果と共に中国東北部の町並みや風俗を写した絵葉書が大量に生産されて、それらが日本続々と軍事郵便として送られた(注1)。日本政府が派遣した戦争従軍カメラマンによる戦地状況の写真をもとに、逓信省発行「日露戦争記念官製絵葉書」(6種1組、定価12銭、第1回~第12回)が発売されるや、空前の大ヒットとなった。日本国内の戦勝ムードもあって、これから続々と日露戦争関連絵葉書が印刷されたが、いずれの絵葉書共に、その販売高は爆発的であったという。
日本統治下の韓半島においても、ほぼ同一時期に日本国内向けの絵葉書が制作された。韓半島における購入者の要求は、日本国内のそれと大きく異なり、
1,植民地の異国趣味
2,植民地の日本化状況
3,植民地の名勝情報
4,植民地の繁栄の証明
5,韓国風俗
6,学校や百貨店の記念絵葉書
7,豊作の農村収穫風景や近代化された市街地風景などによる植民者誘致
8,博覧会などの朝鮮総督府政策の宣伝
9,韓国女性美
10,韓国の職業カタログ:両班・伎生・壺売り・水売り
11,業種の紹介
など多様であった。現在と異なり、映画・テレビ・インターネットなどがない時代、画像情報の提供者としての絵葉書が果たした役割は大きい。
例えば、昭和初期ソウル(京城)のスナップ写真を取り上げたい。韓服を着た3名の女性たちが宮殿内部で舞っている。絵葉書に記載された文字説明は、「鳳来儀」。日本人向けに制作された絵葉書では、この「鳳来儀」以外に、扇舞・僧舞などがあった。多くの日本人にとって、「鳳来儀」にせよ、どの語句にせよ。いずれも未知であった。日本国内に郵送されてきた絵葉書を見た日本人の99%以上が、初めて目にする韓国舞踊であったに違いない。文化的コンテキストを説明することなくして、突然に画像情報「鳳来儀」として提示される絵葉書を手にしつつ、日本人の目に飛び込んできたのは、下駄とは異なる「白い履き物」(コムシン)と、着物とはどこか異なる韓服、また帽子とは異なる頭の飾り、盆踊りや座敷踊りとは異なる手の動きであったにちがいない。直感的に、絵葉書の受け手は違和感を覚えたとともに、「異境の地における生活の苦労」を推察したはずである、「日本国内にいたならば---」と。3人の女性の背景も、日本人には見慣れない建物である。観点を換えれば、カメラマンや絵葉書出版者の制作意図は何であっただろうか。日本国内に郵送された絵葉書を手に、誰もその画像情報の意味を理解できないのに、なぜそれらの絵葉書を制作したのだろうか。少なくとも、韓国で写真を撮影した側は、日本舞踊のように家屋内部に設置された舞台ではなく、韓国舞踊は「マダン」(庭)で演じられることを明示したかったと推測して良い。たとえ当時の照明技術では、屋外で写真撮影をしなくてはならなかったとしても、「マダン劇」であると教えたいという意図は認めるべきである。
Edward Wadie Saidのオリエンタリズム式に言えば、「優越する帝国国家日本と劣等な被支配民族朝鮮との間の厳格な区別」であろうが、日本国内や欧米から送られてきた観光絵葉書と異なり、植民地から郵送される画像情報は、たとえ送り手と受け手の双方が文化コンテキストに無知であったとしても、そこに明確な「植民地主義」を認めなくては、それは日本人の傲慢に由来する曲解である。本来的に、日本統治期朝鮮で制作された絵葉書には、反日的イメージを喚起する画像を許容しない性格を持つ以上、日本人の特権的な遠近法、つまり植民地者の傲慢さ、植民地風景への懐かしさの喚起、植民者の誘致、植民地の繁栄を投影したものでなくてはならず、一枚一枚の絵葉書が植民地主義の分類体系であるからだ。
(2-2)さて、こうした絵葉書に含められたメッセージが、韓半島居住の日本人から日本国内の日本人あてに送られたとするならば、それと対照的に韓半島居住の日本人から韓国国内の韓国人あてに提示されたメッセージを求めることとしよう。
(2-3)すぐに思い起こされるのは、1915年(大正4年)に日韓併合5周年記念イベントとして開催された「朝鮮物産共進会」(場所:景福宮、9月11日~10月31日)である。
日韓併合5周年記念共進会の要綱は次の通りである。
1.本会の施設は華奢を去り質実を旨とし共進会の実を没却するか如きことなきを期す。
2.出品は単に朝鮮の物産のみならず産業、教育、衛生、土木、交通、経済等に関する施設及統計をも網羅し産業其の他文物の実況及其の改善進歩の状を展示するに務む。
3.出品は部類を分ち尚其の部類中の種別に従ひ道毎に出品を区分し其の対照を明かならしむると共に別に道全体として其の状勢及施設の状況を対照比較し得るの出品を為す。
4.内地生産品の出品は朝鮮の生産業に必要なりと認むるもの及外国輸入品に対し販路拡張の必要ありと認むる日用必需の物品に限り本会に於て出陳を承認す。
要するに、共進会は植民地「朝鮮」の「ディスプレイ」を目的に開催されたが、その対象は日本人でなく、また欧米人もなく、
「共進会は既に鮮人の啓発を目的とす、鮮人をして就て多く遊覧せしめざる可らず、朝鮮総督初め共進会関係の意嚮亦茲に存し成るべく、多くの鮮人をして遊覧せしめんと欲し」(『中外商業新報』 1915年10月4日)
たとあるように、朝鮮人であった。
この朝鮮物産共進会のモデルは、日本国内で開催されていた内国勧業博覧会の興行的成功であったと推測されるが、その場で紹介されたのは、Made in Koreaの物産だけではなく、韓国舞踊も以下の通りに紹介された。
9月12日(日曜日):蓮花合舞,鳳来儀,舞鼓
9月19日(日曜日):六花隊,春鴬舞,無碍舞
9月25日(土曜日):舞鼓,蓮花台舞,春鴬舞
9月27日(月曜日):鴻門塾,演百福舞,僧舞
10月2日(土曜日):鳳来儀,長生宝宴舞,双剣舞
10月17日(日曜日):撲蝶舞,蓮花台舞,僧舞
10月24日(日曜日):寿宴長,佳人剪牧丹,剣舞
今となっては、この17種の韓国舞踊はその一々の演出内容を知りえない。これらの韓国人対象の朝鮮物産共進会において演じられた韓国舞踊が、たとえ景気づけに演じられたという日本人側の説明があったとしても、それは「弁解」に過ぎない。結果的に「帝国」に飼い慣らされたイデオローグを表明する機能として、わざわざ物産共進会のプログラムに組み込まれているからである。換言すれば、侵略者である日本人が、被侵略者の韓国人に対して、韓国舞踊を代表するレパートリーとは何かまでを教え、しかもそれをディスプレイするという逆転現象が起こっていたと言えよう。
(2-4)要するに、植民地空間韓半島に於いては、日本人の「帝国主義」が植民地の諸事象を分類し、体系化し、価値化し、有用無用の区分化し、しかもお節介にも代表性をも強制的に押しつけることで、たとえ「面従腹背」であったとしても、朝鮮人は無言のままで受容しなくはならなかった。それが「帝国」の暴力性であるから。
第3章
(3-1)その昔、日本統治期京城(今のソウル)には、綺羅星のごとき愛書家の一群がいた。前間恭作・鮎貝房之進・佐藤六石・徳富蘇峰・浅見倫太郎・河合弘民・金沢庄三郎・藤田亮策・末松保和・ 藤塚鄰・田川孝三・中村栄孝・今西竜・稲葉君山・三木栄・奥平武彦らの日本人であった(注2)。李仁栄・宋錫夏・崔南善らの韓国人も、その集団に加えるべきであろうが、本稿では、日本人愛書家たちをのみ取り扱う。
ちなみに前間恭作所蔵本は計800余種2300冊、浅見倫太郎所蔵本は1084種5771冊・河合弘民所蔵本は793部,
2,160冊に達し、3名の所蔵本の総数は、約1万冊にも及ぶ。今村にしても鮎貝にしても二人の膨大な蔵書がどのような内訳であったのか不明であるが、在山楼主人として知られる前間恭作旧蔵書は、幸いにも白鳥庫吉の懇請によって東洋文庫に、浅見倫太郎旧蔵書は三ツ井文庫を経てカリフォルニア大学バークレー校に、また河合弘民旧蔵書は京都大学に、佐藤六石旧蔵書は大阪府立図書館に、徳富蘇峰旧蔵書はお茶の水図書館に、金沢庄三郎旧蔵書は駒澤大学に譲渡されていたために、各蒐書の全貌をほぼ知りうることが出来る。一方、書物同好会のメンバーの大多数の蔵書は、1945年8月15日を起点にほぼ散逸した。
早くに日本に隠遁した前間恭作・浅見倫太郎・河合弘民・佐藤六石・徳富蘇峰・金沢庄三郎などを除いて、かれら日本人蔵書家たちは「書物同好会」を発足し、昭和12年5月5日に、その創立第1回会合を開催した。創立会合に参加したメンバーは、飯島磁次郎・岡田貢・菊池謙譲・岸謙・黒田幹一・桜井義之・末松保和・岡野真吉・中吉功・山田富士松の11名であった。創立メンバーを見る限り、京城帝国大学・朝鮮総督府・中枢院の研究者・京城帝国大学図書館司書、京城電気社員・新聞社経営・医師など多彩な職種の会員で組織されていたことが判明する。
第1回創立会に参加しなかったものの、書物同好会の牽引車であり、会運営の主軸は、京城帝国大学教授藤田亮策(法文学部朝鮮史講座)であった(注5)。
本会設立の遠因は、明治40年から同44年にかけて行われた書物同好会「欣賞会」などであったにちがいない。当時の東京では数多くの書物同好会が定期的に開催されていたので、その京城Versionであった。「欣賞会」の会員は、安田善之助、林若樹、幸田露伴、岡田村雄、赤松範一、内田魯庵、市嶋春城らであった。『欣賞会記録』(日本書誌学大系所収、青裳堂書店刊)によると、安田善之助所蔵本や、各々が所蔵する和本を持ち寄って薀蓄を傾ける至福の時を過ごしたとあるが、それこそ京城の書物同好会特別企画「1本持寄り談話会」のモデルであった。
(3-2)ところで昭和13年1月21日改正の会則は、5つの本則と1つの附則で構成されている。
会則 1、組織及事業 第1条
本会ハ「書物同好会」ト称シ書物同好ノ士ヲ以テ組織シ書物ヲ 中心トシテ東洋文化関係事象ヲ研究シ併セテ会員ノ親睦ヲ図ル ヲ目的トス 第2条
本会ハ第1条ノ目的ヲ達スル為左ノ如キ事業ヲ行フ 1、毎月1回例会ヲ開催 2、研究会、座談会、展覧会等ノ開催 3、其他例会二於テ適切ト認メル諸事業 2、会員 第3条 本会会員ハ左ノ各項二該当スル者ヲ以テ会員トス 1、書物ヲ愛好スル者 2、本会ノ趣旨二賛同スル者 会員タラントスル者ハ会員ノ紹介ヲ要ス 第4条 会員ハ会費トシテ年額金2円ヲ納入スルモノトス (以下、略) |
この会則に照らし合わせて、書物同好会の主要活動である月例会は、この後、第1回から第63回(昭和18年11月26日)まで継続された。昭和12年から昭和18年の間といえば、すでに中国大陸では戦雲が立ち込めている時期であった。
各月例会の題目と発表者に関しては、別表1に見るところであるが、その発表回数や活動報告に照らし合わせると、藤田亮策・末松保和・奥平武彦・桜井義之(以上、法文学部)・三木栄(医学部)らの京城帝国大学、田川孝三(朝鮮史編集会)、岸謙・今村鞆らの民間人が活躍するが、残念ながら李仁栄・宋錫夏らの韓国人が月例会で発表することは無かった。もっとも会の雑誌である『書物同好会報』には、李らは寄稿していることから推測して、書物同好会そのものに反対していたようには思われない。念のために付言すれば、李らが毎月開催された月例会に出席したかどうかは確認できない。少なくとも会報末尾に掲載された概報には、二人の名前を見出すことは出来ない。
(3-3)書物同好会報の特集号
月例会で発表された内容の多くは、雑誌『書物同好会報』(第1号から第20号)に転載されており、活発な活動内容の一端を知ることが出来る。月例会の性格からして、発表者の手配がどうしても優先される関係上、月例会は統一したテーマで連続していないので、諸種雑多と言うべきである。その中でも、19冊発刊された会報誌の中で、唯一特集されたのが第2号「紙」である。
誌面 「紙反古」――藤田亮策 「造紙署の事ども」――田川孝三 「朝鮮紙について」――安田邦誉 「朝鮮紙文献一覧」――桜井義之 |
|
そして特集号と言えば、次の4号分は同好会の会員諸氏の思いがどこにあったかをよく知りうるものであろう。
第9号―――「今村鞆先生古希祝賀記念特輯」 第15号――「前間恭作先生追悼号」 第17号――「鮎貝房之進先生喜寿祝賀号」 第19・20号――「奥平武彦教授追悼号」 |
日本人の朝鮮本研究の先達である前間恭作・鮎貝房之進・今村鞆の3人は、1910年の日韓併合以前に韓国に渡ってきた会員たちであり、かれらは警察官(今村)、総領事館通訳官(前間)、そして与謝野鉄幹とともに閔妃殺害事件に関与した一在野の民間人(鮎貝)であった。しかしながら彼らは大学等の教官ではなかったものの、
今村鞆―ー『朝鮮風俗集』『朝鮮漫談』『船の朝鮮』『朝鮮の姓名氏族に関する 研究調査』『人参史』『李朝実録風俗関係資料撮要』『各種文献風 俗関係資料撮要』『高麗以前風俗関係資料撮要』『扇・左縄・打毬』等 前間恭作――『校訂交隣須知』『韓語通』『龍歌故語箋』『鶏林類事麗言攷』『朝鮮 の板本』『半島上代の人文』『古鮮冊譜』『訓読吏文』など 鮎貝房之進――『雑攷』(第1輯~第9輯、計12冊) |
といった著作リストを瞥見するだけでも、日本人の韓国研究の先達たちの健筆と偉大さが分かると言えるものである。
前述したように、書物同好会が活動を展開した時期、つまり昭和12年から昭和18年にかけて、前間恭作はすでに朝鮮半島を離れ、福岡に居住していたために、書物同好会会員が直接に指導を受けてはいないようであるが、前間の長大な書簡を手にした会員は、異口同音に前間からの教えに感謝している。しかも書誌学データベースなどない時代にあって、前間の名著『古鮮冊譜』は会員による典籍調査の指針となっており、彼からの薫陶は計り知れないものがあったに違いない。それに反して、当時、今村や鮎貝は京城に在住していたために、会員諸氏は日々その声蓋に接していた。開化期の朝鮮に來住し、各会員よりも一早く朝鮮本の蒐書を開始した先輩であったので、其の蔵書の質は、前間にけっして劣るものではなかったと推測している。『雑攷』に結実した博識な鮎貝のQuality高い蔵書(冊数不明)や、また昭和17年当時、今村宅には約3000冊の朝鮮本が所蔵されていたと言うが、その二つはいずれも敗戦と共に消滅した。
この3人の先達は幸せであった。日本帝国主義の先兵として訪韓し、韓半島の主人として植民地経営に参与するだけで、豊かな富を蓄積し、大陸の大砲の轟きや軍靴の足音などと無縁に生活できたのだから。彼ら3人は朝鮮本を自由に購入し、それを趣味で閲覧できたのだから。
(3―4)活字に就いて
昭和の初め、京城の古書籍商といえば、翰南書林白斗鏞・書買朴駿和・書買朴鳳秀らが著名であった。その当時、書誌学辞典はいうまでもなく、専門の書誌学者さえいなかったわけであるから、同好会員諸氏が購入した典籍の鑑定に苦労したに違いない。
会報をみると、最も多い記事は活字に関して、である。最古の金属活字を作り出した国の朝鮮で作成された典籍であるだけに、多様な活字を作り出して刊行されおり、異本、刊行地や刊行年次の決定などに、どうしても活字に対する正確な知識は必須であった。
第4号 「李朝初期の活字印刷につき」―――園田庸次郎 第5号 「甲辰活字について」---―末松保和 第6号 「朝鮮の宋元明板覆刻本」――奥平武彦 第10号 「古活字2題」――関野真吉 第11号 「鋳字所応行節目につきて」――藤田亮策 第11号 「板堂考(鋳字所応行節目)」 第11号 「鋳字雑記(1)」――駝駱山下人(藤田亮策) 第12号 「鋳字雑記(2)」――駝駱山下人(藤田亮策) 第17号 「乙亥字小攷」――李仁栄 第18号 「文禄役直前の朝鮮活字」――李仁栄 |
この他にも書物同好会では、第3回例会において、
鮎貝房之進「支那及び朝鮮の古活字に就いて」
の発表があった。
藤田亮策が適切に指摘するように、書物同好会員たちのバイブルは、前間恭作の『朝鮮の板本』であった。
「活字の実例を挙げての説明は極めて有意義であるばかりで、同一活字の年次を隔てての増鋳・改鋳を注目して、同じ種類の活字に数種の刊版あることを注意されたことは寔に尤なことで、多数の本の比較研究によって初めて知りうることである。鋳字の種類並びにその刊行に就いては、前間氏の本で大体尽くされている」(藤田亮策、第11号、10頁)
(3-5)ここで、筆者が強調したいのは、「不要不急」の学問の世界に書物同好会の皆が没頭していることである。その代表的な例が、朝鮮の「紙」研究であり、活字研究であるが、不要不急の事例は、
第1回例会:昭和12年5月5日:牧民心書と士小節:菊地謙譲
から始まり、最終回の
第63回例会:昭和18年11月26日:故奥平武彦氏追悼座談会
に至るまで、終始一貫していた(注5)。なるほど、例会の発表題目を子細に検討すると、唯一の例外として、第55回例会(昭和17年4月23日)では、当時満州にあった建国大学教授の森克巳氏による「異民族に国史を教えて」が語られたとあるが、実際には会の趣旨に即して「書物談義」であったという(田川孝三談)。
昭和6年9月18日に勃発した満州事変、昭和12年7月7日の廬溝橋事件を契機とした日中戦争、そして昭和16年12月8日の大東亜戦争突入と言った時間は、我々の考察対象である京城の「書物同好会」の周辺では、如何に流れていただろうか。
周知のように、朝鮮総督府が韓半島で実施した「内鮮一体」、「内戦融和」、「皇国臣民化」、「創氏改名」、「神社参拝」、「朝鮮志願兵」、「内鮮結婚」、「勤労報国隊」などのスローガンは、当然に書物同好会のメンバーの耳に達していたはずである。
しかしながら、大東亜戦争開始直後の、真珠湾攻撃成功と賞賛し、高揚した戦意の世相の中において、人々は真珠湾攻撃の提灯行列で戦勝を祝福した中でも、粛々と会は開かれ、
第53回例会:昭和16年12月26日:朝鮮版『吏学指南』について:末松保和
が発表された。それは時局と迎合することを厳格に自戒するものであったし、書物同好会メンバー全員が、むしろ時局と一線を画する学問的良心を示しそうとしたのではないだろうか。
(3-6)前述したように、書物同好会の主役は藤田亮策であった。書物同好会が設立された1937年(昭和12年)当時、藤田は京城帝国大学法文学部朝鮮史学第1講座教授であった。慶州の金鈴塚・瑞鳳塚、平壌の楽浪古墳群、慶尚道の金海貝塚、中国東北部輯安の高句麗古墳群調査など韓国考古学史に残る著名な遺跡の発掘に直接従事し、考古学者として令名の高かった藤田であるが、一方で、「駱駝山房」の主人でもあった。「駱駝山房書屋展観目録」(『書物同好会会報』第10号、昭和15年)を一見すると判明するように、藤田の自宅は比類のない珍籍・秘籍の一大書屋であった。筆者は「駱駝山房書屋」目録の復元を試みたことがあるが、偶見した書目約120種だけでも「垂涎の的」である。この朝鮮本以外にも、和本にも触手を伸ばして、知るだけでも道中記や日本漢籍などの珍籍を所蔵しておいでであったという(田川孝三談)。周知のように、藤田は京城帝国大学教授として、同大学から出版された「李朝実録」景印事業に参画し(1929年)、あるいは海印寺蔵大蔵経関連資料調査の指揮を執った(1942年)。前間恭作や浅見倫太郎、今西龍らが帰国した後、1930年代~40年代日本統治期韓半島にあって藤田は書誌学の第一人者でもあった。
(3-7)さて、ここで我々の議論を整理したい。かって、日本統治期韓半島における日本人研究者に対する評価は、きわめて単純であった。「進んだ」欧米・日本と「遅れた」朝鮮という二元論的なスタンスで見て、すべての朝鮮文化、美術などを低く評価しかしない植民地主義の代弁者であると。その見方をとり続けた人々も存在したと認めた上で、藤田亮策のように、異国趣味的な「まなざし」を意識しつつ、朝鮮典籍の世界に身を潜めることで、朝鮮文化のアイデンティティーの追求を図った人間もいたと主張したい。それも戦時期の非常事態が宣言される中で、強圧的な皇国臣民化が押しつけられ、朝鮮の人々のみならず日本人の日常生活さえも窮乏するなかで、藤田亮策のみならず末松保和ら書物同好会の多くが朝鮮典籍に没頭することで、積極的に戦争に対する「非協力」な姿勢を示したと理解している。
京城帝国大学法文学部でも、鈴木武雄(経済学講座教授)のように、積極的に大東亜戦争を賛美し、その遂行に協力的であった教員も存在した(注6)。
鈴木武雄著『朝鮮の決戦態勢』、朝日新聞、1943年
鈴木武雄著『今日の朝鮮問題講座:大陸兵站基地論』第2巻、緑旗連盟刊、1940年
鈴木武雄だけはなく、法文学部の中にも奥平武彦・尾高朝雄・松本重彦のように大東亜戦争の煽動者もいた。たとえば、尾高朝雄の論は、極端であるが、以下に紹介をしておこう。
「李朝末期の政治的衰頽と、その必然の帰結たる韓国併合の大事実とによって隔てられた朝鮮の過去の歴史は所詮過去の歴史であって、将来に向っての創造発展の母胎とはならない。
~~(中略)~~いうまでもなく、半島の新文化運動は、日本文化を基礎とするものでなければならぬ。これは朝鮮が日本の大陸前進文化基地であり、また、半島民衆が大政翼賛の新鋭部隊たるべきことの当然の結果であるが、更に立ち入って考えるならば、日本文化がこれまで民情、習俗、伝統を異にして来た朝鮮半島に生きた根を下し得るということは、大陸に対する文化工作の試験台としてしかも日本文化の半島への移植培養は、日本固有の道徳思想の涵養に役立つばかりでなく、同時に広く東洋文化の源流に遡ぼる所以ともなるのである。」(「始政30周年、回顧と展望」(1)、『京城日報』1940年9月25日)
大東亜戦争中、京城帝国大学法文学部にあって、戦争にコミットし、戦場に学徒兵を送り出す教授が存在したとすれば、彼らはスターであり、しかも多くの賞賛を受けたに違いない。わが考察の対象である書物同好会の有力メンバーの一人である奥平武彦も、
「今や聖戦の目的完遂を期し、西南太平洋を含む東亜の再興により欧洲と呼応し世界新秩序の建設に努むるわが国が前途に直面すべき重大事局に、朝鮮は物心のすべてを捧げ国家総力戦の傘下に立たねばならぬ、去る五月十六日、紀元二千六百年奉祝使節として来朝のゴータ公が京城を訪れ、統治の治績、銃後官民の緊張に絶大の敬意を表明され、日独が協力一致、世界戦争を処理し困難なる局面打開に邁進すべきを説きたるは、含蓄多き言葉として、今猶吾人の耳底を打つものがある 」(『京城日報』1940年10月3日)
とまで断定した。慧眼な政治学者である奥平武彦がなにゆえに、「朝
鮮は物心のすべてを捧げ国家総力戦の傘下に立たねばならぬ」とま
で民衆を扇動しなくてはならなかったか思い悩むが、鈴木武雄や奥
平武彦などと厳然と「一線を画す」教授もいたはずである。たとえ
朝鮮典籍に惑溺する「現実逃避者」と嘲笑されようとも、あるいは
不要不急な典籍研究に没頭する「愚か者」と軽蔑されようとも、法
文学部内にあって、藤田亮策教授、末松保和助教授(共に朝鮮史第1
講座)らは、戦争を賛美する行動に背を向け、少なくとも戦場に学
生を送り出す協力者にならなかった。加えて、日鮮一体化運動など
「朝鮮色抹殺キャンペーン」が進行中にあって、それと逆行する「朝
鮮典籍」に注目し、その優れた価値を説き、ひいては朝鮮文化のア
イデンティティーをも論ずるほどに、藤田らの文化活動は展開され
た、たとえそれが小さな集まりの、小さな抵抗運動であろうとも。
第4章 まとめにかえて
さて、とかく「本好き」と言えば、「好事魔」の感があろう。「典籍研究」と言い換えても同様であろうが、藤田亮策の朝鮮典籍研究を考える上でも、韓半島に居住した植民者による「身勝手なエキゾチシズムによる一方的な関係性」や植民地主義への贖罪などの問題意識が欠落していることをもとに、非難を浴びることは容易である。
ところで、別稿に於いて、筆者は、大東亜戦争の敗色が濃い1944年2月、東京の帝国劇場で22日間のロングランされた「半島の舞姫」崔承喜Korean Dance公演を取り上げて、その不思議さを論じたことがある。『朝日新聞』記事紙面の99%が戦争一色で塗りつぶされているのに対して、なぜ「半島の舞姫」公演紹介記事が掲載されるのか、疑問に思うからである。仮説として、天皇賛美の日本ナショナリズムで塗りつぶされた日本にあって、マルキシズムとモダンイズムによる「朝鮮」へのまなざしが、崔承喜というコスモポリタンに注目した理由であると論じたことがある。
我々の議論が到達した処から見ると、戦時期の藤田亮策と崔承喜とが相補的な関係にあると云わざるを得ない。戦時期に、日鮮一体化運動・皇国臣民化運動を通して、「朝鮮色抹殺キャンペーン」が展開された韓半島植民地空間京城にあって、藤田は「朝鮮」へのまなざしを注ぐことで、朝鮮文化の独自性を高く評価しつつ、戦争への非協力的な態度を鮮明にした。一方、大政翼賛キャンペーンと治安維持法の網がしかれた東京で、朝鮮舞踊を演じ、朝鮮語でかけ声を掛け、白い朝鮮服を着用して、しかも皇居の目の前で崔承喜が朝鮮舞踊公演を行い、それを新聞報道することは、「朝鮮」へのまなざしを確認することで、戦争賛美への反対、民族抹殺への抵抗を意図した行動であったと理解したいからである。
藤田亮策と崔承喜には、興味深い類似点がある。それは二人とも、欧米巡遊の旅を経験していることである。藤田は1926年10月14日から1928年8月15日までの満1年10ヶ月間、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツを巡遊し、主に博物館を見学している。他方、崔承喜は1937年12月に欧米公演旅行に出発した。まずアメリカ大陸に渡ったのを契機に、ヨーロッパのフランス・スイス・イタリア・ドイツ・オランダ・ベルギー・フランス各国で巡回公演を続けた。さらにアメリカに戻り、ニューヨークを初めとして各地で公演を成功させて、その勢いでブラジル・ウルグアイ・アルゼンチン・ペルー・チリ・コロンビア・メキシコの南アメリカ各地で公演をおこなった。1940年12月5日に崔承喜は日本に帰着するが、それは大東亜戦争の開戦前の約1年前であった。
筆者は、藤田と崔承喜の二人を無理に「コスモポリタン」と定義づけるつもりはない。ただ当時の情勢から旅券が日本帝国政府発行であったために、「Sai Shoki」の名前で欧米公演を継続しなくてはならなかったにせよ、彼女が演じたのは朝鮮舞踊であった。
一方、京城帝国大学にあって、講座に所属する朝鮮人学生を対象に朝鮮史や朝鮮典籍を講義するとき、藤田亮策はたえず「朝鮮文化のアイデンティティー」を強調したという。その見解の一端が、書物同会会報に珠玉の文として記録されている。
かって、常日頃、書物同好会の月例会の席上、「朝鮮は朝鮮だよ」と藤田亮策は言っていたという(田川孝三談)。この口癖こそ、本稿が狙いとする「nation無きnationalism」を雄弁に語る口癖であると言えまいか。
回数 |
年月日 |
発表者 |
発表題目 |
場所 |
参加者 |
特記 |
1 |
昭和12年5月5日 |
菊地謙譲 |
牧民心書と士小節 |
青木堂 |
11名 |
創立総会 |
2 |
昭和12年6月11日 |
岡田貢 |
鋳字洞志を中心として |
京城電気 |
11名 |
|
3 |
昭和12年7月3日 |
鮎貝房之進 |
支那及び朝鮮の古活字に就いて |
明治製菓 |
15名 |
陶活字本『三略直解』(鮎貝氏蔵書) |
4 |
昭和12年8月13日 |
今村鞆 |
朝鮮印書の話 |
京城電気 |
13名 |
|
5 |
昭和12年9月3日 |
奥平武彦 |
穆麟徳のことども |
京城帝国大学 |
|
|
|
|
桜井義之 |
明治初期の朝鮮研究文献に就いて |
|
14名 |
|
6 |
昭和12年10月8日 |
末松保和 |
書物伝来の一例 |
京城帝国大学 |
13名 |
|
7 |
昭和12年11月12日 |
田中梅吉 |
日本における胎生期の独逸語学界 |
朝鮮逓信事業会館 |
15名 |
|
8 |
昭和12年12月10日 |
黒田幹一 |
新羅時代の金銀について |
朝鮮逓信事業会館 |
14名 |
|
9 |
昭和13年1月20日 |
三木栄 |
朝鮮の裁判医学 |
朝鮮逓信事業会館 |
16名 |
|
10 |
昭和13年2月18日 |
関野真吉 |
書物の各部分の名称について |
朝鮮逓信事業会館 |
10名 |
|
11 |
昭和13年3月11日 |
山野上長治朗 |
李朝末期の世相一瞥 |
朝鮮逓信事業会館 |
6名 |
|
12 |
昭和13年4月8日 |
片山隆三 |
世祖期より孝宗期に至る農法の変化の1部分 |
朝鮮逓信事業会館 |
記載ナシ |
|
13 |
昭和13年5月5日 |
田中豊蔵 |
書家印譜について |
朝鮮逓信事業会館 |
12名 |
|
14 |
昭和13年6月10日 |
鳥山喜一 |
乾隆時代の戦争画について |
京城電気 |
18名 |
|
15 |
昭和13年7月8日 |
田川孝三 |
事大使とその紀行録 |
京城電気 |
15名 |
|
16 |
昭和13年8月12日 |
座談会 |
朝鮮紙に関する座談会 |
京城電気 |
22名 |
|
17 |
昭和13年9月9日 |
飯島滋次郎 |
日本料理書について |
京城電気 |
15名 |
|
18 |
昭和13年10月6日 |
小倉進平 |
朝鮮における韻書と玉篇との関係 |
朝鮮逓信事業会館 |
17名 |
|
19 |
昭和13年11月4日 |
末松保和 |
八域誌について |
武者錬三宅 |
25名 |
|
20 |
昭和13年12月9日 |
藤田亮策 |
順天松広寺の所蔵本について |
朝鮮逓信事業会館 |
20名 |
|
21 |
昭和14年1月20日 |
瀬戸潔 |
浮世絵版画の鑑賞 |
朝鮮逓信事業会館 |
記載ナシ |
|
22 |
昭和14年2月24日 |
高橋亨 |
近頃見た3つの朝鮮本について |
朝鮮逓信事業会館 |
記載ナシ |
|
23 |
昭和14年3月10日 |
桜井義之 |
大東合邦論とその著者 |
朝鮮逓信事業会館 |
記載ナシ |
|
24 |
昭和14年4月21日 |
座談会 |
朝鮮本の挿絵について |
朝鮮逓信事業会館 |
16名 |
安部能成の出席あり |
25 |
昭和14年5月12日 |
奥平武彦 |
三綱行実図について |
京城電気 |
13名 |
|
26 |
昭和14年6月9日 |
田中豊蔵 |
図絵宝鑑の諸版について |
京城電気 |
24名 |
|
27 |
昭和14年7月21日 |
黒田幹一 |
古銭と泉書 |
京城電気 |
17名 |
|
28 |
昭和14年8月25日 |
末松保和 |
甲辰活字について |
京城帝国大学 |
14名 |
|
29 |
昭和14年9月22日 |
佐藤清 |
ブレークの挿絵に就いて |
京城帝国大学 |
10名 |
田川孝三による満州所在の朝鮮史関係資料採訪談あり |
30 |
昭和14年10月27日 |
藤田亮策 |
高麗朝の歴代実録について |
京城電気 |
16名 |
|
31 |
昭和14年11月24日 |
今村鞆 |
書物漫談 |
京城電気 |
12名 |
|
32 |
昭和14年12月13日 |
岸謙 |
朝鮮における灯火史料について |
京城電気 |
17名 |
|
33 |
昭和15年1月19日 |
藤田亮策・末松保和 |
対馬旅行談 |
京城電気 |
15名 |
|
34 |
昭和15年2月16日 |
大口義夫 |
朝鮮における新聞の発達 |
京城電気 |
14名 |
|
35 |
昭和15年3月21日 |
座談会 |
朝鮮蔵書印に関する座談会 |
京城電気 |
記載ナシ |
|
36 |
昭和15年4月26日 |
奥平武彦 |
満支旅行偶感 |
京城電気 |
15名 |
|
|
|
片山隆三 |
農家集成付録『救荒撮要』について |
|
|
|
37 |
昭和15年5月26日 |
水原見学旅行 |
|
|
13名 |
|
38 |
昭和15年6月21日 |
田川孝三 |
対馬通詞小田幾五郎と其の著書 |
京城帝国大学 |
14名 |
|
39 |
昭和15年7月26日 |
橋川時雄 |
支那の典籍から見た朝鮮の典籍 |
朝鮮逓信事業会館 |
16名 |
|
40 |
昭和15年8月4日 |
田中敬 |
読み物の綴り方と其の用語の変遷について |
京城電気 |
18名 |
|
41 |
昭和15年9月13日 |
座談会 |
今村鞆先生を囲む座談会 |
朝鮮逓信事業会館 |
17名 |
|
42 |
昭和15年10月29日 |
藤田亮策所蔵本展観 |
|
藤田亮策宅 |
14名 |
12種の類本展観 |
43 |
昭和15年11月29日 |
田川孝三 |
江原道地方史料採訪談 |
朝鮮逓信事業会館 |
9名 |
|
|
|
関野真吉 |
北陸地方の特別集書 |
朝鮮逓信事業会館 |
|
|
44 |
昭和15年12月18日 |
滝川政次郎 |
支那の法律典籍について |
朝鮮逓信事業会館 |
16名 |
|
45 |
昭和16年1月28日 |
末松保和 |
文献という言葉について |
朝鮮逓信事業会館 |
9名 |
|
46 |
昭和16年2月28日 |
桜井義之 |
佐田白芽の人と事業 |
朝鮮逓信事業会館 |
18名 |
|
47 |
昭和16年3月28日 |
増田道義 |
諸家の朝鮮観 |
朝鮮逓信事業会館 |
8名 |
|
48 |
昭和16年4月30日 |
高橋亨博士蒐集朝鮮仏教関係典籍を観る会 |
|
京城帝国大学 |
9名 |
|
49 |
昭和16年5月30日 |
1本持寄り談話会 |
|
朝鮮逓信事業会館 |
9名 |
田川孝三「東経大全」、奥平武彦「三綱行実」、三木栄「歴代名医伝」など |
50 |
昭和16年9月19日 |
熊谷宣夫 |
雪舟画に対する朝鮮人の着賛 |
京城電気 |
10名 |
|
51 |
昭和16年10月24日 |
桜井義之 |
明治期より近年に至る朝鮮研究の機関と其の事業 |
京城電気 |
9名 |
|
52 |
昭和16年11月21日 |
矢崎美盛 |
聖母マリや伝絵画の典拠 |
京城電気 |
13名 |
|
|
昭和16年12月26日 |
末松保和 |
朝鮮版『吏学指南』について |
朝鮮逓信事業会館 |
5名 |
|
54 |
昭和17年1月30日 |
前間恭作氏追悼座談会 |
|
京城電気 |
13名 |
|
55 |
昭和17年4月23日 |
田川孝三 |
金沢栄とその著書 |
京城電気 |
19名 |
|
|
|
森克巳 |
異民族に国史を教えて |
|
|
|
56 |
昭和17年5月29日 |
今村鞆 |
朝鮮人の文集について |
京城電気 |
12名 |
|
57 |
昭和17年6月30日 |
阿部吉雄 |
小学本註の復元に就いて |
京城電気 |
17名 |
|
58 |
昭和17年8月10日 |
架蔵持参座談会 |
|
京城電気 |
8名 |
|
59 |
昭和17年9月26日 |
鮎貝房之進先生喜寿祝賀座談会 |
|
朝鮮逓信事業会館 |
記載ナシ |
|
60 |
昭和18年1月9日 |
武者錬三氏送別30年の昔を語る座談会 |
|
丁字屋社交室 |
記載ナシ |
(京城帝大寄贈) |
61 |
昭和18年2月19日 |
故今村鞆氏追悼座談会 |
|
京城電気 |
14名 |
|
62 |
昭和18年10月13日 |
大間知篤三 |
ダフール族の生活・宗教 |
京城電気 |
15名 |
|
63 |
昭和18年11月26日 |
故奥平武彦氏追悼座談会 |
|
京城電気 |
14名 |
|
1.
0 件のコメント:
コメントを投稿