2022年7月17日日曜日

対馬市厳原町・醴泉院における史料調査―

 

 

史料調査後記

―対馬市厳原町・醴泉院における史料調査―

 

 

松原孝俊、崔相振、山口華代

 

 

 

1.はじめに

 この研究ノートは、20061111日・12日の両日にわたって、対馬市厳原町の醴泉院(れいせんいん)にて実施した史料調査の記録である。

醴泉院は、対馬藩の城下であった府中に位置しており、由緒ある寺院のひとつである。くわえて、対馬の郷土史研究の発展に尽力した安藤良俊氏が長年住持をつとめていた寺院でもある。

安藤良俊氏については後で詳しく述べるが、民俗学者・宮本常一とも親交をもち、戦後の対馬研究を語るに欠かせない人物である。しかし、残念ながら、2005年(6月)にお亡くなりになられた。現在はご子息の安藤徳明氏が跡を継ぎ、醴泉院を管理している。

ここで問題となってくるのは、安藤良俊氏が蒐集・保管していた、古文書や文献等の所在についてである。安藤徳明氏によれば、そうした史料はすべて父親が管理していたため、今となっては、どういった史料がどこに保管されているのか、分からないという。史料保全の観点からいえば、安藤良俊氏が醴泉院に蒐集・保存していた史料の所在を確認するとともに、史料1点ごとに詳細な記録をとり、目録にまとめる基礎的作業は急務といえる。

そこで、われわれ九州大学松原ゼミが、醴泉院原蔵の史料群の整理・調査を引き受けるにいたった。ただし、調査期間に2日しかあてることができず、今回は、完成された目録を作成するための仮調査とならざるをえなかった。断わっておくが、今回の調査対象である史料は、醴泉院の寺院史料というよりも、長年にわたって対馬の郷土史研究にたずさわった安藤良俊氏が蒐集した史料群であり、その点で価値をもつものである。

以上のことをふまえ、史料調査の過程と、その調査成果についての分析をまとめた。

 

 

 

1    調査概要

1.1   調査対象について

ここでは今回の調査対象となる醴泉院の来歴と、そこで住持を務められていた安藤良俊氏について記しておきたい。

瑞松山醴泉院は天台宗寺院である。対馬市厳原町大字天道茂に位置する。醴泉院に関しては、19世紀初頭に、対馬藩士の平山東山[1](当時、郡奉行)の手によってまとめられた『津島紀事』に詳しい。[2]

 それによると、醴泉院の寺地は、もともと万松院[3]の西丘にあたる金石にあり、国分寺の堂頭である天叟殊堯を住持としていた。縁起では、松尾次郎左衛門親吉が創建し、自らの末子を僧とするも意に沿わず、およそ60有余年は看坊[4]を置いていた。のちに、国分寺中興の四世傳室慶珍に請い仮の開山とした。文禄年間に現在地である后山(うしろやま)の麓に移ったという。龍源院を廃寺とし、醴泉院に併合して国分寺の末寺となったが、万松院の初代住持である圓純法印が筑後高良山より対馬に到来したとき、この寺に圓純法印を仮に住まわせた。法院はそののち万松院に移ったが、老年に及んだときに醴泉院に退いた。その後、醴泉院は天台宗となり万松院の末寺となった。[5]

 一方、「はじめに」でもふれたように、対馬郷土史研究の発展に尽力された安藤良俊氏は、1926年生まれで豊玉町()のご出身である。なかでも民俗学者の宮本常一[6]との親交が深かったことは特筆すべきである。宮本が、昭和25年(1950)の八学会連合による対馬調査に同行した時に[7]、当時梅野豊禅と名乗り観音寺の住職をされていた良俊氏とはじめて出会ったのをきっかけに、二人の親交がはじまる。以後も長年にわたって、対馬在住者の立場から有益な情報を提供されている。

 

 

2.調査概要

2.1調査方針

われわれは、醴泉院原蔵史料の悉皆調査を目的に、以下の方針をたて史料整理作業を進めた。

 ①醴泉院が保管している史料の現状を確認する。

②史料の保全および管理のために史料番号を付け整理をおこなう。

 ③史料目録を作成する。

 ④これまで実施された醴泉院における史料調査成果をもとに所在確認をおこなう。

 

2.2調査日程

日 時 20061111日(土)・12日(日) 計2日間

場 所 醴泉院(長崎県対馬市厳原町)

 調査者 松原孝俊(九州大学韓国研究センター教授)

山口華代(九州大学大学院生)

崔相振(九州大学大学院生)

 

2.3調査記録

1日目

午前10時に醴泉院を訪問し、同院の住持である安藤徳明氏にお会いする。面談の時間をいただき、今回の史料調査の意義・目的や調査の方法などについてご説明申し上げた。

そのあと、安藤良俊氏が生前に郷土研究で使用された古文書や資料をおさめているという書庫に案内していただく。書庫には壁際に本棚が並び、書籍(含小説・雑誌)や自筆のノート・書類、個人的な写真などが保管されていた。それらの状態をみるに、特別な分類や資料配置上の整理がおこなわれているわけではなく、使用されていた当時のままの状態であったかと思われる。それにくわえて、和本や古文書もかなりの点数を確認することができた。ただし、書庫内は長期間放置されていたためか埃がひどくカビ臭も強いという、史料保存の観点からみて、あまり好ましい保存環境ではなかった。そうしたことを確認したうえで、和本・古文書類を中心に史料の搬出作業を開始した。[8]徳明氏のご厚意により、10畳敷ほどの座敷を調査・整理作業として使用することを快く承諾していただいた。また、現状の記録や作業状況など調査の全貌を記録することにもご理解をいただくとともに、必要な範囲でデジタルカメラでの写真撮影の許可もいただいた。

 さて、作業場所である座敷へ史料を運び出し見渡してみると、座敷が埋まるほどの点数となった。あらためて、良俊氏が郷土史研究と史料の蒐集に尽力されたことを痛感せずにはいられなかった。この時点でわれわれが目算した限りで、和本・古文書類・ダンボール箱(古文書入り)2つ、原稿や書類、その他、と類別できた。

次に、史料を形態ごとに大別する“荒仕分け”の作業をおこなった。和本などの「冊子物」と、覚書や証文等の「一紙物」の二つに大きく分け、さらにそれぞれを同一本あるいは種類ごとに分類する。なかでも和本は点数も多く、しかも同一本であってもばらばらな状態であったので、いざ取り掛かってみると作業は難航し、予想以上の時間を費やしてしまった。

大半の史料を分類したところで、史料一点ごとに連番で史料番号をつける作業を開始した。作業時間も限られているためラベルを貼り付けるのではなく、あらかじめ準備してきた番号札(短冊型の紙片に番号を記入したもの)を史料に挟みこむ方式を採用した。番号札を挿入できない形態の史料の場合は、持参した封筒に番号を記入したうえで保管することとした。

 番号付けの作業を終えると、いよいよ目録化作業の基本となる仮目録の作成にとりかかる。われわれが用意した仮目録カードは必要な情報を表題・作成年代・作成者・備考の4項目にしぼった簡易なものとした。われわれは史料を手分けして、史料番号の順に記録をとっていった。史料全体の約半数の記録をとり終えたところで、一日目の作業は終了した。

 

~2日目~

前日の作業で目録カードに記録をとることのできなかった一紙もの・写本類にとりかかる。

この日懸案となったのが、書庫から搬出した史料のなかでも、安藤良俊氏の手によると思われる自筆原稿、史料のモノクロコピー等の処遇についてである。前日に記録をとった前近代の史料(いわゆる古文書)とは性格の異なるものであり、同一の史料群に入れてしまうべきか判断に迷った。しかし、良俊氏が対馬研究に果たした役割の大きさから考えて、整理の対象とする方針をとった。

 追加分の史料に番号を付け、目録化の作業が終わると、次にこれら史料を保管する書庫の片付けにとりかかった。ここでは安藤徳明氏にもお手伝いいただきながら、書庫内の書籍・書類を一箇所にまとめるとともに、あわせて書庫内の清掃もおこなった。保管に充分な空間も確保されると、座敷に出していた史料をすべて書庫に運び入れた。

およそ一時間程度で書庫の清掃および史料の再搬入の作業を終え、以上で2日間にわたる史料調査の全日程を終了した。

 

~後 日~

○データの整理作業

調査で記録をとった目録カードをExcel形式でデータ入力し、全体の体裁を整えたうえで史料調査目録とする。同時にデジタルカメラにて撮影した画像も整理をおこなった。史料群については「醴泉院原蔵文書」と名づけた。

 

○現存史料の確認

今回の史料調査を通じて作成された目録をもとに、現在の醴泉院には実際にどのような種類・性格の史料が所蔵されていたのかを把握する。また、国士舘大学による調査時に確認された史料との比較をおこなった。これは田代和生氏作成の『対馬古文書目録』をもとに作業にあたった。

 

 

3.「醴泉院原蔵文書」の概要

ここでは整理および目録化の作業をうけて明らかになった「醴泉院原蔵文書」の全体像と、なかでも注目される史料を紹介したい。

3.1「醴泉院原像文書」の全体像

 史料の総点数は246点。顕著な特徴として、総点数のうちおよそ半数が木版本や写本などの書籍で占めていることがあげられる。「観音義疏記会」や「天台四教儀」など仏教書が多いのは、天台宗寺院であることに由来するものである。また、「論語」・「孟子」などの儒教・経書もついで多く、そのほかに「十八史略」など中国の史書もみうけられる。歴史研究の対象となるいわゆる古文書は段ボール箱2つにおさめられた「佐藤家文書」が注目すべきものである。(詳細については次項に譲りたい)

 

 

3.2史料紹介

A佐藤家文書(田代関係)

「佐藤家 田代文書」とマジックで表書きされた段ボール箱二箱におさめられていたもの。(【写真】参照)便宜上、「段ボール①」(№47~№67一括)、「段ボール②」(№146191一括)として整理しており、総点数65点にのぼる。

 この史料は幕末の田代領で副代官をつとめた佐藤恒右衛門の書き留めたものである。江戸時代、対馬にて藩政を布いた対馬藩は本島以外にも徳川幕府より領地(飛び地)を有しており、なかでも肥前国基肄郡と養父郡一部にあたる田代領(現在の佐賀県基山町と鳥栖市の一部)は表高一万石余りの知行地であった。米穀生産がほとんど見込めず朝鮮からの輸入米に頼っていた対馬藩にとって、田代領は藩財政を支えていたといって過言ではない。その経済的要地である田代領に副代官として赴任し、詳細な記録がこれである。史料の一部は『鳥栖市誌』資料編のなかで『佐藤恒右衛門日記』・『続佐藤恒右衛門日記』として翻刻・紹介されている。佐藤家は醴泉院を菩提寺としていた関係から、家蔵の史料を醴泉院に預けていたと解題にはある。[9]

 

B)陶山訥庵著作の写本

「表具屋阿比留さんよりの預り書写本/15冊」と書かれた紙片とともにビニール紐で一括された状態で保管されていた写本15点。(史料№192206)いずれの表紙も柿渋で塗られており、形態および筆跡の類似性からみても、出所が同一である可能性が高い。

  注目すべきは、対馬藩の儒者で「対馬聖人」として知られている陶山訥庵(すやまとつあん)[10]の著作が多くを占めている点である。『受益談』・『農政問答』・『財用回答』・『老農類語』など農政に関するものが多い。[11]密貿易の弊害および対策に関する意見書である『潜商犯人裁許議論』も確認できる。

 

(C)絵葉書

いわゆる古文書ではないが、およそ250枚にもおよぶ大量の絵葉書が発見されたのでここで紹介しておきたい。いずれも未使用のもので、良俊氏が蒐集したものではないかと考えられる。絵葉書の題材は各地の代表的な建物や名所・旧跡の写真であり、その内容内訳は【表1】の通りである。

テキスト ボックス: 【表1】絵葉書(史料番号242)の内訳
絵柄の場所	枚 数 
日本関係	200
対馬関係	3
朝鮮関係	27
満洲関係	25





日本関係のもの(うち3枚は対馬)が群を抜いて点数が多い。それについで、朝鮮関係・満州関係ものが確認できる。安藤徳明氏の話によれば、良俊氏は満洲に渡った経験もあり、その時に記念として集めたのではないかとのことである。

 

4.おわりに

最後に、今回の醴泉院原蔵の史料整理・調査で判明したこと、および今後の課題についてまとめておきたい。

これまで書庫に保管されたままであった安藤良俊氏の収集史料を悉皆調査するという当初かかげた目標は達成することができた。特に個人宅で所蔵されている史料の場合では、一家の当主だけが史料を管理するケースが多く、それゆえに所有者が代替わりしてしまうと、史料をどのように保存すればよいのか分からず、散逸してしまうといった最悪の事態を招くことは決して少なくない。一点ごとに番号を付し史料を把握していくことが、史料群の全体像の把握や将来にわたっての史料保管のための基礎的かつ重要な作業であることを改めて認識するにいたった。ただし、期間がたった2日間という限られた時間であり、あくまでも仮整理の段階であることを再度記しておきたい。

また、醴泉院所蔵の古文書は未見の史料群ではない。1960年代に国士舘大学による対馬全島を対象とした古文書調査がおこなわれときに、醴泉院も調査対象となっている。また、同時期の県立長崎図書館による古文書採訪においても、調査がおこなわれた。いずれの調査においても、マイクロフィルムによる撮影がおこなわれ、研究活動に資するため、広く一般にも公開されている。これらの調査結果との比較・検討もおこなっていく必要がある。

最後になったが、安藤徳明氏にはたいへんお忙しいなか、われわれ調査隊による史料調査を受け入れ、また作業場所に座敷を提供していただくなど多大なるご高恩に預かった。記して感謝申し上げたい。

 

【参考文献】

平山東山著・鈴木棠三編『津島紀事』(対馬叢書 24、東京堂出版、19721973)

宮本常一『私の日本地図15 壱岐・対馬紀行』(同友館、1976年)



[1] 名、次郎左衛門。当時、郡奉行。

[2]文化3年(1806)、対馬にて朝鮮からの通信使を迎える準備のために来島した幕府役人・土屋帯刀によって、対馬の地理・歴史をまとめた書物の編纂が命じられる。文化6年(1809)一二月一三日、全一二巻で成る。

[3]対馬藩主宗家の菩提寺。第20代対馬当主である宗義成が元和元年(1615)に父・義智の菩提を弔うために創建した。寺名は義智の法号「万松院」からとったもの。歴代藩主および一族の墓が荘厳に並んでいる。国指定記念物・史跡。

[4]禅宗の寺院で、留守居または後見をする僧。

[5]『對馬島誌』(1928年)532頁。同書でも『津島紀事』の記述にそって醴泉院を紹介している。

[6]1907年~1981年。山口県周防大島生まれ。日本を代表する民俗学者。戦前から高度成長期にかけて日本各地を踏査しつづけた。『忘れられた日本人』(岩波書店)など多数の著作をのこしている。

[7] 宮本常一『私の日本地図15 壱岐・対馬紀行』(同友館、1976年)。

[8] なお、今回の調査目的は醴泉院に原蔵されている史料の所在確認とその基礎的な目録の作成であるので、専門書・雑誌・論文抜刷・小説・天台宗関係の書類・良俊氏個人の書類などは調査対象からは除外している。

[9]『佐藤恒右衛門日記』・『続佐藤恒右衛門日記』(鳥栖市誌編纂委員会編『鳥栖市誌資料編』56集、20032004年)。

[10] 16571732年。対馬厳原生まれ。木下順庵の門下に入り修学。同門であった雨森芳洲の推薦をうけて、対馬藩に出仕するようになる。郡奉行に就任し、対馬島の猪鹿駆除や農政の発展に尽力した。

[11]表紙には複数の表題が併記されていたが、今回は作業時間の都合上おおまかな記録しかとることができなかった

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