2024年9月8日日曜日

布施明ーー「布施」氏の由来に関する仮説

 我々の世代、つまり1970年代に活躍した布施明。「霧の摩周湖」や「シクラメンのかほり」などは我が愛唱歌であった。布施明の本名を知ることはないが、「布施」氏に関しては、一つの持説を紹介したい。

結論から言えば、それは古代日本に設置された「布施屋」の「屋」が脱落した語形と考えたい。古代交通の要衝に設置された民衆のための施設であった。

それは分かっているという博雅の士もおいでであろう。大阪府東大阪市布施駅、つまり近鉄大阪線と奈良線の交差する駅を思い出すだけで、すべてがイメージできるというに違いない。確かにその通りである。


以下は、吹田市立博物館のHPに記載された記事である。

古代の吹田と寺社|吹田市公式ウェブサイト (city.suita.osaka.jp)

古代の吹田と行基

地図:摂津国

行基は、人々のために池・溝を掘り田畑の開墾をたすけ、川に橋をかけ、各地に旅人たちが休息するための布施屋をつくり、運河を掘り、難波京を中心とした交通体系の整備を行いました。吹田周辺では、次田(吹田)堀川・垂水布施屋などの運河や旅人たちの休息所が造られました。この辺りが京や西国に通じる交通の要衝(ようしょう)であったことがわかります。また市内には行基の開創を伝える寺院がいくつか残り、現在にまでその活動の大きさを物語っています。

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さて、本論はこれからである。





2024年9月1日日曜日

大仏開眼会の際に聖武天皇が着用した靴は、百済手部の職人たち

 古代朝廷で使用される靴履などは、中務省内蔵寮で製作された。

「典履2人(掌下縫作靴履鞍具、及検校百済手部)、百済手部十人(掌縫作事)」

とあり、百済手部10人の職人が天皇らの靴履鞍などを製作したとある。

 その製作場所は「左京六戸、紀伊四戸」(古記)により、二か所であった。

ところで、その靴履の原材料は、

(1)丹波国 「御履牛皮弐張、充直稲壱伯玖拾束」(丹波国正税帳)

(2)周防国 「交易御履料牛皮弐領価稲壱伯七拾束」(周防国正税帳)

(3)駿河国 「御履皮弐張直稲弐伯玖拾束」(駿河国正税帳)

などから提供された。この職人集団が形成された時期も、また解散した時期も不明であるが、天皇をはじめとする宮廷において、朝鮮半島流のファッションで製作された靴履鞍を使用していた。

 なお、正倉院所蔵の衲御礼履などが百済手部によって製作されたと推定している。

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衲御礼履 - 正倉院 (kunaicho.go.jp)

衲御礼履

のうのごらいり

用途 : 服飾品
技法 : 皮革
倉番 : 南倉 66
寸法 : 長31.5 高12.5 爪先幅14.5
材質・技法 : 赤染革 彩色(白) 金線 飾金具は銀台鍍金 真珠・色ガラス・水晶を嵌入 底敷は表裏とも白綾 藺むしろの芯
つま先が反り上がった、鼻高履とも呼ばれる浅型の靴。赤く染めた牛革製で、小口を白く塗り、金線で縁取りし、珠玉を嵌めた花形金具で飾る。天平勝宝4年(752)の大仏開眼会の際に聖武天皇が着用したものと考えられる。



参考文献

竹之内昭(元北海道大学農学研究科)著「古代の皮革」 

157_2.pdf (tokyo.lg.jp)






表1 皮および革の熱収縮温度

皮の種類

熱収縮温度(℃)

革の種類

熱収縮温度(℃)

牛皮(カーフ)

63~65

クロム

77~120

牛皮(成牛)

65~67

ジルコニウム

75~97