2017年12月4日月曜日

「朝鮮本の和刻(未完)」

朝鮮本の和刻(未完)」


*『禅家亀鑑』ーー寛永15年(1638)
 *『詩人玉屑』(永享十一年、朝鮮の清州牧刊行本)ーー寛永16年(1639)
*『神応経』ーー正保2年版(1645)。内閣文庫蔵。尾崎雅嘉の『群書一覧』第五冊「医書類」の部参考のこと。
*『鷹鵲方』ーー『経籍答問』には、「享保中御官刻」とあるが、未見。
*『延平答問』ーー正保4年(1647)
*『心経付注』ーー正保4年(1647)
*『入学図説』ーー慶安元年(1648)ーー内閣文庫蔵。李丙トウ氏「権陽村の入学図説について」『東洋学報』17-4参照のこと。
*『聖学十図並封事』ーー承応4年(1655)
*『朱子書節要』ーー明暦2年(1656)
*『易学啓蒙伝疑』ーー明暦3年(1657)ーー内閣文庫4巻本
*『小学集成』ーー万治元年(1658)ーー内閣文庫蔵。
*『撃蒙要訣』ーー万治元年(1658)ーー「京都田中清左衛門刊行」。内閣文庫蔵。
*『金鰲新話』ーー万治3年(1661)
*『朱子行状』ーー寛文5年(1665)
*『自省録』ーー 寛文5年(1665)ーー「元禄5年(1692)洛陽書林印行広益書籍目録」に「自省録一巻、退渓作、鵜飼石斎點」とあり、内閣文庫蔵。
*『朱子年譜』ーー寛文6年(1666)
*『夙興夜寝箴』ーー寛文6年(1666)
*『東国通鑑』ーー寛文7年(1667)ーー京都松柏堂刊、朝鮮総督府図書館旧蔵
*『西銘講義』ーー  寛文8年(1668)ーー内閣文庫蔵。
 *『七先生賛』ーー 寛文9年(1669)
*『円鑑国師詩■(ニンベン+曷)』ーー延宝8年(1680)
*『東人詩話』ーー貞享年間(1685-1687)『日本詩話叢書』第五巻収録。
*『天臺四教義』ーー元禄6年(1693)
*『諸宗教蔵總録』ーー元禄6年(1693)
*『懲ヒ録』ーー元禄8年(1695)
*『賢首国師碑伝』ーー元禄12年(1699)
*『一切教音義』ーー元文年間(1736-1740)
*『東医宝鑑』ーー享保8年(1723)ーー内閣文庫
*『続一切教音義』ーー延享3年(1746)
*『官版文章軌範』ーー文政元年(1818)
*『隠峰野史別録』ーー嘉永2年(1848)ーーソウル大学校蔵。
*『大乗荘厳教』ーー刊記なし
*『諸乗法数』ーー刊記なし
*『仏祖三教』ーー刊記なし
*『法華霊験伝』ーー刊記なし
*『新編集成馬医方付牛医方』ーー刊記なし。内閣文庫蔵。

*『百聯妙解』ーー京都大学図書館蔵。刊年未詳。

前間恭作先生

「前間恭作先生の日記――」

第一章
九州大学は通称「前間文庫」を架蔵している。周知の事実であるが、生前に前間先生は朝鮮本の大半を東洋文庫に寄贈なさった。その後、数度にわたり前間恭作先生のご遺族から九州大学に寄贈された資料群がある。いずれもご逝去の直前まで先生の書斎にあった愛蔵品である。その中に恭作先生の日記「玄界庵日記」(2巻)がある。名著『古鮮冊譜』(東洋文庫)で著名なように、希代のメモ魔である前間先生の面目躍如と言えるほどの几帳面さが覗われる。冒頭「はしがき」は、豊臣方であった前間家の来歴から、対馬への移住、そして廃藩置県後の自らの履歴を語るが、すでに末松保和先生の好論があるので、ここでは略してもかまわないだろう。
日記は明治1921日から始まる。その日の記事は「睡眠八時間」の5文字のみ。24日の欄に「此日太陰暦元日に当る」とあるので、日記は太陽暦で進む。毎日はその日の勉強量を記録し、例えば「代数四頁、外史1冊」(2月9日条)など。その月末には、「代数合計九十五頁、一日平均3.39頁、第4合計7頁、一日平均0.25頁、睡眠一日平均七時間六十分、睡眠合計二百十三時間、入費合計三拾銭」など綿密なデータを提示する。毎月末である。淡々と日々の読書と書翰の来着などを記載するが、「父公判無罪放免の言渡さるを知る」(明治19610日)とあり、この時分、父の訴訟騒動に心静かではなかったようだ。丁寧に「判決文」をも収録している。21日の「スマイル氏自助論三頁」(明治1921日)が初見にして、当時のベストセラー斯邁爾斯(スマイルス)著『西国立志編原名・自助論』全8冊、中村正直訳」を読み始め、その年の12月に至る。勤勉な勉強ぶりだが、途中の3月に入り、「膝栗毛」を拾い読みした。年末の欄には、一年間の収支を記す。明治20年に入っても同様に勤勉実直な日々が続くが、この年から細字にて日々の家計簿を付け始める。読書の主は法律書であるが、11月だけは「里見八犬伝」の月であった。なお、前間先生は毎年の日記で「明治○○年一身上事故大要」を記して、その年を振り返える。明治二十一年に入ると、その年の222日条に「辞表ヲ出ス」とあり、日記には明記されていないが、大分始審裁判所の雇として生計を立てていた。いよいよ東上する。明治21年3月6日条からである。その当時の居所は大分。別府港から大阪行きの船に上船し、311日に大阪に上陸す。徒歩と汽車にて、322日午後5時に東京新橋に辿り着く。この東海道中の紹介も興味深いが割愛する。上京の目的は慶應義塾入試にあった。49日は、その入試日。試験科目は「万国史ヲ読マセタリ」とあり、英語1科目であったが、慶應義塾は即断即決で、前間先生の「予科1番の2」(12組)編入を許可した。というのも、その翌日の欄に「当日より共に慶應義塾に通学、課業七時半ヨリ11時迄」とある。教科書は「ロスコー化学、コックス文典、ヘスウェストン歴史及トドハンタル代数」であった。そして面白いことに編入を許されてから6日後の416日には「当日ヨリ19日迄共に慶應義塾期末試験」とある。51日から予科2年に進級する。慶應義塾予科の講義では生理学の講義が苦手であったらしいが、毎日、対馬人との交遊に明け暮れる。明治211224日条には試験問題「我国ヲ如何せば東洋ノ英国タラシメ得ベキ乎」が載るが、それに対する先生の解答はなし。日記を見る限り、とにかく実直な2年生であったようだ。特記事項は12月に入り、日本古典の「伊勢物語」「源氏物語」「狭衣物語」などの読破ぐらいである。さて明治2251日に、3年に進級する。その年の教科書は「テリー法律原論、ヘスチング伝(松原註:マッコーレー著か?)、ロックス第1文学論、ウイルソン幾何学」であった。この年の重大事件は熱病で923日から赤十字病院に入院し、1025日に退院するまで病魔が襲ったことである。翌明治23年は勉学に勤しむ前間先生の日々は安泰そのものであった。ここで第1冊目が終了する。

第二章                                                                          
 2冊は、明治2411日から始まる。慶應義塾卒業後にいかなる進路に進むべきかを考え始めた前間先生は、対馬に生まれ、中学時代に学んだ朝鮮語運用能力の活用を思いついたのか、その年の123日から「室田ヲ外務省ニ訪ヒ面会ス」とあり、また「小田ノ紹介ニテ朝鮮公使館訳官金洛駿氏ニ初回ス」(213日条)、とか「朝鮮公使館ヲ訪ヒ」(218日条)の記事が散見される。同年727日に「外務省人事課に願書出ス、試験ノ通知ハ三日内ニアルベシ、翻訳位ナリトイフ」とあるが、その保証人が「田中義一」であった。前間先生とて、その外務省試験に自信がなかったからか、「夜、戸田紹介ニシテ松平頼綱を訪フ、宝田ニ留学生ノ事等合セ頼ミテ帰セシ」(同年81日条)とある。松平の力は絶大であったようで、「松平ヨリ宝田ガ依頼ノ事談ニアリ、志願者多キ故、一応ハ試験ノミニテハ覚束ナカルベシカヲ充分ニ尽力スベシトノ談アリシ由」(同年89日条)とあるが、その翌日には「外務省ヨリ御用召アリ明日十一時」(同年810日条)との通知があった。ここからがスピードが速く、現代では想像もつかないが、「午前十時外務省出頭、留学生ヲ命ズ、但シ京城に留学スベシ、学資金三百円ヲ給ス」(同年811日条)とあり、すべてお膳立てがついていたのではないかを疑う程である。朝鮮への出発は111日。「午前八時汽車ニテ朝鮮京城出発、田中義一・松平頼綱・小田久太郎汽車場迄見送ル」とある。そこから横浜港で「和歌の浦丸」に上船し、神戸・下関。長崎・対馬を経由して、119日に釜山に到着する。12日に仁川にて下船。翌13日に京城の地を踏む。「午前7時出発、陸上にて午後5時入京、即夜、梶山・竹田訪問、山之内に宿泊す。馬代1625毛、渡3銭、中食20銭、草履18銭」の記述あり。

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 入京後、1週間ほどは京城市内を散策しながら、生活のセットアップに努める。それだけに注目されるのは当時の生活用品の価格。メモ魔前間の真骨頂と言えようが、とにかく細かく価格の記載あり、風俗史研究の好適な資料とならん。
 さて目的の朝鮮語学習は1123日から始まる。「国分ヲ訪ヒ朝鮮教師頼ム」(1123日条)とあり、翌日、「朝ハ在宅午後朝鮮教師兪炳文氏に初面、月謝3円ニテ明日ヨリ受業ノコトニ取定メ、朝鮮町ニ借家ヲ得タリ、夜、岡倉氏ヲ訪ヒグリブ之朝鮮及文籍彙ヲ借用ス」(1124日条)とある。この岡倉氏とは「岡倉由三郎」であり、岡倉天心の実弟にして、明治24年(1891)当時、官立(韓国政府)日語学校の教諭、東京帝国大学言語学科選科卒。韓国語教材は「興夫伝」(1125日条)であり、朝鮮語教師であった兪氏と講読。

 さて、我々の注目は朝鮮本大コレクターである前間がいつから購入し始めるかであろう。その日は、1126日に訪れた。「華語類解16銭、千字文10銭、類合10銭」とある。この3冊からスタートし、「玉篇245璿系(「璿源系譜紀略」)130銭、蚕桑抄説15銭、民堡輯説(申観浩輯、銅活字本、全史字か?16銭」(121日)とある。在京中の前間先生の購書熱は日増しに高まるが、惜しむべきは明治25330日の条で玄界庵日記巻2が終了していることである。

津田剛先生追慕

津田剛先生追慕

 『東京日日新聞』昭和141030日付け記事によると、その前日の1029日に、府民館中講堂で朝鮮文人協会が設立されたという。初代会長は当時の「朝鮮文壇の大御所」であった李光洙であった。会員数は250数名。ペンの戦士を誓ったという。我が目を奪ったのは、津田剛氏が朝鮮文人協会設立に至る経緯報告をしたとあり、しかも李箕永・朴英熙・朱曜翰等と共に同会の幹事に選出されていることであった。
 津田剛氏とは、あの津田剛先生のこと。かって、毎年、東京から森田芳夫先生が集中講義にお越しになった。助手の役目の一つは、森田先生の送り迎えであった。福岡滞在中、森田先生は津田剛先生のご自宅に宿泊なさった。津田剛先生の奥様美代子様が森田先生の妹であられたからであった。ご自宅は福岡市茶山にあった。ご自宅は山腹の三叉路にある日当たりの良い家であった。津田先生のご自宅から九州大学箱﨑Campusまでは、妹である美代子様運転の愛車ミゼットでお越しになり、帰りは我がポンコツ車でお送りした。ほぼ毎日、美代子様お手製の夕食をご馳走になることも有り、森田先生・津田剛先生に向かい合う形で夕食の席に着き、極度の緊張で食事もろくろくのどを通らなかった想い出がある。なにしろお二人は全く冗談などから縁遠く、謹厳実直を絵に描いた方であった。
 毎日、毎日、茶山まで送迎しながら、そして遠慮なくお茶を頂戴し、時には食事までもご馳走になりながらも、ついにお伺いできなかったのが緑旗連盟に関する話題であった。むろん緑旗連盟設立者であった津田栄先生のことは何度もお伺いできた。
 津田先生がいかなる経緯で朝鮮文人協会設立発起人となり、李光洙などの朝鮮文壇の寵児と親しく交際なさったのかを知らなかったために、ついに津田剛先生に対して、「根掘り葉掘り」お伺いすることはしなかった。

 猶、本設立総会終了後に一同全員、「打ち揃って朝鮮神宮に参拝し、神前に文章報告の誠を誓った」とある。

その後、ふと思い出した話であるが、雑誌『緑旗』刊行をめぐるエピソードである。京城府初音町に所在した緑旗聯盟で、 1936 年 1 月に創刊され、1944 年 12 月まで刊行された『緑旗』。

2017年12月3日日曜日

洞春寺蔵「新編古今事文類従」の内賜記

洞春寺蔵「新編古今事文類従」の内賜記には、
*「嘉靖21年正月、内賜議政府左議政洪彦弼」
とある。

2017年12月2日土曜日

江戸時代、朝鮮からの漂流民に対する問情

2017年冬になり、北朝鮮製木造船の日本列島漂着事件が相次いでいる。2013年以降は年間45~80件あり、2017年11月22日時点で43件の老朽化した小型木造船が漂着している。

ところで、江戸時代、約1000件の朝鮮人の日本への漂着が報告されている(池内敏調査)。日本人朝鮮語通事が朝鮮人漂流民に対して、
①総人数
②漂流経過(朝鮮を出港した日時、出港理由、漂流開始日、漂流期間など)
③漂流船の有無
④漂流民の職業
⑤積み荷内容
⑥漂流民所持品
⑦漂流民の宗教
⑧朝鮮へ帰国時に搬送できる品々

などを問情するが、当然ながら朝鮮国の最新事情などにも関心を寄せる。


韓事品彙とは?

通航一覧巻25には、韓事品彙が引用されている。
「これ享保十年朝鮮国和館の番手小田切四郎兵衛より、宗対馬守の問に対へし書なり」とある。
未見。

天和風聞記載雨森東五郎筆記

通航一覧巻25に見る「天和風聞記載雨森東五郎筆記」とは何だろう。未見。