2021年12月10日金曜日

天平勝宝4年 新羅使が将来した経典

 新羅国使人所請來経 10巻

法華(花)経1部8巻

梵網経1巻

頭陀経1巻


天平勝宝4年6月22日



2021年10月16日土曜日

朝鮮通信使が通過した船橋図


 

アンコールワット 森本の落書き

 この森本の落書きに関しては、

*アンコールワットに墨書を残した森本右近太夫一房の父・森本義太夫の墓をめぐって」(中尾芳治)が詳しい。同地を訪問した折、アンコールワット十字回廊の南廊石柱に、そして第1回廊の北経蔵にもある。前者は寛永9年正月20日付け、後者は寛永9年正月30日付けとなっており、墨書した日時が異なる。ところで、アンコールワットには、森本右近太夫一房以外の墨書が12か所見つかっている。これらの墨書を見る限り、慶長17年【1612】から寛永9年【1632】あたりに、熊本・堺・京都・大阪の人間たちがアンコールワット巡りの旅に立っている。今風にいえば、「アンコールワット ツアー」が募集されて、個人客・夫婦で参加しているといってよい。


万葉集3807番歌 歌木簡

 

*この歌は、聖武天皇が造営した紫香楽宮趾と伝わる宮町遺跡(滋賀県甲賀市信楽町)出土木簡(8世紀中旬)に、その断片が残されている。その木簡は1997年に紫香楽宮の排水路と推定される溝から出土。長さ7.9センチ、幅は2.2センチ。木簡の表面を削った木屑。木簡とともに随伴した荷札から考えて、744年末から745年初めに廃棄されただろう。現在までに判読されたのは、「阿佐可谷 流夜真」の7文字。

 本木簡史料によると、和歌表記における「略体表記から非略体表記」という通説が揺らぐ。「略体表記から非略体表記」とは漢文体が先行し、次に一字一音の借音表記が生まれたという通説である。

万葉集928番歌  *長柄の宮に 真木柱 太高敷きて

 

*長柄の宮に 真木柱 太高敷きて

前期難波宮の遺構は南北に延びる複廊が左右対称に配置されている。北の内裏と南の朝堂院とで宮殿内部は二分されており、中軸線上に南門と正殿が並ぶ。南の朱雀門(宮殿門・外門)を入ると、朝堂院に至る。その規模は、東西2334メートル、南北263.2メートル。前期難波宮の特徴の一つとして、八角殿院がある。7間×2間(32.メートル×12.3メートル)の内裏南門の東西に建築された。この用途は不明である。

 内裏地域には、内裏前殿と内裏後殿があり、その内裏前殿は9間×5間(36.6メートル×19.0メートル)の掘立柱建物。その掘立柱跡は直径73センチメートルであり、その太さこそが「真木柱 太高敷きて」である。

2002年9月7日  尹東柱の生家

 タクシーで東明村に向かう。川沿いにずっとさかのぼって行くのだが、途中工事中で迂回。タクシーが川の中に入ってずぶずぶ。エンストしないかと不安だったが没問題だった。村には教会がある。朝鮮風の建物の屋根に十字架がかかっている。その建物の表の所に牧師の墓あり。またそのすぐそばに尹東柱の生家がある。どちらも鍵がかかっていて、近所のおばさんがあけれくれて見学する。生家の方は伝統的朝鮮の住宅。母屋の一角が牛小屋。あひるやにわとりが放し飼いにされている。風景がいい。タクシーで龍井にもどり、街を抜けて郊外の高いところに行く。一?亭とあった。見晴らしがすごく良い。そこから直行で延吉のホテルに戻る。一旦部屋に入ってすぐにロビーに集まり、タクシーで海洲館という朝鮮料理の店に行き夕食。プルコギ。韓国と違ってキムチやナムルがどんどん並べられるということがなく、ちょっと貧しい感じがする。

2002年9月7日撮影の写真多数


駱駝山房主人であった元京城帝国大学教授藤田亮策先生

 

周知のように、駱駝山房主人であった元京城帝国大学教授藤田亮策先生は朝鮮本研究第一人者であった。確かに藤田先生は大正11年3月に朝鮮に足を踏み入れられたとき、当時の朝鮮総督府古蹟調査課に勤務されたのを皮切りに、朝鮮半島全土および満州に至る地域の考古学的発掘と整理に奔走された。それゆえに、藤田先生は朝鮮考古学の先駆者としての目覚ましい業績があるだけに、広く考古学者として知られていよう。当時の京城にあった「書物同好会」の主要メンバーであると同時に、その会報に発表された先生の論文は、雑誌紙面の制約上、小編だが、いずれも珠玉の玉稿である。止目のかぎりでも、

  1、「読史閑話」(1)~(5)、『書物同好会報』第3号~第7号、昭和14年3月~昭和15年3月

  2,「華城雑記」『書物同好会報』第8号、昭和15年7月

  3,「駱駝山房書屋展覧目録」『書物同好会報』第10号、昭和15年12月

  4,「鋳字所応行節目に就きて」『書物同好会報』第11号、昭和16年5月

  5,「鋳字雑記」(1)~(2)『書物同好会報』第11号~第12号、昭和16年5月~7月

  6,「吏文と吏文輯覧」『書物同好会報』第15号、昭和17年2月

  7,「衿陽雑録と著者」『書物同好会報』第16号、昭和17年7月

  8,「海印寺事績に就きて」『書物同好会報』第17号、昭和18年3月

などがあり、あるいは、他所で発表なさった、

  9,「新纂東文選につきて」『青丘学叢』第23号、昭和11年2月

の力編もあり、これ以上列挙する必要はあるまい。とにかく藤田先生は朝鮮本に関する当代一流の眼力と知識を備えておいでであった。

2021年7月11日日曜日

東漢氏と帯方郡

 東漢氏の祖先に関しては、『続日本紀』延暦4年6月癸酉条に

「臣等、本是後漢霊帝之曽孫阿智王之後也、漢祚遷魏、阿智王因神牛教、出行帯方、忽得宝帯瑞、其像似宮殿、爰建国邑」

とあることから、魏国の統治下にあった帯方郡において、郡衙の建築物に従事したとある。

だからこそ、東漢氏に属する将大匠荒田井比羅夫が難波京の造営(『日本書記』高徳紀、白雉元年10月条)、従五位下坂上忌寸忍熊が平城京の造営(『続日本紀』和銅元年9月戊子条)に当たったのも、彼ら東漢氏が都城建設の技術と情報を有していたからであろう。