2024年1月30日火曜日

漢人部


戊寅年十二月尾張海評津嶋五十戸・韓人部田根春〔舂〕赤米斗加支各田部金」

この木簡は飛鳥京第147次調査時に、飛鳥京跡苑池遺構から出土した。

尾張海評津嶋は『倭名類聚抄』尾張国海部部に見当たらない。しかし津嶋神社(〒496-0851愛知県津島市神明町1)付近と推定してよいだろう。

主意は、天武7年(678)12月に尾張国海評津嶋五十戸の漢人部田根が搗いた赤米を額田部金がコメの検量(「斗加支」)したとある。


さて、

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細 (nabunken.go.jp)

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK025048000052
木簡番号0
本文・戊寅年十二月尾張海評津嶋五十戸・韓人部田根春〔舂〕赤米斗加支各田部金
寸法(mm)234
35
厚さ6
型式番号011
出典荷札集成-22(木研25-48頁-(52)・飛鳥京跡2001年度発掘調査概報)
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。上端左右両角丸く削る、下端緩やかな圭頭形で先端部表裏とも面取りする。
樹種
木取り柾目
遺跡名飛鳥京跡苑池遺構
所在地奈良県高市郡明日香村岡小字林・西フケ
調査主体奈良県立橿原考古学研究所
発掘次数第4次(飛鳥京跡第147次)
遺構番号水路SD0013(Ⅳ-2トレンチ)
地区名MK025048
内容分類荷札
国郡郷里尾張国海部郡尾張海評津嶋五十戸
人名韓人部田根・各田部金
和暦(戊寅年)天武7年12月
西暦678(年), 12(月)
木簡説明 

■研究文献情報

2024年1月14日日曜日

古代日本のハイウエー(2024年3月1日増補)

 ①東山道ルート

1996年に犬上郡甲良町尼子西遺跡(内田1998)において足利健亮推定ルート上で路面幅12メートルが出土。

①ー1国分寺市泉町二丁目の西国分寺住宅の東側にある東山道武蔵路跡は、上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)。発掘調査の結果、幅12mの道路跡が出土、

①ー2栃木県大田原市湯津上の「小松原遺跡」で確認された東山道の両側にある側溝と溝との間隔が9~12メートル。


①ー3群馬県太田市にある新田郡家遺跡では、郡家の南500メートルにある「牛堀・矢の原ルートの幅員は13メートル。この古代道路は伊勢崎市矢の原遺跡から太田市久保畑遺跡まで10キロメートル以上一直線に伸びているという。

(小宮俊久「上野国新田郡家の景観」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017、235頁)


②ー1九州では、博多湾に面した丘に建つ鴻臚館と大宰府を結ぶ官道(水城西門ルート)は、1978年に発掘調査された春日公園内遺跡から幅9メートルであると判明。

③ー12021年に発掘された鳥取市青谷遺跡で発見された古代山陰道の道幅は9メートル。

④-1古代東海道の場合、2021年に滋賀県栗東市高野遺跡で発掘された古代の官道「東海道」の跡の道幅は約16メートル

④-2:平成6年、静岡市駿河区曲金北遺跡で発見された古代東海道の遺構は、道幅約9m(両側側溝の幅2から3メートルを含めると道路幅は12mから13メートル)。

(鈴木敏則「静岡県伊場遺跡群と遠江の古代交通」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017、313~314頁)

④ー3「市原条里制遺跡の古代道や、五所四反田遺跡の古代道路跡は、駅路から分岐した伝路と推定され、台地上の古代道と同じ規格で、約6メートルの道幅で側溝が両側にあります。

 これらの伝路は、海岸線に近い海岸砂丘上の古代東海道駅路から分岐して、上総国府(推定地)へ向かうもので、国府からさらに南下する道路が、山田橋地区の古代道路跡と推定されます。」(近藤敏氏報告、049海岸から台地へ海岸平野を通り抜ける古代の道/市原歴史博物館 (imuseum.jp)近藤敏2004年「五所四反田遺跡について」『市原市八幡地区の遺跡と文化財』市原市歴史と文化財シリーズ第九輯平成16年度歴史散歩資料 市原市地方史研究連絡協議会

国土交通省HP 相模国の駅路 (mlit.go.jp)


⑤ー1山陽道ルート 広島県府中市鳥居地区で山陽道の道幅は約12メートル

(木本雅康「西日本の交通・官衙と景観ー国府の朱雀大路と十字街」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017年、400頁)









国土交通省HPから転載(道路:道の歴史:古代の道 - 国土交通省 (mlit.go.jp)  2024年1月20日アクセス)


内田保之『尼子西遺跡2』(ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書2)滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会、 1998年 


恵方巻の由来

 恵方巻


米国ボストン市にボストン美術館に浮世絵版木520余枚が所蔵されていることは、昭和60年のTBSテレビの報道によって、広く知られることとなった。

私もボストン美術館通いをした身の一人として、その版木群を止目したこともある。

その一枚、19世紀のごく初めに葛飾北斎が作った『絵本墨田川 両岸一覧』中の「高輪の暁鳥」に興味深い絵柄がみられる。「旭 本船乗初 房総春暁」とある絵柄には一艘の船に9人の乗客と2人の船頭が描かれている。左から3人目の人物の半纏に注目すると、その背中にマル印「恵」と染めてある。これが「恵方」を表象する印である。

 つまり江戸時代後半、江戸在住の庶民層は正月に恵方を求めて、どこからの神社に参拝に出かける風俗を認めてよい。


ただし、恵方「巻」を説明する確かな資料は未見。管見によれば、2000年代に入り、太巻き販売にかかわる業者が販売拡大促進を狙って、「恵方」を引っ付けたといううわさ話を耳にしたことがある。その理由は、北斎の浮世絵にあるように、正月の行事として「恵方」にある神社への、今で言えでば「初詣」の行事にあったが、それがなぜか節分行事の一つに変化している。こりゃ、不思議。

 いずれにせよ、無病息災が一番、おいしく恵方巻を皆で賞味しましょう。

2024年1月8日月曜日

大津京と渡来人

 大津京と渡来人

大津京が存在していた大津の北郊大友郷・錦織郷には、

  大友村主・大伴日佐・大伴漢人・穴太村主・穴太史・穴太野中史、錦織村主・錦織日佐・大友但波史・大友桑原史・滋賀史・登美史・槻本村主・三津首・上村主などで、9世紀以前の文献史料に見える、 滋賀郡の古代人名の約四〇パーセントを占めている。後の滋賀郡大友村主一族、大友郷南部の穴太を本拠とする穴太村主一族、錦部郷を本拠とする錦部村主一族、古市郷を本拠とする大友但波史一族がなかでも有力であった。」(大橋信弥、「近江における文字文化の受容と渡来人」『国立歴史民俗博物館研究報告 』第 194 集、2015 年 3月、42頁)

とある。


などの渡来人の本拠地であった。



名前のあれこれ--「田」の付く苗字 寺田・神田・志田・井田・香田・高田などの由来

 大宝律令といえば、大宝元年(701)に文武天皇によって制定された律令。その律令による施行以後、班田は慶雲元年(704)、和銅3年・霊亀3年・養老7年に実施され、貴族の位田や官人の功田・賜田、そして寺刹の寺田、神社に対する神田などが班給された。

 とすれば、今にもその名が苗字として残っているのは興味深い。

①寺田ーージデン⇒テラダ⇒寺田

②神田ーージンデン⇒カミダ⇒カンダ(神田)

③賜田⇒シデン⇒賜田⇒シダ⇒志田(シダ)

④位田⇒イデン⇒井田(イダ)

⑤功田⇒コウデン⇒コウダ⇒幸田・香田・高田⇒幸田(コウダ)・香田(コウダ)・高田(タカタ)