以下は、私淑する高橋富雄先生に捧げる。
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なるほど高橋富雄著『蝦夷』(吉川弘文館、昭和38年)は古色蒼然とした文体である。またその通説的理解にしても、今日の観点からすれば、特に金田一京助論を踏まえた蝦夷基礎論は大幅に修正を余儀なくされだろう。加えて彼の研究フレームワークにしても、当時にあっては最新の研究の最前線に立っていたとしても、今日から見ると多くの誤謬を指摘され修正を要求される個所も多い。
だからと言って、高橋の著作の価値を減ずるものではない。むしろその逆に光芒を放つ。
考古学と文献史学の協業などは彼の時代にあって、果しえぬ夢であったので、高望みは戒めたいる。「宮城県多賀城跡調査研究所」にしても宮城県教育委員会が設立したのは昭和44年であり、本書刊行後である。その後に陸続する東北全域における考古学発掘成果も参照することなく、本書は書き続けられた。だからこそ特筆すべきは、今日的観点からないものねだりをするのではなく、その逆に比較にならないほど少量の蝦夷に関する情報量と先行論文に依拠して、作り上げた高橋の悪戦苦闘である。そのトレースから知るのは、並々ならぬ努力へである。
むしろ最新の蝦夷研究が示すように、高橋のような全体を見通す図式を構想できていないのが事実である。名を出すまでもなく、たとえ「重箱の隅をつく」ほどに超細緻であったとしても、それらの記述は歓迎するとしても、何か物足りない感を持つのは私だけだろうか。いな、むしろ高橋論の傘の下もしくは掌の上で、各論を展開しているようにも思える、
今日の文献史学研究者と高橋との決定的な差は、高橋の卓越した漢文力と外国語力であろう。しかも彼の「知の世界」への探求心と「日本とは何か」という主題設定にしても同様である。森羅万象とは言わないにしても、高橋の知的好奇心の範囲は広く、彼の学問を支えるすさまじい読書量に驚嘆する。彼の周到な準備を踏まえて、彼の「知の世界」は拡大し続けたに違いない。
高橋の研究室には、少なくとも諸橋の『大漢和辞典』などが常備されていただろうし、各種の文献資料を解読するときに、各巻を何度も紐解いていただろう。今日であれば、例えば『続日本紀』にしても、岩波版新日本古典日本文学大系『続日本紀』に依拠したテキスト分析から始まり、そして東京大学史料編纂所データベース検索や奈良文化財研究所『木簡庫』などのコンピュータ操作による関連資料の積み重ねで、各論文は埋め尽くされるだけである。高橋との決定的な差は思索の有無である。
我々が高橋の諸研究書から知るのは、中央政府の圧倒的な武力によって駆逐される蝦夷の人々に対する「温かいまなざし」である。今風に言えば、弱者に寄り添い、被征服者の側に立って発言する勇気である。しかも彼にとって、いまなぜ蝦夷研究をすべきかの根本的な問いも見逃せない。一言で言えば、無慈悲な戦争への反対する強い意志であると信じる。彼の戦争体験に関する情報を完全に欠如したままであるが、高橋の著書の行間に、律令政府による一方的な軍事侵攻によって逃げ惑い、時として反抗する東北の蝦夷の人々の苦悩や戸惑い、無力感・絶望感などを読み取るのは、私の思い過ごしだろうか。
この稿、続く。
未定稿