以下に、大伴家持の生涯を二つ紹介するが、一方が専門家でしか理解しがたい履歴の羅列、他方は一般市民向けに分かりやすい平易な内容である。読者の求める要求は多様化しているだけに、現状ではいずれも「帯に短し襷に長し」状態である。たしかに専門家向けの情報提供も必要であろうが、専門家であれば、多くのツールを保持しているので、わざわざ奈良県立万葉文化館HPにアクセスすることもないはずである。そうであれば、一般人に理解不可能な記事を同館HPに掲載する必要もないだろう。
したがって二館は公共館だけに、紙媒体であれば困難であるが、AI時代の特性を生かして、HPに対象別・レベル別・要求度別に数種類の紹介文が長短も自由に選択できるように準備されても良いのではないだろうか。奈良県立万葉文化館は一般読者対象のそれ、そして高岡市万葉歴史館はセミプロ=万葉集・古代史愛好家向けのQR-コードを駆使する時代も到来している。You-tubeを活用するのも、妙案であるが、それは官費による支出になじまないという反発を受けるかもしれない。
すくなくとも奈良県立万葉文化館のHP制作方針は今の時代に即応していないではないだろうか。HP閲覧者はz世代へ突入しているにもかかわらず、その時代遅れの発想のままである。すでに民間企業では常識となっている「more view」の欄さえない。
このように書けば、自分ちの館の責務は事実の羅列だけで良く、残りはネットの世界から溢れる情報を主体的に選択してほしいと反論なさるにちがいない。それも一理あろう。下記に見る通り、館から提示された情報自体、仮に専門家向けであれば当たり前の知識であり、新情報発信は見当たらない。
圧倒的にアクセスするのは、万葉集入門者である。例えば奈良をはじめとして国内各地にある万葉集にゆかりのある土地への旅行の楽しみを増やしたいと願う方々などであるはずである。
そうした万葉集の方々への普及、啓蒙活動なくして万葉集理解者は増大するはずもなく、しかも奈良を訪問し、現地で万葉集を楽しむ方々が出現するとは考えられない。奈良を愛し、奈良県を理解し、奈良県に居住する方を拡充させ、奈良県への投資が拡大し、奈良県民の所得が上昇し、ひいては奈良県の税収増加gが期待されよう。そうした奈良県の公益促進を目的に、貴重な税金を投入して奈良県立万葉文化館が設置され、今日まで維持・運営されてきたに違いない。再度、館の設置目的や運営方針などを見直してはいかがだろうか。(なお、井上さやか氏ら各研究員の優れた論文は高く評価している)
少なくともHP制作にあたり、年度予算を伴う印刷費不要であり、しかも印刷物を倉庫に積み上げることもないわけでもない。インターネット世界の現段階はすでにご存じであるので、再論する必要もないが、プログラミング不要で初心者向けのHP制作ソフトも廉価で発売されている。奈良県立万葉文化館と高岡市万葉歴史館は、紙中心のアナログ時代の発想から早く抜け出してほしい。
館長にさしたる権限があるとは思えないので、奈良県から出向中の奈良県立万葉文化館事務局長にお願いしたほうがよいかもしれない。
とはいえ、当該事務局長にしても、いずれにせよ各方面への根回しと、館内におけるあらゆる検討に時間を要するので、しばらく時間を頂戴したい」とそつなくご回答になるに違いない。その通りである。
私でさえ、外部からの質問があれば、
⇒「広報体制に関しては、限られた人員によって実務が遂行されており、必ずしも十分な陣容であるとはいいがたい。制限された予算配分では、各分野における人員配分は少数精鋭主義で、ましてや専門的知識を有する広報業務担当者も限定的で、その不足は外部に専門業者に委託するしかありえない現状にある。引き続き、公費の適切な支出に腐心しながら、県民のみならず国内外からの来館者のご理解を賜りながら、皆様の満足度が高くなるように、再度緊張感をもって誠心誠意業務に努めていきたい」
とは、予想される回答。
確かにその通りであるものの、次回の改定時までにぜひご検討いただきたいと願う。ただし、館のスタッフの方々の中には、研究業務で多忙とか、自分の業務範囲を超えているとか、さらには自らの力量では責任を持てないので、HP制作を専門業者に依頼してほしいという要望も予想される。
今さら賢明な事務局長に拙劣なアドバイスをするつもりはないが、館内のスタッフで組織されたOne TeamでHPをどしどし画期的なリニューアルに努めていただきたい。
釈迦に説法となるので、アメリカ合衆国や韓国・シンガポールなどでの先端的な博物館・美術館・図書館などのHPを一見なさることを推奨したい。
なお、現在、公募中の
*奈良県立万葉文化館魅力発信コンテンツ制作業務委託(公募型プロポーザル)について
○公告日:令和6年11月20日(水曜日)
に言及しなければ、奈良県立万葉文化館の新たなチャレンジを見逃しているという誹りを受けるだろう。
約3000万円近くの県費を投入すると告示しているので、いかなる斬新なHPに仕上がるか今から楽しみである。これだけの巨費によってリニューアルされるHPがいかに画期的に変革されるのか、楽しみである。
(1)奈良県立万葉文化館の紹介
奈良県立万葉文化館の紹介によると、大伴家持の生涯は、下記の通りである。
「安麻呂の孫、旅人の子、書持の兄(伴氏系図)。妻の坂上大嬢は従妹(759左)。天平10(738)10橘諸兄旧宅での奈良麻呂の宴に内舎人。同11・6亡妾、同12・10広嗣の乱に際し伊勢河口行宮、狭残行宮、不破行宮行幸幸従駕。同16・2月及び3月安積皇子薨を傷む挽歌をなす折も内舎人(万葉集)。天平17・1正六位上より従五位下、同18・3宮内少輔、同6月越中守(続日本紀)。同9月書持の喪を聞き、同19・2病に臥し、同月より3月にかけて池主と贈答、同4月正税帳使として入京、同9月射水郡で鷹狩り、同20・1頃諸郡巡行、同3月田辺史福麻呂と布勢水海遊覧(万葉集)。天平勝宝1(749)4従五位上(続日本紀)。同5月陸奥の出金の詔書の賀歌、同月尾張少咋を喩す。同3・8遷替により上京、少納言、同5・2左大臣橘家の宴の折も少納言(万葉集)。同6・4兵部少輔、同11月山陰道巡察使(続日本紀)。同7・2防人の悲別を詠み、同8・6族を喩す歌をなす(万葉集)。同9・6兵部大輔(続日本紀)。天平宝字1(757)12右中弁、同2・2右中弁(万葉集)。同6月因幡守、同6・1信部大輔、同9月石川年足薨の弔賭使、同8・1薩摩守、神護景雲1(767)8大宰少弐、宝亀1(770)6民部少輔、同9月左中弁兼中務大輔、同10月正五位下、同2・11従四位下、同3・2左中弁兼式部員外大輔、同5・3相模守、同9月上総守兼左京大夫、同7・3伊勢守、同8・1従四位上、同9月藤原良継薨条に仲麻呂を除く計画が発覚」人物詳細 | 万葉百科 奈良県立万葉文化館
(2)高岡市万葉歴史館紹介
大伴氏の跡取り
大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老(ようろう)2年(718)といわれています。母は旅人の正妻ではなかったのですが、大伴氏の家督(かとく=相続すべき家の跡目)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死別しました。
家持は大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、しっかりと学んでいました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に『万葉集』編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。またその歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようです。
天平10年(738)に、はじめて内舎人(うどねり=律令制で、中務(なかつかさ)省に属する官。名家の子弟を選び、天皇の雑役や警衛に当たる。平安時代には低い家柄から出た。)として朝廷に出仕しました。その後、従五位下(じゅごいげ)に叙(じょ)せられ、家持29歳の年の天平18年3月、宮内少輔(しょうふ=律令制の省の次官)となります。同年6月には、越中守に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任しました。着任の翌月にはたった一人の弟書持(ふみもち)と死別するなどの悲運にあいますが、家持は国守としての任を全うしたようです。この頃は、通常の任務のほかに、東大寺の寺田占定などのこともありましたが、この任も果たしています。
家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。
帰京後、政権の嵐の中で
家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位に昇進しますが、帰京後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっています。しかもその官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしており、大伴氏の氏上としては恵まれていなかったことがうかがわれます。橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の大伴氏に対する圧迫を受け続けていたのでしょう。
家持は一族を存続するため、ひたすら抗争の圏外に身を置こうとしますが、そのため同族の信を失うこともあったようで、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を迷い続けていたことを、『万葉集』に残した歌(4465・4468など)からうかがうことができます。
因幡国守、そして多賀城へ
天平宝字3年(759)正月1日、因幡の国庁における新年の宴の歌を最後に『万葉集』は閉じられています。この歌のあと家持の歌は残されていません。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかりません。家持は晩年の天応元年(781)にようやく従三位の位につきました。また、中納言・春宮大夫などの重要な役職につき、さらに陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を兼ねます。家持がこの任のために多賀城に赴任したか、遙任の官として在京していたかについては両説があり、したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがあります。
大伴家持と万葉集|高岡市万葉歴史館|大伴家持が来た越の国[富山県]
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