2024年11月29日金曜日

中山道馬籠宿の「馬籠」に関する覚書

 『木曽路はすべて山の中である。』

この有名な冒頭文ではじまる「夜明け前」の作者の島崎藤村の出身地は馬籠宿、「中山道」の43番目の宿場である。
この「馬籠」の地名の由来を考えることもなかったが、律令時代の資料には「馬込」と記述する例を見る。文学愛好者ならば、尾崎士郎・宇野千代・石坂洋次郎、川端康成、室生犀星、山本周五郎・北原白秋・萩原朔太郎などの多数の文人が居住した東京大田区の「馬込文士村」を思い浮かべる人も多いかもしれない。その「馬込」である。東京にある「駒籠」や「牛込」も、同様である。
 浅学にして、その大田区馬込の地名の由来を知らないが、歴史地理学の研究成果に目を見張る。馬込・牛込が古代官牧制に遡るのは、『続日本紀』文武4年3月条の
*「馬籠考ー古駅址想定の手掛かりとして」『信濃の歴史と文化の研究』黒坂周平和先生の喜寿を祝う会編、2,信毎書籍印刷、1990年
がある。
 駅には馬が配分され、その定数は大路が20疋,中路が10疋,小路が5疋であった。しかし駅使がいない時もあれば、あるいはその定数すべてを必要としない時もあっただろうから、非番の馬を放牧しておく場所が必要であった。それが馬込であり、それは通例谷間に設置される。

したがって、中山道の馬籠にしても、想定すべきは近くに設置された駅である。その駅で非番の馬を放牧したり、あるいは治療すべき馬を置いていたことも想定してよいかもしれない。 

 「駅家はその機能から様々な設備があった。まず,駅の直接の運営にあたる駅長執務室, 多数の駅馬を繋留する厩舎,『令義解』に記載された蓑笠を私備する駅子の溜まり場,これは駅舎に待機 し駅馬の養飼に当たらなければならなかった駅子にとっては必要であった。また,駅使と従者などの休息、 宿泊の部屋や,これに伴う湯沸かしなど炊飯の簡単な設備もあったであろう。そのほか,駅使供与のため の稲・酒・塩などの飲食料や,駅馬替買料にあてる駅稲を収納する倉庫・物置といった駅舎に付随する建 物もあった。また,『万葉集』の東歌には,駅に堤井つまり水を囲って堪えてある人馬の水飲み場があり, 駅の雑務に当たる駅戸の娘などがいたことを表したものもある。他にも,延暦元年(782)の太政官符から, 駅に駅門があったことがわかる」(花岡興史「律令国家の駅制と駅家の比定の可能性―肥後国片野駅推定地と出土「馬取」刻書土器を中心として」『古代交通研究会大会資料集』20輯、古代交通研究会、 48-58頁、2019-年 古代交通研究会、特に54-55頁)






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