以下は、『角川歴史地名大辞典』京都・高田郷の項目 によって知った史実を契機に書き始めた拙原稿である。
「『平安遺文』90・92・93・100・118・119は、いずれも葛野郡高田郷三条高粟田里16坪にある3筆の土地文書である。現在の京都市右京区嵯峨野高田町付近と推定される3筆の土地はいずれも高田郷戸主正六位秦忌寸殿主の戸口春宮史生大初位上秦忌寸永岑が買い集めた隣接しあった土地であるという。」
だからこそ、天長5年(828)に作成された「山城国葛野郡班田図」(成簣堂文庫、お茶の水図書館蔵)に
①葛野郡一条大井里19坪山本田1反高田郷戸主秦忌寸永成墾田,
②二条大山田里5坪岡本田1反164歩高田郷戸主秦三助墾田,
③二条小社里29坪畠140歩高田郷戸主某
の記載も興味深いのは、
第1の嘉祥2年7月29日付高田郷長解の地245歩は左京五条三坊戸主秦木継の戸口同姓縄子が売却したものであるが,もともと己子橋頭郷戸主朝原宿禰河雄の戸口同姓魚麻呂の得処分地を生活の便がなくなったために売ったもの(根岸文書/平遺90)。
この朝原宿祢河雄の前の姓は秦である。したがって、この売買も秦氏一族内で行われた。
第2の嘉祥2年11月20日付高田郷長解(柏木氏所蔵文書/平遺92)・同21日付秦忌寸鯛女家地立券文(根岸文書/平遺93)の地1反は,川辺郷戸主正八位上秦忌寸冬守の戸口同姓鯛女が故夫秦黒人先祖の地を己之男子(つまり黒人と鯛女の子)秦大野に処分した家地を売ったものである。
第3の嘉祥4年2月27日付高田郷長解(根岸文書/平遺100)の地200歩は左京1坊戸主葛野宮継の戸口同姓飯刀自女が自分の家地を売却したものであった。
このように、葛野郡高田郷一帯の住民の多くは秦氏であったと推定され、秦氏同士で、いわば身内間で土地の売買を行ったらしい。
昔から有名な太秦のみならず、そこに隣接する地においても渡来系住民が多数を占めて居住していた状況の一端を知ることができたのは幸いであった。
ちなみに戸主は「正六位秦忌寸殿主」であり、その戸口に属していたのが「春宮史生大初位上秦忌寸永岑」。
では、正六位秦忌寸殿主
問題の土地3筆は正六位秦忌寸殿主の戸口に属する忌み居
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