有名な京都 妙心寺銅鐘には、銘文が「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連広国鋳鐘」と陽鋳されている(chi10_04611.pdf )ことで有名である。この文面には「戊戌年」とあり、年号年次なく、ただ干支のみである。この
「戊戌年」は698年だと推定されている。
いま、本欄で紹介したのは、「糟屋評造春米連広国」が発願者の名とも鋳物師の名ともある論争に参加することではなく、なぜ妙心寺に所蔵されるに至ったかを知る言い伝えである。
問題の所在は、なぜ、臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺(1336年創建)に「糟屋評造春米連広国」の銅鐘(698年製作課か?)が存在するのかという点である。
妙心寺そのものは花園法皇 の 離宮花園殿を土台に、建武3年 (1336)に 関山慧玄(無相大師) を開山に請じ禅寺として創建された。 その後, 応永六年 (1399)に将軍足利義満によって 、一時廃絶した状態に 陥った。永享四年(1432) に 至り、 妙心寺の 再 建に着手されたが、応仁の 乱によって兵火に見舞われた。乱後 に雪江宗深の手で再建された寺史は、今さら追記する事柄はない。
しかしなぜ、そもそも1336年建立の禅寺妙心寺に「戊戌年」(698年)陽刻の銅製の梵鐘が掛けられているかは、不可解である。つまり「戊戌年」銅製の梵鐘は別な場所から搬入されて、妙心寺に現蔵されていると考えなくてはならない。
その手掛かりを「名所図会」に偶見したので、それを紹介したい。
言い伝えとして、
「右都て一行廿二字に鐫ず。戊戌の年暦分明ならず、糟屋は筑前州の 郡名なり。評は地名、造はミヤツコなり、舂米は氏にして、連はム ラジ、広国は名なり。寺説に云、此鐘は嵯峨浄金剛院の鐘なり、此寺 久しく荒廃して鐘も民間の手にあり。ある時妙心寺の前を擔ふて京 師に出る者あり、開山国師これを見咎て云く、其鐘は何れより何れ へ持行ぞや。鐘主の云く、われらは嵯峨浄金剛院の古跡に棲て農 なり、此鐘村中に久しく持伝へしが、今日京師に出し農具鋤鍬の類 に交易せん為め持行なり。国師悦んで幸に此寺にいまだ鳬鐘なし我 に譲り与へよと、頼給へば。農人悦んで鳥目一貫文に売て嵯峨へ帰る。 それより国師嵯峨に至り、浄金剛院の鐘なる事を糺し、ここに掲る なり。](『都林泉名勝図会』巻之二)
とある。
ちなみに嵯峨浄金剛院は京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(現在の天龍寺の位置)にかつて建立された寺。後嵯峨上皇が檀林寺の跡地に建立した亀山殿の別院であった。
すなわち妙心寺現蔵の「戊戌年」陽刻銅鐘は、妙心寺の言い伝えではもともと「此鐘は嵯峨浄金剛院」旧蔵であった。
その浄金剛院に関しては、『WEB版新纂浄土宗大辞典』に下記の説明がある。
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妙心寺銅鐘
- 奈良 / 698
- 高さに対する口径の割合を少なくし、中帯と撞座の位置が頗る高く、乳は乳頭が大きくて四段七列に密接して置かれ、華麗な連続唐草文のある上下帯をもっって鐘身の上下を画し、下端には駒爪なく條線があるのみである。
竜頭は細長くて、宝珠は小さく、装飾文化した火焔が著しい。撞座以下をほとんど直線とした鐘身の形状や高い位置に中帯を回らしたり、乳の間の密接した大きな乳などにより、姿態の中心を上方にして懸垂の安定感をよく表している。撞身の内面縦に陽刻名がある。 - 総高151.0 竜頭高27.6 身高118.0 撞座中心高49.1 口径86.0 口厚5.3 (㎝)
- 1口
- 重文指定年月日:19020731
国宝指定年月日:19510609
登録年月日: - 妙心寺
- 国宝・重要文化財(美術品)
わが国最古の紀年名を有することで著名な鐘であり、銘文中の戊戌年は文武天皇即位二年(698)に当たると考えられ、糟屋評は現福岡県にあった郡銘である。
高さに比べて口径が小さく、胴張りの少ない長身瀟洒な鐘である。撞座の蓮華文、上下帯の唐草文など肉取りよく、駒の爪は二条の紐を回らせたもので古式であり、端正な形姿に典麗な装飾を施した名鐘である。
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それでは、檀林寺とは何か。
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