2026年1月6日火曜日

東大寺・若狭井の謎

我が仮説:若狭国遠敷郡は、秦氏(渡来系氏族)・丹生資源・大和政権とのノード(結節点)”


 東大寺・若狭井は、東大寺二月堂の堂下にある湧水井戸。修二会(3月12日深夜のクライマックス、お水取り)で本尊に供える「聖水=お香水」を汲む場所である。

東大寺若狭井の最大の特徴は、若狭国(福井県小浜市)にある神宮寺(元正天皇の勅命によって和銅7年(714年)に創建。小浜市神宮寺30-4の井戸と地下でつながっていると伝承である。

この伝承を次のような佐藤ひろみ氏の的確な説明で紹介したい。

「998年 世界遺産に:登録された奈良東大寺二月堂の舞台下、良弁杉の下手にある閼伽井屋には、 修二会の 「お水取り」行事で二月堂のご本尊十一面観音にお供えするお香水を汲み上げる井戸が ある。その水源は若狭遠敷川の鵜の瀬と通じているといわれ、湧水(閼 伽水)は 「若狭井」と命 名されている。この若狭井の伝説は12世 紀前半に編纂された 厂東大寺要録」に記されており、諸書に引用掲 載されている。奈良時代、二月堂の修二会で実忠和尚が神名帳を読んで全国の諸神を勧請したが、 若狭の遠敷明神だけが漁に夢中になっていたために遅参してしまい神々の咎を受けた。遠敷明神 はお詫びの証 として、毎年修二会に若狭遠敷川より香水を送ると誓い、一心に祈念したところ、 にわかに二月堂の舞台下の岩が割れて黒白二羽の鵜が割れ目から飛び立ち、傍の樹にとまったと たんにその割れ目から甘露な泉(閼 伽水)が 湧き出した。そこに石を敷いて閼伽井としたとされ る。その清泉を若狭井と命名し、水を汲む行事が始まった。それが全国的に有名な 「お水取 り」 である。」(佐藤ひろみ「水神のルーツと生活文化II 一 若狭から奈良へ、お水送り神事 ・お水取り神事の周辺から」121頁)

若狭神宮寺の「お水送り」(3月2日)ーー「お水送り」とは神宮寺の關伽井で汲んだ水を鵜 の瀬まで運び遠敷川に注ぐ神事

お水送り | 小浜市公式ホームページ

東大寺二月堂の「お水取り」(3月12日)ーー752年(天平勝宝4年)に東大寺の開山・良弁僧正の高弟・実忠(じっちゅう)が創始したという。


さて、古来からの謎が「東大寺若狭井と若狭神宮寺遠敷川」との関連であるが、これが難題。

どうしても正解にたどり着けない。

一つの仮説として、東大寺の大仏開眼供養の導師を務めたインド僧・菩提僊那(Bodhisena)を基軸にして論を立てたりしたが、その検証のプロセスでどうしても資料の壁に突き当たる。例えば、“菩提僊那と辰砂(朱)の関係”を構造的に再構成し、東大寺との関係性も予想させるが、それにしても確証に至らない。

 しかしながら、地名「遠敷」から「小丹生」へと復元し、「丹生」を「辰砂(朱)」生産地であることで東大寺で思量された莫大な58,620 両の水銀 = 約 2.2 トン(『東大寺要録』、辰砂の約 86% が水銀であるので、東大寺において 辰砂の必要量は 水銀量の 1.16 倍であると計算できる。したがって、大仏鍍金に必要だった辰砂は約 2.5 トンだったと推定できる。この数字は机上の計算に過ぎないので、当然にそれ以上の量が東大寺に運搬されたに違いない)。

だからと言って、東大寺と若狭が辰砂をリンクにして結合する理由にならないのは、東大寺の新車の最大の供給源が伊勢国丹生郷(現在の三重県多気郡勢和村)だと判明しているからである(『続日本紀』など参照)。

 したがって、伊勢国丹生郷であるならば、その仮説の蓋然性は高い。しかしながら、そうではない以上、若狭の丹生生産地との強い関連性は別に求めなくてはならない。

 そこで、本稿が注目するのは、若狭国丹生郷付近で出土する木簡である。

•  若狭国遠敷(おにゅう)郡・丹生郷丹生里

⇒『倭名類聚抄』、 小浜市太良庄付近かこの太良荘に丹生神社の鎮座地。)

⇒遠敷郡は古くは「小丹生評」。「戊戌年」は文武天皇二年(六九八)。「若俠国小丹生評岡方里」の木簡出土。https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJBQO29000172

⇒木簡「若狭国小丹生郡手巻里人□→・○「芝一斗○大根四把→」https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJBPF29000107

⇒木簡「丁酉年/若佐国小丹〈〉生里/秦人□□□〔己ヵ〕○二斗∥」(丁酉年は文武元(六九七年))https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKM32000124

⇒木簡「丁酉年若侠国小丹生評岡田里三家人三成・御調塩二斗」丁酉年は文武元年(六九七年)

⇒木簡「庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥」’(庚子の年は文武四年(七〇〇年))https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKN34000110

つまり文武朝の木簡から判明するのは、その若侠国小丹生評に居住する秦人(主に新羅人)の存在である。

その点をもう少し分析視点を拡大して、次のように図式に整理してみたい。

仮説のポイント:若狭国遠敷郡は、秦氏(渡来系氏族)・丹生資源・大和政権とのノード(結節点)”













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