1,『天龍院公実録』
2,『本州編稔略』
3,『橋辺姓家譜』
4,『関野氏家系写』
2017年5月28日日曜日
2017年4月27日木曜日
東海道の旅を行く内藤允真院繁子
女性の目から見た東海道道中。
内藤允真院繁子著の「53次ねむりの合いの手」は、抜群の面白さ。江戸後期の第1級のエッセイト。文久3年(1863)4月6日に江戸六本木内藤家江戸屋敷を出立。時に63歳。東海道を通り、大阪から海路で瀬戸内海を経由して、さらに同年6月2日宮崎県延岡に到着。
内藤允真院繁子著の「53次ねむりの合いの手」は、抜群の面白さ。江戸後期の第1級のエッセイト。文久3年(1863)4月6日に江戸六本木内藤家江戸屋敷を出立。時に63歳。東海道を通り、大阪から海路で瀬戸内海を経由して、さらに同年6月2日宮崎県延岡に到着。
2017年4月26日水曜日
江戸時代の「東日本と西日本」
賀川隆行氏の高著『崩れゆく鎖国』には、
「江戸を中心とする東日本は金貨が流通する経済圏で有り、大阪を中心とする西日本は銀貨が流通する経済圏であった。」金貨の単位には、両・歩・朱があり、1両が4歩、1歩が4朱である。銀貨は単位が匁でそれ以下が分・厘・毛であるが、秤量貨幣であったため、秤に量って何匁といって通用された。金貨と銀貨の交換比率は金1両=銀60匁が標準であったが毎日変動していたのである」(17頁)
「江戸を中心とする東日本は金貨が流通する経済圏で有り、大阪を中心とする西日本は銀貨が流通する経済圏であった。」金貨の単位には、両・歩・朱があり、1両が4歩、1歩が4朱である。銀貨は単位が匁でそれ以下が分・厘・毛であるが、秤量貨幣であったため、秤に量って何匁といって通用された。金貨と銀貨の交換比率は金1両=銀60匁が標準であったが毎日変動していたのである」(17頁)
2017年4月23日日曜日
加賀国砺波郡からの朝鮮通信使御用
横山恭子氏の好論「近世中期加越能地域の朝鮮人御用」を一読する機会に恵まれた。享保4年(1719)の朝鮮通信使来日の折に、
*通信使一行の荷物運搬のために、加賀藩砺波郡から駅馬15疋、馬子15人、馬裁許人1人
が派遣されたことを究明している。
享保度朝鮮通信使は総勢365人であった。身分に応じて輿・駕籠・乗馬・徒歩などで江戸にが、そのうちで乗馬は240人に及ぶ。上馬80疋、中馬180疋の計240疋が求められたが、そのうちで加賀藩は15疋を負担した。
加賀藩の担当区間は、舞阪駅(静岡県浜松市)から江戸間。
担当期間は、9月18日から9月27日迄。
その詳細な論は原著を譲るが、日本国中総出で朝鮮通信使歓迎体制を備えていたことを知るべきである。横山氏の他の論文を拝見したい。
*通信使一行の荷物運搬のために、加賀藩砺波郡から駅馬15疋、馬子15人、馬裁許人1人
が派遣されたことを究明している。
享保度朝鮮通信使は総勢365人であった。身分に応じて輿・駕籠・乗馬・徒歩などで江戸にが、そのうちで乗馬は240人に及ぶ。上馬80疋、中馬180疋の計240疋が求められたが、そのうちで加賀藩は15疋を負担した。
加賀藩の担当区間は、舞阪駅(静岡県浜松市)から江戸間。
担当期間は、9月18日から9月27日迄。
その詳細な論は原著を譲るが、日本国中総出で朝鮮通信使歓迎体制を備えていたことを知るべきである。横山氏の他の論文を拝見したい。
2017年4月12日水曜日
高埜利彦著『元禄・享保の時代』における誤り
高埜氏の高著『元禄・享保の時代』は1992年に刊行されているが、その刺激的な記述は今尚色あせない。
我が観点からすれば、1箇所の誤りを指摘したい。
*P173の図185「釜山の倭館」
である。この図は釜山城であり、釜山草梁に存在した倭館ではない。完全な失考である。
訂正を要する。
我が観点からすれば、1箇所の誤りを指摘したい。
*P173の図185「釜山の倭館」
である。この図は釜山城であり、釜山草梁に存在した倭館ではない。完全な失考である。
訂正を要する。
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