2023年12月18日月曜日

唐通事の分類

 

以下は、和 田 正 彦氏の高著「長 崎 唐 通 事 中 の 異 国 通 事 に つ い て ―東 京 通 事 を 中 心 と し て」に依拠した。

『 訳司統譜 』に よると,狭 義 の唐通事す なわち唐 通事役唐方 には,

①大 通事 〔慶 長9年 創設,寛 永18年(1641)以 後定数4人 〕 と小 通事 〔寛永17年(1640)創 設,寛 文12年(1672)以 後定 数5人 〕

②お よび主 にそ の子 弟が任ぜ られた 稽古 通事 〔承応2 年(1653)創 設,定 数不定〕 を中心 に,

③古 参唐 通事の処 遇 のため に設 け られた唐通事 頭取 〔天明2年(1782)創 設以来 安政5年(1858)ま で断続的 に1・2名 〕,

④唐 通事 諸 立合 〔元文元 年(1736)創 設 以来 幕末 まで断 続的に1・2名 〕

⑤御 用通事 〔享保10 年(1725)創 設,宝 暦元年(1751)廃 止,定 数1人,定 数外 の大通 事を兼 役〕,

⑥風 説 定 役 〔元禄12年(1699)創 設,寛 延2年(1749)廃 止,定 数1人 〕

⑦直 組立合通事 〔享 保12年(1727)創 設,定 数1人,大 通事 ・目付 を兼 役〕,

⑧唐 通事 目付 〔元禄8年(1695) 創設,大 ・小通事 より1名 宛,広 義 の唐 通事 の目付〕 な どの上部機構 と,

時 代 が降る に従 って増加す る唐 通事 の子弟 らを しか るべ き役儀につけ るため に設 け られ た

⑨小通事 並 〔元文4年(1739)創 設,創 設時2人,後 に10数 人〕,

⑩小 通事末席 〔享 保3年(1718) 創設,創 設 時2人,嘉 永期(1848-54)に は20数 名〕

⑪稽 古通 事見習 〔元 禄12年(1699) 創設,創 設時1人,元 文;期(1736-41)に は13名 〕な どの下部機構 とがあ る。」【24頁、_pdf (archive.org)

2023年12月8日金曜日

道鏡が急がせた十一面経卅巻 孔雀王呪経一部の写経

 2023年度の正倉院展で我々の関心を引くのは

牒 東大寺司所

合可奉写経四十巻
 十一面経卅巻 孔雀王呪経一部
  右、従来月六日以前可写畢、故牒、

                字七年六月卅日

                   法師道鏡」
正集7断簡2(2)  5/447~448))

の道鏡自筆の文書である。天平宝字7年(763年)6月30日の命によると、道鏡は「写経所」を管轄する役所「造東大寺司」に、6日以内に写経40巻(十一面経卅巻 孔雀王呪経一部))を終了せよという。

これ以外にも、道鏡の命による写経指示は多かったと予想さるが、今、上記の「十一面教」が、耶舎幅多訳『仏説十 面観世音神呪経~ (北周・天和 5 年 (570)か?)と阿地塵多訳『陀羅尼集経』所収『十一面観世音神呪経』 (唐 ・永徽 5年 (654))であるとすれば、なぜ、この経典の写経を急がせたかを想像したい。


とはいえ、仏教に全く素養がないだけに、すべては佐々木守俊氏の研究に全面的に依拠することを予めお断りしたい。

(「出現す るほとけ一密教経軌の記載を中心に」 佐々木守俊 rpkp_023_015_025.pdf (okayama-u.ac.jp)) 


「 『十一面観世音神呪経』とおなじく『陀羅尼集経』におさめられる 『般若波羅蜜多大心経』には、「諸仏菩薩金剛天等Jを供養する功徳と して、彫像の放光から見仏にいたる 10の瑞相が説かれる 。まずは供養 の方法である。 若人欲得日日供養十方一切諸仏菩薩金剛天等者。若在房内及仏殿中。 而供養之。 (中略)当設二十一種供養之具。 作般若波羅蜜多法会。 (中 略)一者厳飾道場安置尊像。復以種種香。所調龍脳丁香。欝金沈水。 香湯浴像還置本処。二者像前当作水壇。三者龍脳沈水。上妙香等用塗 像身。四者諸妙花露。絞培仏身左右肩上。五者頂掛天冠。 六者宝釧理 落荘厳仏身。 (「諸仏菩薩金剛天等」の供養は「房内」または 「仏殿中 」でおこなわ れ、 21種の「供養の具j が用いられる 。道場に安置された「尊像 Jに は香湯を浴びせ、香を塗り、花童を肩上にからめ、「天冠Jを頂に掛け、 宝釧理培で仏身を荘厳するとある 。以上の記述から、「尊像」とは彫像 であることがわかる。そして、供養の結果として「十種瑞相」が説か れる。 

一者 像上放光。 

二者 風不吹市道場中幡自然動揺。

三者 雲不覆雨天有 雷声。

四者 道場中燈長 三 四尺。 

五者 香鋪中人不焼香市香畑自出。 

六者  空中間有種種音楽之声。 

七者 感得四方無事福寿延年無諸疾病。 師子虎 狼諸毒虫等不能為害。

八者 於五欲境心無染著。

九者 諸魔鬼神不能焼乱。 自他之病療即除癒。

十者 見仏菩薩金剛天等。若於夢中見仏菩薩。或昇 高山。或上高樹。 乗船度岸。或騎象馬。 

 「ー」は「像上の放光」である。「像上」とは像の表面という意味だ ろう 。放光は仏像の起こす奇瑞では代表的なものである 。「二」は、風 がないのに道場中の幡が「自然に動揺」する 。「自然動揺」は十一面観 音像の奇瑞についても用いられた表現であり、ほとけの本体の来臨を 示唆している可能性が考えられる。「 三J~「六」は、雲がないのに雷 鳴が聞こえ、燈明が長く伸び、焼香しないのに香煙が出、空中に音楽 が聞こえるといった奇瑞である。「七 J~「九」ではもろもろの功徳が 得られると説く 。そして「十Jでは、「仏菩薩金剛天等」を み る、もし くは夢中に「仏菩薩Jをみる功徳が説かれるのである。ほとけたちは あるいは高 山や高樹に登り、あるいは船や象 ・馬に乗るという 。 この ほとけたちが本体なのか、それとも本尊として道場内に安置された仏 像が動いているのかは明確でないが、十一 面観音のぱあいを 参考にす れば、瑞相の最終段階としての見仏は「仏菩薩金剛天等」の来臨を念頭に置いて記載されていると考えてよいだろう 。」

そして、

「とくに重要と思われるのは、「聖者」が行者の前に「現れる 」と 明記されている点である。」(上掲書、7頁)

にも深い関心を払っておきたい。

私論であり、佐々木氏とは無関係であるが、「聖者」は孝謙上皇(称徳天皇)であり、「行者」とは道鏡だと考えられる。



2023年10月22日日曜日

古代人名の読みの事例ーー「縄麻呂」は「ただまろ」

 古代人名の読みは一筋縄に行かないのは周知に事実である。

ベテランの万葉学者にしても、その読みに無関心な方がおいでである。

例えば、

内蔵忌寸縄麻呂

のばあいである。「(すけくらのいみきつなまろ)」(全注)などと読む。

しかしながら、奈良時代に即してみれば、

(すけくらのいみきただまろ

と読むべきである。

したがって、慶雲4年(770)5月9日、従三位民部卿藤原朝臣縄麻呂が正倉院より屏風三帖を借用したときの「縄麻呂」も、当然ながら「タダまろ」と読む。

また、『続日本紀』の

《宝亀6年(775)正月庚戌【16】》○庚戌。従五位下参河王。伊刀王。田上王並授従五位上。従四位上藤原朝臣家依。大伴宿禰伯麻呂並正四位下。正五位下多治比真人木人正五位上。従五位下高向朝臣家主。藤原朝臣鷲取。中臣習宜朝臣山守。佐伯宿禰国守並従五位上。外従五位上坂上忌寸老人。外従五位下浄岡連広嶋。正六位上百済王玄鏡。坂本朝臣縄麻呂。小治田朝臣諸成。田中朝臣難波麻呂。大伴宿禰上足並従五位下。正六位上高市連屋守。越智直入立並外従五位下。」事畢宴於五位已上。賜禄有差。


も同様である。

2023年10月9日月曜日

出雲国のエミシ(蝦夷、毛人)

以下は、武廣 亮平著「古代のエミシ移配政策とその展開 」(専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 3 号 2017年3月)の教示に全面的に依拠した紹介である。武廣氏に感謝する。

2091_0003_12.pdf

***********************

出雲国に移配されたエミシは、

*『類聚国史』延暦 19 年(800)3 月 1 日条    

「出雲国介従五位下石川朝臣清主言。俘囚等冬衣服、依 例須 絹布混給 。而清主改 承前例 、皆以 絹賜。又毎 人給 乗田一町 。即使 富民佃之。新到俘囚六十餘人、寒節遠来、事須 優賞 。因各給 絹一疋、綿一屯 。隔 五六日 、給 饗賜 禄、毎 至 朔日 、常加 存問 。又召発百姓 、令 耕其園圃 者。 勅、撫 慰俘 、先既立 例。而清主任 意失 旨、饗賜多 費、耕佃増 煩、皆非 朝制 。又夷之為 性、 貪同 浮壑 。若不 常厚 、定動 怨心 。自今以後、不 得 更然 。」


  右の史料は出雲介である石川朝臣清主が「俘囚」(エミシ)に対しておこなっている独自の処遇である。

*『類聚国史』弘仁 5 年 2 月 10 日条  

「夷第一等遠胆沢公母志授二 外従五位下 。以討出雲叛俘之 也。 

*『類聚国史』同 2 月 15 日条  

「 出雲国俘囚吉弥候部高来・吉弥候部年子、各賜 稲三百束 。以遇荒橿之乱、妻孥被害也。 」

*『類聚国史』同 5 月 18 日条  

「 免  除出雲国意宇・出雲・神門三郡未納稲十六万束 。縁 有 俘囚乱 也。」

*『日本後紀』同 11 月 9 日条 

「免 出雲国田租 。縁 有 賊乱及供蕃客也。 }


 

佐伯宿祢今毛人

 桓武天皇延暦9年(790)10月3日、佐伯宿祢今毛人の薨伝は、次の通りである。

『続日本紀』「《延暦9年(790)10月乙未【三】》○乙未。散位正三位佐伯宿禰今毛人薨。右衛士督従五位下人足之子也。天平十六年。聖武皇帝。発願始建東大寺。徴発百姓。方事営作。今毛人為領催検。頗以方便勧使役民。聖武皇帝。録其幹勇。殊任使之。勝宝初。除大和介。俄授従五位下。累遷。宝字中至従四位下摂津大夫。歴播磨守大宰大弐左大弁皇后宮大夫。延暦初授従三位。尋拝参議。加正三位。遷民部卿。皇后宮大夫如故。五年出為大宰帥。居之三年。年及七十。上表乞骸骨。詔許之。薨時年七十二。」


さて、これまで不思議であったのは、佐伯宿祢の嫡男の名前に、なぜ、「(今)エミシ」と命名したか、である。

 以下は、まったくの想像である。それには井上光貞先生の高論を前提となる。


ところで

『令集解』賦役令辺遠国条   

凡辺遠国、有二 夷人雑類一 、謂、夷者夷狄也。(略)古記云、夷人雑類謂二 毛人・肥人・阿麻弥人等類一 。問、夷 人雑類一歟、二歟。答、本一末二。仮令、隼人・毛人、本土謂二 之夷人一 也。此等雑 -二 居華夏一 。謂二 之雑類一 也。一云、 一種無レ 別。之所、応レ 輸二 調役一 者、随レ 事斟量。不三 必同二 之華夏一 。」

とある。 「古記」は大宝令(701 年制定)の注釈書であり、「夷人・雑類」として「毛人」の ほかに「肥人」(九州)、「阿麻弥人」(奄美島人か?)などが例示されているにもかかわらず、佐伯宿祢の男子の名に付けられている。

なぜだろうか。

井上説は次の記事に注目する。

『日本書記』』景行 51 年 8 月 4 日条  

「 於 是、所 献 神宮 蝦夷等、昼夜喧譁、出入無 礼。時倭姫命曰、是蝦夷等、不 可 近 於神宮 。則 進- 上於朝庭 。仍令 安 置御諸山傍 。未 経 幾時 、悉伐 神山樹 、叫呼隣里 、而脅人民。天皇聞之、 詔群卿 曰、其置 神山傍 之蝦夷、是本有 獣心 、難 住 中国 。故随 其情願 、命 班 邦畿之外 。是今播 磨・讃岐・伊予・安芸・阿波、凡五国佐伯部之祖也。」


これでは、文意が不明であるものの、

*『令集解』職員令大国条  

「大国    守人(略)其陸奥・出羽・越後等国兼知 饗給、謂、饗 食並給 禄也。釈無 別也。(略)古記云、問、 大国撫慰、与考仕令招慰 、若為 別。答、種云々。征討 ]


とあり、陸奥・出羽・越後国司は「饗給」と「征討」によりエミシを服属させ、捕虜となったエミシを国内に移動させ、次の記事を重ね合わせると

*『続日本紀』神亀 2 年閏正月 4 日条  

「俘囚百卌四人配 于伊予国 、五百七十八人配 于筑紫 、十五人配于和泉監 焉。」

この記事には伊予・筑紫・和泉とあるが、たしかに

『天平十年駿河国正税帳』   

「 従二 陸奥国一 送二 摂津職一 俘囚部領使相模国余綾団大毅大初位下丈部小山上一口従一口三郡別一日食 為単陸日上三口 従三口   

俘囚部領大住団少毅大初位下当麻部国勝上一口従一口郡別一日食為単陸日上三口 従三口 当国俘囚部領使史生従八位上岸田朝臣継手上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口従三口 俘囚部領安倍団少毅従八位上有度部黒背上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口 従三口     (略)

従 陸奥国 送 摂津職 俘囚壱伯壱拾伍人部従六郡別半日食為単参伯肆拾伍日従」

とあり、「陸奥国から摂津国へエミシが壱伯壱拾伍人移送された。

井上説によると、陸奥から日本国内各地に移送されたエミシが農民として定着していった。彼らエミシ「弓馬戦闘夷 狄所レ 長。」(『類聚三代格』承和4年2月8 日太政官符)であったので、当然ながら中央に集められ、天皇の親衛隊となったとして、「塞ぐ」が「サエキ」となったという。

さて、当面の課題である「佐伯宿祢今毛人」こそ、その氏族伝承を語り伝えたものにほかならず、しかもわざわざ「今」を挿入したと愚説を提出したい。

当然な反論として、それでは「蘇我蝦夷」はどうなるかと指摘する論者もいるはずである。わたしの目には、だからこそ単に「エミシ」ではなく、「今エミシ」と命名する佐伯氏だと考えたい。


なお、延暦2年6月17日には、

「従三位行左大弁兼皇后宮太夫大和守佐伯今毛人」【「太政官牒 旧表題 新羅江庄券 、東南院文書 84頁)

とある。

2023年10月1日日曜日

「大原采女勝部鳥女還本郷。」⇒都へ送り続けていた大原郡の郡司の仕送りは田2町歩分のお米

 『続日本紀』《天平十二年(七四〇)六月庚午【丙辰朔十五】

「大原采女勝部鳥女還本郷。」

この記事は前後と文とは無関係に挿入されているために、ともすると見逃しがちであるが、事実は、采女勝部鳥女が「本郷」である「出雲国大原郡」に「還」ったいう内容である。その理由は明記されていないが、『続日本紀』に特記している以上、特別な理由があったとみるべき だろう。

 ところで見逃しがちな論点は、

*采女には任期規定が存在しない

ことである。一度、都へ貢進されるとほぼ終身の任期であったと考えてよい。それは仕丁と同一である。


事実、出土した木簡には、

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細 (nabunken.go.jp)

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK011028000029
木簡番号0
本文□□□出雲国大〈〉\大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂〈〉
寸法(mm)(377)
40
厚さ2
型式番号019
出典東大寺防災-(1769)(日本古代木簡選・木研11-28頁-(29))
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名東大寺大仏殿廻廊西地区
所在地奈良県奈良市雑司町
調査主体奈良県立橿原考古学研究所
発掘次数旧境内第9次
遺構番号
地区名
内容分類
国郡郷里出雲国大原郡佐世郷
人名勝部□智麻呂
和暦 
西暦 
木簡説明 

■研究文献情報

当該木簡を取り上げている研究文献一覧を表示します。

とあり、すくなくとも大原郡佐世郷に勝部一族が居住していた。『出雲風土記』から、

大原郡:大領:勝部臣、少領:額田部臣、主政:日置臣、主帳:勝部臣

は判明しており、しかも同風土記には、

【大原郡】 斐伊郷…新造院:堂/僧5躯/大領勝部臣虫麻呂 新造院:堂/尼2躯/斐伊郡人樋伊支知麻呂 屋裏郷…新造院:層塔/僧1躯/前少領額田部臣押島(今少領伊去美の従父兄) 

とあることから

大領勝部臣虫麻呂 

*少領額田部臣伊去美+従父兄であり前少領額田部臣押島

の3名の名前を知る。

『出雲国風土記』大原郡条

「 所三以号二大原一者、郡家東北〔正西〕一十里一百一十六歩、田一十 町許平原也。故号曰大原。往古之時、此処有郡家、今猶追旧 号大原〈今有郡家処号云斐伊村〉 。 (中略)斐伊郷、属郡家。 」

とあり、大原郡では、郡家の移動があった。

 我々の関心を引くのは少領額田部臣の存在である。欽明天皇の娘額田部皇女(推古天皇)の額田宮に使える額田部臣(職名+臣)は元来勝部臣よりも上位の豪族であった。その証拠に、岡田山一号墳出土大刀銘に「各田卩臣□□□□□大利□」も登場する額田部臣であり、岡田山1号古墳が位置する出雲を支配した一族は「出雲臣」で地名+臣であったはずだが、大刀銘文に記されたのは「額田部臣」であった。額田部臣が出雲を支配する一大勢力であった。それにもかかわらず、大原郡では大領と少領との勢力が逆転していることからして、上記の木簡資料の

大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂

は郡家が大原郡佐世郷から斐伊郷への移転を語る傍証にならないだろうか。


ところで、誰しもが思い出す大化改新の詔には、

凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。」(『日本書紀』二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。)

とある、律令制下の日本では、全国を五畿七道に分け、その国には都から国司が派遣されたが、郡では律令制以前から支配していた在地豪族が終身の郡司に任命されていた。これは、各国において、郡司の郡支配を保証するとともに、その一方で中央政権の一端に組みこまれていたともいえよう、

こ 采女は天皇による郡統治の保証書であると言え、人実であるともいえよう。

つまり采女は郡司(大領もしくは少領)の姉妹もしくは子女で、しかも形容端正(容姿端麗)の者を貢進せよとある。今ここでは大化の改新の詔の信ぴょう性に関しては論じないが、すくなくとも采女は誰でもよかったのではなく、中央と地方の支配隷属関係を裏付けるものであったと考えたい。

 しかも「以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁」とある限り、采女の出身国の農民100戸から「庸布」を物納させたとある。1戸につき五斗の庸米であるので、100戸で500斗、穀で100斛。和銅大升では穀100斛が稲1000束。とすれば、田2町歩に該当する面積の稲田を郡司は農民に耕作させ、そして都の采女に送付して生活費に充当させていた。

何よりも、『続日本紀』に

《天平十四年(七四二)五月庚午【廿七】》○庚午。制。凡擬郡司少領已上者。国司史生已上、共知簡定。必取当郡推服。比都知聞者。毎司依員貢挙。如有顔面濫挙者。当時国司、随事科決。又采女者。自今以後。毎郡一人貢進之。」

とあり、その当時550郡存在したので、この記述通りに進めば、550人の采女が都に送られた。


付記)

【綱文和暦】
大同2年5月13日(08070050130)
【綱文】
出雲国の采女勝部真上が病で郷里に帰り、稲五百束を賜る。


2023年9月28日木曜日

朝鮮馬の図(文化8年),朝鮮和睦の書

 目録詳細 / なか++の友 (adeac.jp)


函番号(資料番号)147-92
旧書名なかなかの友
数量5
単位
書名なか++の友
書名ヨミナカナカノトモ
書名の備考1・3冊目の原題簽存(左肩無辺)「なか++の友 上〈一〉」「なか++の(以下破損)」。序題「なか々々の友」。各冊目録題「なか++の友壱之巻」「なか++の友乙録巻之壱」「なか++の友乙録巻之三」「なか++の友丙録壱之巻」「なか++のとも丙録弐之巻」。各冊内題「なか++の友巻之壱」「なか++の友巻之壱乙録」「なか++の友巻之参乙録」「なか++の友巻之壱丙録」「なか++のとも巻之弐丙録」。
版写
書型
存欠全8巻(3巻乙録3巻丙録2巻)のうち巻2・3・丙録巻2欠
原装・改装原装
丁数108
寸法24.7/17.0
編著者原徳斎
編著者ヨミハラトクサイ
成立自序全文「そも賢き人は愚かなる者の仇なりおろかなるものはかしこき人のともにあらすしかも友にあらされはかならす嫉の害に逢ひ謗の恥をうくること多しいと心うき事にこそあれされは兼好翁も友ならぬ友のとひ来て長居すは独りあるよりわひしかりけると読しもさる事なりいさや予も其言の葉にならはむとて自分柴門を鎖して独り文机によりふるき新しきとなく面白しとおもふを何くれとなく書記しはへるにはややつの巻とはなりぬその親しみ深しといえともつひにねたみに逢ふ気遣ひもなくまたそしりをふせく心くはりもいらすけにこれやこれなか++のともならむ歟++/徳斎ぬし識」(署名はもと「放斎」の「放」を貼紙で「徳」に改める)。巻1「蘇東坡研図」文中に「予先人念斎翁の古許志に出たり」、丙録巻1「唐人戯場番附」文中に「実父理斎翁長崎の地に于役の時」とあり、著者は原徳斎。書中所々に文政6年までの年数注記あり、同年中の成立。天保年間までの同筆の増補書入あり。
成立西暦1823
刷り書写の態様自筆稿本。上写本。
内容好古趣味の考証随筆。漢字かな交じり。文書や書画の模写を中心とした図多数。各冊の内容見出し、①:日蓮上人の歌、手取釜図、難波五人男、蘇東坡研図、半七三勝届書(三勝半七心中を取り組んだ元禄9年正月2日より始まる岩井半四郎座新狂言「御評判の心中」「〈日本〉鍾馗大臣」の番付断簡を模刻した一枚刷の現物を添付、余白に刻された附記の末に「文政十一戊子年三月 浪華黄葉園主人誌」)、三国馬の遅速、琉球国王の印璽、宮本武蔵画印、明陳眉公の古琴図、国分寺古瓦図、静女墓図、雷電為右衛門手形、本多忠勝野太刀の鐔図(「すくんうきよやいまわままるこつかう」の文字入り)、加藤清正手形並花押、新吉原類焼年譜、源為朝矢根、武蔵坊弁慶鍔の図。②:大石良雄遺物、近藤源四郎請状之文、京都小野寺十内墓図、同十内母墓の図、山科郷良雄旧趾碑図、寛政四年相撲番付并上覧勝負付、後藤祐乗笄の図、朝鮮和睦の書、頼光大江山入の古記、羅城門制札の図、由良之助の古図(吉信筆)、椀久の紋所并紀文紋所、静女雨龍舞衣図。③:長禄年江戸絵図、永禄年中江戸絵図、寛永年中江戸絵図、享保年霊象の図、駱駝の図(文政4年)、朝鮮馬の図(文化8年)、為朝矢の根図、木より出たる鏃図、大石良雄手簡、義士四人花押、弘法大師加持蛤并書、兼好法師墓の図、仏殿の古瓦、異形の赤子、八歳女子出産。④:日蓮御預状、日蓮上人手簡(7月2日故阿仏房尼御前宛)、上杉謙信書并花押の図、小倉山荘の額、日本神代文字の図、唐土蝌蚪文字の図、足利学校古書(宋版『周易注疏』、端平2年陸子遵識語、上杉憲忠奉納識語)、国姓爺の印章、古画の美人(落款「鳥居清俊画」)、唐人戯場番附、筑波みなの川碑、蕉門三伝之書(模写短冊「枯芝やまたかけろふの一二寸 はせを」)、高尾文の文、春台塾の記、煙草屋招牌。⑤:菅神真跡経文、祐天僧正名号真跡、珂碩上人系譜并仏号の書(九品仏開基超誉、珂碩実母の佐藤家の子孫が著者の姉聟)、慶長の筆記(表題「治世録」改め「駿武政事私記」、慶長11年正月より同16年12月までの世事を記した記録書稿本)、明暦武鑑(刊記「明暦四年三月吉日 松会開板」)、神祖御駕籠の図(日光宝蔵にあり)、神祖御花押、遊妓吉野の文(貝原益軒宛)、異国人の図(文化元年長崎に来たヲロシヤ国使節の役人レサノツト(レザノフ)の画像)、角平獅子系譜(越後獅子、唱歌あり)、志賀随応の書、九拾以上尚歯会(正徳5年生嶋幽翁主催と文化13年本多随翁主催)、天明絵草紙(天明5年5月17日初日「八重一重ことのは曽我」を絵草紙にしたもの、「其様当時豊国国貞なとの画く草そうしに似て狂言仕組の言葉迄しるしたり今は曽て無事也」)、宋蘇東坡花押、僧独立真跡、朱子真跡。
備考原装白茶色表紙に覆表紙を付す。料紙薄様(全丁間紙入り)。四周単辺無界10行。癖の強い筆跡。○国書総目録に志賀理斎著とするのは誤り。外に天理に巻2・3の自筆本あり(文政6年成)。○原徳斎は志賀理斎の男で文化14年原念斎の養嗣子となり、その家督を継いで幕府の御徒となるが、文政7年致仕。明治3年没71歳。文政6年には24歳。
所蔵機関西尾市岩瀬文庫
資料種別総記 随叢
大分類和書
和分類総記 随叢 雑筆
言語日本語
原本の所在・史料群西尾市岩瀬文庫