2023年7月25日火曜日

アウトドア―スポーツ 鷹狩  Falconry 鷹狩を愛した三大人物は、桓武天皇・信長・家康

 *日本で鷹狩を愛した三大人物は、桓武天皇・信長・家康


織田信長や徳川家康の二人は有名であるので、後日に紹介することとしたいが、天皇に拝謁するに、鷹狩姿で出向いた信長は気にいっている。


さて、桓武天皇。長岡京および平安京への遷都で有名な桓武天皇だが、意外と知られていないのが、天皇の鷹狩好き。

記録に残る桓武天皇の鷹狩は全128回に達するという(鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』吉川弘文館、2008年、144頁)。例えば、次の記事である。

『『続日本紀』延暦2年

 「冬十月,
 戊午,行幸交野,放鷹遊獵。」


とある、この「交野」とは大阪府枚方市・交野市付近。日本古代の鷹狩の様式を知らないだけに、博雅の士のご教示を得たい。

なお、我が九州大学に鷹狩を研究するcommitteeがあり、

丸山大・著「 大韓国調査報告」があることを紹介しておきたい。なお、朝鮮通信使一行の鷹狩に言及してほしかったとは、欲張りであろうか。



『鷹・鷹場・環境 NEWS 2018.10.1』

hhe-news5.pdf (kyushu-u.ac.jp)


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日本列島における鷹・鷹場と環境に関する総合的研究

研究課題

研究課題/領域番号16H01946
研究種目

基盤研究(A)

配分区分補助金
応募区分一般
研究分野日本史
研究機関九州大学

研究代表者

福田 千鶴  九州大学, 基幹教育院, 教授 (10260001)

研究分担者大賀 郁夫  宮崎公立大学, 人文学部, 教授 (00275463)
籠橋 俊光  東北大学, 文学研究科, 准教授 (00312520)
東 昇  京都府立大学, 文学部, 准教授 (00416562)
久井 貴世  北海道大学, 文学研究院, 准教授 (00779275)
東 幸代  滋賀県立大学, 人間文化学部, 教授 (10315921)
森田 喜久男  淑徳大学, 人文学部, 教授 (10742132)
渡部 浩二  新潟県立歴史博物館, その他部局等, 研究員 (20373475)
伊藤 昭弘  佐賀大学, 地域学歴史文化研究センター, 教授 (20423494)
堀田 幸義  宮城教育大学, 教育学部, 教授 (20436182)
江藤 彰彦  久留米大学, 経済学部, 教授 (30140635)
兼平 賢治  東海大学, 文学部, 准教授 (30626742)
安田 章人  九州大学, 基幹教育院, 准教授 (40570370)
水野 裕史  筑波大学, 芸術系, 助教 (50617024)
武井 弘一  琉球大学, 国際地域創造学部, 准教授 (60533198)
相馬 拓也  京都大学, 白眉センター, 特定准教授 (60779114)
中澤 克昭  上智大学, 文学部, 教授 (70332020)
岩淵 令治  学習院女子大学, 国際文化交流学部, 教授 (90300681)
藤實 久美子  国文学研究資料館, 研究部, 教授 (90337907)
大坪 舞  佐世保工業高等専門学校, 基幹教育科, 講師 (00781098)
荻 慎一郎  高知大学, 教育研究部人文社会科学系人文社会科学部門, 教授 (60143070)
研究期間 (年度)2016-04-01 – 2021-03-31
研究課題ステータス完了 (2020年度)
配分額 *注記
44,330千円 (直接経費: 34,100千円、間接経費: 10,230千円)
2020年度: 6,110千円 (直接経費: 4,700千円、間接経費: 1,410千円)
2019年度: 10,140千円 (直接経費: 7,800千円、間接経費: 2,340千円)
2018年度: 8,970千円 (直接経費: 6,900千円、間接経費: 2,070千円)
2017年度: 10,140千円 (直接経費: 7,800千円、間接経費: 2,340千円)
2016年度: 8,970千円 (直接経費: 6,900千円、間接経費: 2,070千円)
キーワード鷹 / 鷹狩 / 鷹場 / 環境 / 生態系 / 狩猟 / 鷹書 / 鷹狩図 / 環境史 / 日本史 / 鷹場(狩場・猟場)) / 鷹狩文化 / 鷹場(猟場・禁漁区) / 鶴 / 鴨堀 / 日本列島 / 鷹狩美術 / 鷹場(狩場・猟場) / 鷹場(御猟場)
研究成果の概要

日本列島上において、鷹と人間は長い共生の歴史を歩んできた。また、5世紀の古墳時代から江戸幕府瓦解の19世紀後半に至るまで、鷹狩は権力と深く結び付きながら、連綿と続けられてきた。そこには、日本の風土や社会のなかで地域・時代・階層、あるいは狩猟の目的等にあわせて独自に発展してきた固有の歴史が存在する。本研究課題では、それらの通史的な展開を検討するとともに、近世になって全国的に設置された鷹場が環境に与えた影響やそこでの人々の生活について検討し、この二次環境としての鷹場が幕末に失われることで、近代化過程における環境破壊や生態系の変化といった問題が引き起こされるという重要な意義を問題提起した。

研究成果の学術的意義や社会的意義

本研究では、日本史を貫く重要な要素でありながら等閑視されてきた鷹狩の歴史を紐解き、自然界のタカが人間によって鷹という人為的存在となり、犬や馬とともに人間と長く共生してきた道程を日本列島上にフィールドを限定して解明した。とくに江戸時代に全国的に設置された鷹場が自然環境に与えた影響の大きさや中世から近世にかけて、鷹が鷂・隼から大鷹へと変化し、獲物も雉から鶴へと変化する意義などを新たに解明した。






2023年7月21日金曜日

出雲の国 熊谷軍団

 幼少時の追想の一つである。我が家に数名のお手伝いさんがおいでであった。その中のH様は私の中学時代に広島県にお嫁入されるまで、身近に接していただいた。遠足の弁当にしても家業で多忙な母に代わってゆで卵を持たせてくれ、水筒にサイダーを入れてくださったことも思い出す。

さて、熊谷軍団。そのHさんの実家が下熊谷であった。今は家も下熊谷の平地に移転なさっておいでだが、私がお尋ねしたH様の家は「グンダン」にあった。「ダンバル」の意味は不詳であったが、「ダンバルに行きたい」としばしばH様にせがんだと、後日、H様からからかわれた記憶が残っている。

千数百年前の歴史が口頭伝承として言い伝えられていた事例である。

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軍防令によると、20里(郷)ごとに一つの軍団が設置された。軍団は1000人で構成され、大毅1人と少毅2人、主帳1人(事務職)、校尉5人(各200人)、旅帥10人(各100人)、隊正月20人(各50人)、火長5人(各10人)、そして火別に荷馬が6頭備えられていた。そして軍団に勤務する兵士は100人単位で10日ずつ交代して勤務した。

 徴兵制であったので、兵士の食料などは自弁であった。武器や軍装などの詳細は不明。


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ところで、『出雲風土記』によると、

「意宇軍團、即属郡家。

熊谷軍團、飯石郡家東北廿九里一百八十歩。

神門軍團、郡家正東七里。」


とある。この飯石郡家は雲南市掛合町郡家付近であるという。

「熊谷郷 郡家東北廿六里。古老傳云、久志伊奈太美等與麻奴良比賣命、任身及将産時、求處生之。爾時、到来此處、詔、甚久々麻々志枳谷在、詔也。故云熊谷。」



島根県教育委員会HPよりの転載

 古代には地方を治めるために、国ごとに「国庁」がおかれ、さらに郡ごとに「郡家(ぐうけ)」がおかれました。現代で言えば、「国庁」は県庁に、「郡家」は市町村役場に当たります。現代と大きく違うのは、県知事に当たる国の長官(国司)は都から派遣されたことと、郡の役人(郡司)のうち上層部は終身その役を務めることです。
 出雲国庁は松江市大草町で発見されています。また神門郡家は出雲市古志町古志本郷遺跡で確認されています。松江市福原町芝原遺跡(嶋根郡家)と簸川郡斐川町後谷遺跡(出雲郡家)が郡家の可能性がある遺跡ですが、そのほかの郡家は見つかっていません。


役所名 

所在地・推定地 

遺跡名 

備 考 

出雲国庁 

松江市大草町史跡出雲国庁跡1968〜1970年発掘

意宇郡家 

松江市大草町史跡出雲国庁跡国庁に併設?

嶋根郡家 

松江市福原町芝原遺跡同東川津町納佐の説あり

秋鹿郡家 

松江市東長江町    

楯縫郡家 

出雲市多久町
多久灘周辺
    

出雲郡家 

簸川郡斐川町後谷遺跡・小野遺跡?  

神門郡家 

出雲市古志町古志本郷遺跡

  

飯石郡家 

雲南市掛合町

  

  

仁多郡家 

奥出雲町仁多

  

  

大原郡 

雲南市木次町里方

  

  


なお、林健亮氏による発掘調査報告は下記の通りである。

2001 『熊谷遺跡・要害遺跡』中国横断自動車道尾道松江線建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書13 


この報告書には、下熊谷の伝承は収録されていない。我が記憶にある団原の伝承地を案内したいと思うが、その体力に自信がない。

2023年7月17日月曜日

仙厓さんの名言ーー老人とは

 名言なり。傾聴すべし。

仙厓義梵(せんがいぎぼん)(1750‐1837)

「しわがよる、ほくろができる、腰がまがる、頭ははげる、ひげ白くなる、手はふるう、足はよろめく、くどくなる、聞きたがる、同じ話のくりかえし、達者自慢」

「老人六歌仙」収録

2023年7月5日水曜日

松前藩江戸藩邸

 松前藩江戸藩邸は、承応2(1653)年の“武州古改江戸図”によると浅草誓願寺前にあり、天和元(1681)年の“武鑑”にも「七千石、松前兵庫頭、元誓願寺前」となっている。

翌年火災によって焼失し、翌々3年浅草観音前に邸地千二百坪を拝領した。

さらに元禄11(1697)年の火災後、谷(やの)蔵に千百四十一坪を賜って移っている。

正徳5(1715)年幕臣細井佐治右衛門の邸地と交換し、下谷新寺町に移り、明治維新までこの地に居住した。この場所は現在の東京都台東区上野小島町に当る。




天保9(1838)年には本所大川端の津軽越中守邸を拝領して下屋敷とした。また、第十七世藩主崇廣が幕府老中となったときは、江戸城常盤橋門内の老中有馬道順邸跡を上屋敷として使用した。

 江戸藩邸が火災にあったのは、前後10回に及んでいる。
 天和2(1682)年12月28日
 元禄元(1688)年11月25日
 元禄13(1700)年3月
 元禄16(1703)年11月29日
 享保3(1718)年11月11日
 安永元(1772)年2月29日
 文化3(1806)年3月4日
 安政3(1856)年2月1日

モウル語通詞は中原家、シャム語通詞は森田家、そして東京語は魏家

 『通航一覧』巻百四十八には『長崎分限帳』を引き「遅羅通詞一人〇一同二百六十目、三人扶持、東京通詞一人01同二百目モウル通詞l人」と記す。

『長崎志編編』巻十八年表挙要)には、寛政7年〈1775)の条に

一「東京通詞魂五左衛門、遅羅通詞森田次太夫両人ヱ通辞書ヲ編輯し」

とあり、魏五平次の文書「乍恐口上書」(武藤文庫『古文書集』1、)に、

「右五左衛門奉顧侯通相違無御座候、何分通弁等為仕申度於私共二茂奉願侯、尚又私共儀得と人物等見置後年之書俸二茂仕度奉存候二付相対等御免被為成下候様重畳奉願侯 以上 天明年丁也 七月 モウル通詞中原松之介」

とあるように、モウル語通詞は中原家代々の通事職であった。

約40年前に実施した中原家に関する調査報告を収録したいが、その時間的猶予が我が人生に残されているか。


『通航一 覧』巻148、通事役諸国方の項 に, 

「裏 書  請取申御扶持方米事 

 合 八石一斗者     但京枡 

 右者 戌七月朔日より同十二 月晦日迄の御扶持方。日数百七十八日,異国通事三人、1人前に二石六斗七升五合、但。一 日に五合宛三人御扶持 方の積、講取 申處 

如件、 

寛文十年戌十二月

 しやむ ろ通事     うそ ん通事 

森田長助印       末永五郎助 印 

東京通事 東京久蔵 印 末次平蔵 殿 

表書 の通可被相渡候、断は東文有之候、以 上、

 戌十二月廿二日 河 権右衛門印 

末次平蔵殿 

右 異国通事は夏冬両度 に請取之」


とあり、また、『通航一覧』元禄6年(1693)8月4日 の条 に

「 右貮艘船(肥前松浦郡五島へ漂着した74番温州船 と 肥前彼杵郡大村へ 漂着 した75 番暹羅船) 御請取相済候而、早速 船より唐人共御下シ、西ニて御両殿様御立会、 御詮議被遊候、然者、暹羅船よりハ暹羅人四人、 扨 又、広南之男女十八人乗り参 候、 就夫、暹羅通事森田権左衛門、泉屋七三郎、森田甚兵衛、泉屋三助、東京通事東京久蔵、井喜も御呼被成、罷出候」

とある。これによって、

*シャム語通詞ー森田権左衛門、泉屋七三郎、森田甚兵衛、泉屋三助

*ベトナム通詞ー東京久蔵

だったと判明する。

その後、ベトナム語通詞は、、『会所日録』元禄12年(1699)3月27日 の条に,

「 魏五平次(東京久蔵の後 任。魏喜の日本名)去 冬ヨ リ願之儀、申入候、則チ東京久蔵明跡之願書二通、相調」

とあるように、ベトナム語通詞役創設時は東京久蔵であったが、その後、「魏五平次」が東京家を継承した。

ただし、東京久蔵にせよ、魏家にせよ、安南船に乗船したベトナム人船員との口語によるコミュニケーションを担当した。安南国からの書簡は漢文であったために、それは唐通事家が引き受けた。

なお、そもそも順治10年(承応2年、1653)に来日した東京貿易商で、しかも明人魏九官の僕であった魏五平次は、『 訳司統譜 』住宅唐人之覚に「東 京生れ」とある通り、ベトナム語を母語とする人間であったらしい。魏五平次は長崎市内の八幡町に居住しながら、元禄12年(1689)4月29日(『会所日録』)に正式に東京通詞職を継承した。そのころから、魏五平次の頭は月代であり、報酬は1年に銀10枚のみであった。

 このベトナム語通詞養成の書の一つが、長崎県立図書館渡辺文庫所蔵 『東京異詞 相護解 』((写 本1冊)(20)というベトナム語会話語彙集である。

 なお、その後継者であるのが第3代目が魏五平次、4代目が魏五左衛門、天保14年に襲職した五代目の魏豊太郎であった。



アイヌ語通訳山田文右衛門

 江戸時代、日本には中国語[唐)通事・朝鮮語通事・オランダ語通詞のほか、遅羅通詞・東京通詞、莫臥爾通詞がいた。

唐通事 と呼ぼれる が、唐事役諸国方 または異国通事 と総称 され る

①タ イ語 の通 訳官で ある逞羅(し やむろ ・しやむ)通 事,

②ベトナムの北部ハノイ一帯のベトナム語 の通訳官である東京通事,

③イ ン ドの ムガール帝国 の言語 モ ウル{「莫臥爾」)語の通訳官であるもうる通事

④ フ ィリピンのル ソンの言語 の通訳官 である 呂宋(うそん ・うすん)通 事

な ど東南 アジ アお よび南 アジアの諸 言語 を担 当する通事 が設置されて いた。


ここで注目したいのは、長崎と対馬に存在した通詞ではなく、北海道の松前藩に存在したアイヌ語通詞である。

:「通詞役山田文右衛門」

である。

松前藩の参勤交代(元禄5年のケース)

 八雲町史によれば、下記のとおりであるという。

第4章 松前藩の成立 (town.yakumo.hokkaido.jp)

「松前家の場合、在所が遠国で、これに要する費用も多くかかるので、対馬の宗氏と共に、特例として三年一覲が認められ、その後五年一覲となっているが、その時期は不明である。交代は主に秋10月松前を発し、翌年2~3月江戸から帰国することを例とした。
 出発の際は幕府から伝馬の令書と、儀衛に槍2槍を立てる五万石以上の格式をもっていた。この供揃は少くも170人以上の人数が必要で、その道中費用も嵩むところから、延宝2(1674)年、槍1本(五万石以下)にすることを許されている。槍1本の行列の場合は、その編成が80人程度である。藩創業当初参勤コースは松前から海を渡って、北津軽の小泊から津軽、秋田の領内を経て奥州街道を南下したが、“松前生水廣時日記”によれば、元禄5(1692)年藩主矩廣の帰国の際は、中仙道から宇都宮を経て奥州街道を北上し、青森からは東津軽を外ヶ浜(陸奥湾)添に進む松前街道を経て、津軽半島の突端の三厩に着き、ここから船で津軽海峡を渡航して松前に来着していて、この時期以降参勤交代はこのコースを利用している。この旅行の際は2月9日江戸を発足し、3月4日松前に帰着しているが、実質旅行日は26日を要しているが、降雨や海峡時化等の場合は40日も要することもあった。
 この元禄5年の旅行日程を見ると、


 2月9日江戸発 足粕壁泊 

10日中田昼、儘田泊、

11日小金井昼、宇都宮泊、

12日喜連川昼、太田原泊、

13日蘆野昼、白川泊、

14日須ヶ川昼、郡山泊、

15日本宮昼、8丁目泊、

16日桑析昼、白石泊、

17日築貫昼、仙台泊、

18日吉岡昼、古川泊、

19日築館昼、金成泊、

20日前沢昼、水沢泊、

21日鬼柳昼、花巻泊、

22日幸利昼、盛岡泊、

23日澁民昼、沼久内泊、

24日一戸泊、

25日三戸昼、五戸泊、

26日七戸昼、野辺地泊、」

27日小湊昼、青森泊、

28日蟹田昼、平館泊、

29日今別昼、三馬屋着、

30日~3月3日までの4日間風待ち、

3月4日東風天気能、別状なく昼四ツ時(午前10時)松前御安着。

となっている。

その間は朝七ツ時(午前4時)より六ツ時(午前6時)に出発し、夕八ツ時(午後2時)から七ツ時(午後4時)まで徒歩行進で、1日凡そ30キロ(七里半)程度の行進であるから、かなりの健脚者ばかりであったようである。」


このうちで、2日目の「儘田」宿は日光街道にある。間々田宿ともいう。現在の栃木県小山市間々田。江戸から18里34町(74.4km)、野木宿から1里21町(6.2km)、江戸から11番目の宿場町。元和4年(1618)に宿駅となるや、将軍の日光参拝は言うまでもなく、大名の参勤交代に利用された。

「天保14年(1843)の調べによれば、宿内の長さは南北9町50間(約1.1km)、宿内人別は947人(男440・女507)、家数175軒、宿内の上・中町に本陣・脇本陣各1軒があり、旅籠は50軒あった」という。





宇都宮宿本陣

宇都宮宿は日光街道および奥州街道の17番目の宿駅である。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町といわれている。」

天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であったという。

宇都宮宿の本陣は、次のとおりであるので、いずれかに宿泊したらしい

  • 本陣上野新右衛門、脇本陣(伝馬町)
  • 本陣石塚次郎兵衛(池上町)


2023年7月3日月曜日

太田南畝 In Osaka

 ○ 3月 21日難波御堂・座摩社・津村御堂・御霊社 ○ 3月 22日 寺横) ・自安寺・瑞竜寺 道頓堀大芝居・千日寺・法善寺・竹林寺(法善 ○ 3月 25日 融寺 院・曾根崎新地・露天神・法清寺・神明宮・大 上天神(福島) ・野田藤・妙徳寺・久安寺・了徳 ○ 3月 26日 勝鬘院・毘沙門堂・家隆卿塚・浄国寺 申堂・一心寺・茶臼山・新清水寺・浮瀬 (酒楼) ・ 月江寺・四天王寺・松屋 (茶屋) ・崇峻天皇社・庚 真言坂・桜本坊・弁天社・北向八幡宮・生玉社・ ○ 3月 28日広田社・今宮社 ○ 3月 29日高津社・円珠庵 ○ 3月 30日 波除山・三社宮・天満宮御旅所 四ツ橋・和光寺・竹林寺(衢壌島) ・茨住吉社・ ○ 4月5日 鵺塚・桜宮・大長寺・京橋・神明宮 天満宮・興正寺・川崎御宮・母恩寺・十五社・ ○ 4月8日 王寺・清寿院(関帝堂ともいう) ・土塔宮・万代 孔雀茶屋・遊行寺(芭蕉墓あり) ・合法辻・四天池・堀越社・安井天神・福屋(茶屋) ・音羽屋 ○ 4月 11日座摩社・津村御堂 ○ 4月 14日 法善寺(三勝墓あり) 三津八幡宮・難波牛頭天王社・月江院・瑞竜寺・ ○ 4月 15日庚申堂・椎寺・多門院(薬店) ○ 4月 16日国分寺・正徳寺・鶴満寺・源光寺 ○ 4月 17日川崎御宮 ○ 4月 21日 庵墓・西鶴墓あり) 寺・大応寺・心眼寺・天然寺・誓願寺(中井甃 森宮・真田山(仁徳天皇宮・稲荷社あり) ・興徳 ○ 4月 26日 住吉社 天下茶屋(是斎薬店あり) ・安養寺・住吉新家・ ○ 5月5日鶯塚・源立寺・崇禅寺・江口・柴島 ○ 5月 20日難波御堂 ○ 5月 23日安治川・安治川橋・船番所 ○ 5月 28日奥天神・大海神社・住吉社(当日は御田植神事) ○ 6月4日御船屋・澪標 ○ 6月 13日難波牛頭天王社(当日は夏祭の夜宮) ○ 6月 15日三津八幡宮(当日は夏祭) ・三津寺○ 6月 16日難波橋(当日は御霊社の夏祭の夜宮) ○ 6月 17日御霊社(当日は夏祭) ○ 6月 20日津村御堂 ○ 6月 21日上難波仁徳天皇宮(当日は夏祭) ○ 6月 22日座摩社(当日は夏祭) ○ 6月 24日難波橋(当日は天満宮の夏祭の夜宮) ○ 6月 25日大江橋付近の岸辺(当日は天満宮の夏祭) ○ 6月 29日住吉新家・住吉社(当日は住吉社の夏越大祓) ○ 7月7日 分寺・相坂清水 津橋・漁父淵・茨葎大明神・岡山・舎利寺・国 産湯清水・稲荷社・姫古曾社・岩船旧跡・猪甘 茶湯地蔵・豊津稲生社・仁徳天皇宮・味原池・ ○ 8月 13日東光院・天真庵 ○ 8月 15日興正寺・鍋島藩蔵屋敷(当日は稲荷祭) ○ 9月3日 如上人筆の招牌あり) 輿火替所・妙国寺・常楽寺・乳守遊郭・酒楼 (蓮 屋、笠松あり) ・関帝堂(亀林寺境内) ・住吉神 ともいう) ・経塚・播磨塚・万代池・難波屋(茶 大乗坊・松虫塚・王子社・北畠顕家墓(大名塚 ○ 9月 13日住吉社(当日は相撲会) ・丸屋(酒楼○ 9月 15日四天王寺(当日は六時堂念仏会) ○ 9月 25日天満宮(当日は秋祭) ○ 9月 29日 御祓) 是斎薬店・閻魔地蔵尊・住吉社(当日は玉出島 ○ 10月 14日食氏山荘(春日出新田にあり) ○ 10月 22日五条宮・寿法寺(栗柯亭木端墓あり) ・法住寺 ○ 10月 23日商家(天満宮前にあり) ・興正寺 ○ 10月 25日四貫島(観音堂・住吉社あり) ・西光寺・宝泉寺 ○ 12月5日四天王寺(落雷により焼失) ○ 12月 23日広教寺・博労淵

富山藩主の参勤交代(12泊13日のハード旅行)

 富山藩主の参勤交代

江東区教育委員会所蔵の近藤家文書には、富山藩主の参勤交代のルートなどを知る記録がある。

Time is moneyである。旅行が長引けば長引くほど、路銀はかさむからである。

合言葉は「急げ」だったに違いない。






「十三泊御泊十四振御道割」
《江東区教育委員会所蔵 近藤家文書より》






参勤のルート この文書によると、富山藩の参勤のルートは、北陸・北国街道を経て、追分から江戸までは中山道を通るものでした。また富山から13泊し、14日目で江戸に到着しています。


 文書の記載に基づいて、地図上にその道筋を表すと、左のようになります。


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ちなみに富山藩江戸屋敷は、次の通りである。



(国元富山と江戸藩邸を結ぶ道)
参勤交代
 
富山藩江戸藩邸の概要
寛永12(1635)年に「武家諸法度」の改定で、外様大名は在府一年四月交代という「参勤交代制度」が定められました。このために諸大名は江戸での居住が必要となり、各藩邸が整備されました。
 
1上屋敷文京区本郷及び台東区池之端にまたがる東京大学本郷構内地区に位置します。藩主が公務を行う公的空間と藩主やその家族、家臣団が居住する施設があり、富山藩・大聖寺藩は本家である加賀藩の屋敷地の一部を貸与されていました。
2中屋敷台東区池之端2丁目、上屋敷から直線距離で200mのところに位置し、東隣には不忍池があります。隠居した藩主の正室や世子の邸宅として使用されました。
3下屋敷台東区北上野2丁目に位置し、「浅草御屋敷」と呼ばれていました。隠居した藩主や家督相続前の世子の邸宅として使用された他、休息用の別邸や罹災りさい時の避難用住宅として用いられました。
4かかえ屋敷上・中・下屋敷で足りない場合には近郊の田畑などを買い取って「抱屋敷」とすることもありました。
富山藩は、天保15(1844)年から安政2(1855)年のわずか10年余りですが、巣鴨村に「巣鴨御屋敷」と呼ばれる抱屋敷を所有していました。現在の文京区大塚4丁目・豊島区南大塚2丁目にあたります。
 
富山藩は分家の中で最も家格が高く、参勤交代では加賀藩と入れ違いで江戸・国元を行き来するため、重要な局面では加賀藩の名代も勤めていました。参勤交代は、当初四月交代でしたが、元禄6(1693)年から八・九月に変更されています。
参考文献
小松愛子2015「文献・絵図資料にみる富山藩江戸屋敷」『東京大学構内遺跡調査研究年報9』
 栗三直隆2008「富山藩の江戸屋敷」『富山市日本海文化研究所紀要』第21号
各藩邸の位置
各藩邸の位置
(国土交通省国土地理院 所蔵2011『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京測量原図』下図に引用)