富山藩主の参勤交代
江東区教育委員会所蔵の近藤家文書には、富山藩主の参勤交代のルートなどを知る記録がある。 |
Time is moneyである。旅行が長引けば長引くほど、路銀はかさむからである。
合言葉は「急げ」だったに違いない。
「十三泊御泊十四振御道割」
《江東区教育委員会所蔵 近藤家文書より》
| この文書によると、富山藩の参勤のルートは、北陸・北国街道を経て、追分から江戸までは中山道を通るものでした。また富山から13泊し、14日目で江戸に到着しています。
文書の記載に基づいて、地図上にその道筋を表すと、左のようになります。
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ちなみに富山藩江戸屋敷は、次の通りである。
(国元富山と江戸藩邸を結ぶ道) |
参勤交代 |
| 富山藩江戸藩邸の概要 | 寛永12(1635)年に「武家諸法度」の改定で、外様大名は在府一年四月交代という「参勤交代制度」が定められました。このために諸大名は江戸での居住が必要となり、各藩邸が整備されました。 | | 1 | 上屋敷 | 文京区本郷及び台東区池之端にまたがる東京大学本郷構内地区に位置します。藩主が公務を行う公的空間と藩主やその家族、家臣団が居住する施設があり、富山藩・大聖寺藩は本家である加賀藩の屋敷地の一部を貸与されていました。 | 2 | 中屋敷 | 台東区池之端2丁目、上屋敷から直線距離で200mのところに位置し、東隣には不忍池があります。隠居した藩主の正室や世子の邸宅として使用されました。 | 3 | 下屋敷 | 台東区北上野2丁目に位置し、「浅草御屋敷」と呼ばれていました。隠居した藩主や家督相続前の世子の邸宅として使用された他、休息用の別邸や罹災時の避難用住宅として用いられました。 | 4 | 抱屋敷 | 上・中・下屋敷で足りない場合には近郊の田畑などを買い取って「抱屋敷」とすることもありました。 富山藩は、天保15(1844)年から安政2(1855)年のわずか10年余りですが、巣鴨村に「巣鴨御屋敷」と呼ばれる抱屋敷を所有していました。現在の文京区大塚4丁目・豊島区南大塚2丁目にあたります。 |
| | 富山藩は分家の中で最も家格が高く、参勤交代では加賀藩と入れ違いで江戸・国元を行き来するため、重要な局面では加賀藩の名代も勤めていました。参勤交代は、当初四月交代でしたが、元禄6(1693)年から八・九月に変更されています。 | 参考文献 | | 小松愛子2015「文献・絵図資料にみる富山藩江戸屋敷」『東京大学構内遺跡調査研究年報9』 | | 栗三直隆2008「富山藩の江戸屋敷」『富山市日本海文化研究所紀要』第21号 |
| | 各藩邸の位置 (国土交通省国土地理院 所蔵2011『参謀本部陸軍測量局 五千分一東京測量原図』下図に引用) |
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