2023年7月5日水曜日

モウル語通詞は中原家、シャム語通詞は森田家、そして東京語は魏家

 『通航一覧』巻百四十八には『長崎分限帳』を引き「遅羅通詞一人〇一同二百六十目、三人扶持、東京通詞一人01同二百目モウル通詞l人」と記す。

『長崎志編編』巻十八年表挙要)には、寛政7年〈1775)の条に

一「東京通詞魂五左衛門、遅羅通詞森田次太夫両人ヱ通辞書ヲ編輯し」

とあり、魏五平次の文書「乍恐口上書」(武藤文庫『古文書集』1、)に、

「右五左衛門奉顧侯通相違無御座候、何分通弁等為仕申度於私共二茂奉願侯、尚又私共儀得と人物等見置後年之書俸二茂仕度奉存候二付相対等御免被為成下候様重畳奉願侯 以上 天明年丁也 七月 モウル通詞中原松之介」

とあるように、モウル語通詞は中原家代々の通事職であった。

約40年前に実施した中原家に関する調査報告を収録したいが、その時間的猶予が我が人生に残されているか。


『通航一 覧』巻148、通事役諸国方の項 に, 

「裏 書  請取申御扶持方米事 

 合 八石一斗者     但京枡 

 右者 戌七月朔日より同十二 月晦日迄の御扶持方。日数百七十八日,異国通事三人、1人前に二石六斗七升五合、但。一 日に五合宛三人御扶持 方の積、講取 申處 

如件、 

寛文十年戌十二月

 しやむ ろ通事     うそ ん通事 

森田長助印       末永五郎助 印 

東京通事 東京久蔵 印 末次平蔵 殿 

表書 の通可被相渡候、断は東文有之候、以 上、

 戌十二月廿二日 河 権右衛門印 

末次平蔵殿 

右 異国通事は夏冬両度 に請取之」


とあり、また、『通航一覧』元禄6年(1693)8月4日 の条 に

「 右貮艘船(肥前松浦郡五島へ漂着した74番温州船 と 肥前彼杵郡大村へ 漂着 した75 番暹羅船) 御請取相済候而、早速 船より唐人共御下シ、西ニて御両殿様御立会、 御詮議被遊候、然者、暹羅船よりハ暹羅人四人、 扨 又、広南之男女十八人乗り参 候、 就夫、暹羅通事森田権左衛門、泉屋七三郎、森田甚兵衛、泉屋三助、東京通事東京久蔵、井喜も御呼被成、罷出候」

とある。これによって、

*シャム語通詞ー森田権左衛門、泉屋七三郎、森田甚兵衛、泉屋三助

*ベトナム通詞ー東京久蔵

だったと判明する。

その後、ベトナム語通詞は、、『会所日録』元禄12年(1699)3月27日 の条に,

「 魏五平次(東京久蔵の後 任。魏喜の日本名)去 冬ヨ リ願之儀、申入候、則チ東京久蔵明跡之願書二通、相調」

とあるように、ベトナム語通詞役創設時は東京久蔵であったが、その後、「魏五平次」が東京家を継承した。

ただし、東京久蔵にせよ、魏家にせよ、安南船に乗船したベトナム人船員との口語によるコミュニケーションを担当した。安南国からの書簡は漢文であったために、それは唐通事家が引き受けた。

なお、そもそも順治10年(承応2年、1653)に来日した東京貿易商で、しかも明人魏九官の僕であった魏五平次は、『 訳司統譜 』住宅唐人之覚に「東 京生れ」とある通り、ベトナム語を母語とする人間であったらしい。魏五平次は長崎市内の八幡町に居住しながら、元禄12年(1689)4月29日(『会所日録』)に正式に東京通詞職を継承した。そのころから、魏五平次の頭は月代であり、報酬は1年に銀10枚のみであった。

 このベトナム語通詞養成の書の一つが、長崎県立図書館渡辺文庫所蔵 『東京異詞 相護解 』((写 本1冊)(20)というベトナム語会話語彙集である。

 なお、その後継者であるのが第3代目が魏五平次、4代目が魏五左衛門、天保14年に襲職した五代目の魏豊太郎であった。



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