幼少時の追想の一つである。我が家に数名のお手伝いさんがおいでであった。その中のH様は私の中学時代に広島県にお嫁入されるまで、身近に接していただいた。遠足の弁当にしても家業で多忙な母に代わってゆで卵を持たせてくれ、水筒にサイダーを入れてくださったことも思い出す。
さて、熊谷軍団。そのHさんの実家が下熊谷であった。今は家も下熊谷の平地に移転なさっておいでだが、私がお尋ねしたH様の家は「グンダン」にあった。「ダンバル」の意味は不詳であったが、「ダンバルに行きたい」としばしばH様にせがんだと、後日、H様からからかわれた記憶が残っている。
千数百年前の歴史が口頭伝承として言い伝えられていた事例である。
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軍防令によると、20里(郷)ごとに一つの軍団が設置された。軍団は1000人で構成され、大毅1人と少毅2人、主帳1人(事務職)、校尉5人(各200人)、旅帥10人(各100人)、隊正月20人(各50人)、火長5人(各10人)、そして火別に荷馬が6頭備えられていた。そして軍団に勤務する兵士は100人単位で10日ずつ交代して勤務した。
徴兵制であったので、兵士の食料などは自弁であった。武器や軍装などの詳細は不明。
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ところで、『出雲風土記』によると、
「意宇軍團、即属郡家。
熊谷軍團、飯石郡家東北廿九里一百八十歩。
神門軍團、郡家正東七里。」
とある。この飯石郡家は雲南市掛合町郡家付近であるという。
「熊谷郷 郡家東北廿六里。古老傳云、久志伊奈太美等與麻奴良比賣命、任身及将産時、求處生之。爾時、到来此處、詔、甚久々麻々志枳谷在、詔也。故云熊谷。」
島根県教育委員会HPよりの転載
古代には地方を治めるために、国ごとに「国庁」がおかれ、さらに郡ごとに「郡家(ぐうけ)」がおかれました。現代で言えば、「国庁」は県庁に、「郡家」は市町村役場に当たります。現代と大きく違うのは、県知事に当たる国の長官(国司)は都から派遣されたことと、郡の役人(郡司)のうち上層部は終身その役を務めることです。 出雲国庁は松江市大草町で発見されています。また神門郡家は出雲市古志町古志本郷遺跡で確認されています。松江市福原町芝原遺跡(嶋根郡家)と簸川郡斐川町後谷遺跡(出雲郡家)が郡家の可能性がある遺跡ですが、そのほかの郡家は見つかっていません。 |
役所名 | 所在地・推定地 | 遺跡名 | 備 考 |
出雲国庁 | 松江市大草町 | 史跡出雲国庁跡 | 1968〜1970年発掘 |
意宇郡家 | 松江市大草町 | 史跡出雲国庁跡 | 国庁に併設? |
嶋根郡家 | 松江市福原町 | 芝原遺跡 | 同東川津町納佐の説あり |
秋鹿郡家 | 松江市東長江町 | ||
楯縫郡家 | 出雲市多久町 多久灘周辺 | ||
出雲郡家 | 簸川郡斐川町 | 後谷遺跡・小野遺跡? | |
神門郡家 | 出雲市古志町 | 古志本郷遺跡 |
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飯石郡家 | 雲南市掛合町 |
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仁多郡家 | 奥出雲町仁多 |
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大原郡 | 雲南市木次町里方 |
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なお、林健亮氏による発掘調査報告は下記の通りである。
2001 『熊谷遺跡・要害遺跡』中国横断自動車道尾道松江線建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書13
この報告書には、下熊谷の伝承は収録されていない。我が記憶にある団原の伝承地を案内したいと思うが、その体力に自信がない。
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