2023年7月5日水曜日

松前藩の参勤交代(元禄5年のケース)

 八雲町史によれば、下記のとおりであるという。

第4章 松前藩の成立 (town.yakumo.hokkaido.jp)

「松前家の場合、在所が遠国で、これに要する費用も多くかかるので、対馬の宗氏と共に、特例として三年一覲が認められ、その後五年一覲となっているが、その時期は不明である。交代は主に秋10月松前を発し、翌年2~3月江戸から帰国することを例とした。
 出発の際は幕府から伝馬の令書と、儀衛に槍2槍を立てる五万石以上の格式をもっていた。この供揃は少くも170人以上の人数が必要で、その道中費用も嵩むところから、延宝2(1674)年、槍1本(五万石以下)にすることを許されている。槍1本の行列の場合は、その編成が80人程度である。藩創業当初参勤コースは松前から海を渡って、北津軽の小泊から津軽、秋田の領内を経て奥州街道を南下したが、“松前生水廣時日記”によれば、元禄5(1692)年藩主矩廣の帰国の際は、中仙道から宇都宮を経て奥州街道を北上し、青森からは東津軽を外ヶ浜(陸奥湾)添に進む松前街道を経て、津軽半島の突端の三厩に着き、ここから船で津軽海峡を渡航して松前に来着していて、この時期以降参勤交代はこのコースを利用している。この旅行の際は2月9日江戸を発足し、3月4日松前に帰着しているが、実質旅行日は26日を要しているが、降雨や海峡時化等の場合は40日も要することもあった。
 この元禄5年の旅行日程を見ると、


 2月9日江戸発 足粕壁泊 

10日中田昼、儘田泊、

11日小金井昼、宇都宮泊、

12日喜連川昼、太田原泊、

13日蘆野昼、白川泊、

14日須ヶ川昼、郡山泊、

15日本宮昼、8丁目泊、

16日桑析昼、白石泊、

17日築貫昼、仙台泊、

18日吉岡昼、古川泊、

19日築館昼、金成泊、

20日前沢昼、水沢泊、

21日鬼柳昼、花巻泊、

22日幸利昼、盛岡泊、

23日澁民昼、沼久内泊、

24日一戸泊、

25日三戸昼、五戸泊、

26日七戸昼、野辺地泊、」

27日小湊昼、青森泊、

28日蟹田昼、平館泊、

29日今別昼、三馬屋着、

30日~3月3日までの4日間風待ち、

3月4日東風天気能、別状なく昼四ツ時(午前10時)松前御安着。

となっている。

その間は朝七ツ時(午前4時)より六ツ時(午前6時)に出発し、夕八ツ時(午後2時)から七ツ時(午後4時)まで徒歩行進で、1日凡そ30キロ(七里半)程度の行進であるから、かなりの健脚者ばかりであったようである。」


このうちで、2日目の「儘田」宿は日光街道にある。間々田宿ともいう。現在の栃木県小山市間々田。江戸から18里34町(74.4km)、野木宿から1里21町(6.2km)、江戸から11番目の宿場町。元和4年(1618)に宿駅となるや、将軍の日光参拝は言うまでもなく、大名の参勤交代に利用された。

「天保14年(1843)の調べによれば、宿内の長さは南北9町50間(約1.1km)、宿内人別は947人(男440・女507)、家数175軒、宿内の上・中町に本陣・脇本陣各1軒があり、旅籠は50軒あった」という。





宇都宮宿本陣

宇都宮宿は日光街道および奥州街道の17番目の宿駅である。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町といわれている。」

天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であったという。

宇都宮宿の本陣は、次のとおりであるので、いずれかに宿泊したらしい

  • 本陣上野新右衛門、脇本陣(伝馬町)
  • 本陣石塚次郎兵衛(池上町)


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