2025年7月25日金曜日

山城国葛野郡高田郷三条高粟田里16坪にある3筆の土地文書ーー『平安遺文』90・92・93・100・118・119

以下は、『角川歴史地名大辞典』京都・高田郷の項目 によって知った史実を契機に書き始めた拙稿である。


「『平安遺文』909293100118119は、いずれも葛野郡高田郷三条高粟田里16坪にある3筆の土地文書である。現在の京都市右京区嵯峨野高田町付近と推定される3筆の土地はいずれも高田郷戸主正六位秦忌寸殿主の戸口春宮史生大初位上秦忌寸永岑が買い集めた隣接しあった土地であるという。」

だからこそ、天長5年(828)に作成された「山城国葛野郡班田図」(成簣堂文庫、お茶の水図書館蔵)に

①葛野郡一条大井里19坪山本田1反高田郷戸主秦忌寸永成墾田,

②二条大山田里5坪岡本田1反164歩高田郷戸主秦三助墾田,

③二条小社里29坪畠140歩高田郷戸主某

の記載も興味深いのは、

第1の嘉祥2年7月29日付高田郷長解の地245歩は左京五条三坊戸主秦木継の戸口同姓縄子が売却したものであるが,もともと己子橋頭郷戸主朝原宿禰河雄の戸口同姓魚麻呂の得処分地を生活の便がなくなったために売ったもの(根岸文書/平遺90)。

 この朝原宿祢河雄の前の姓は秦である。したがって、この売買も秦氏一族内で行われた。


第2の嘉祥2年1120日付高田郷長解(柏木氏所蔵文書/平遺92)・同21日付秦忌寸鯛女家地立券文(根岸文書/平遺93)の地1反は,川辺郷戸主正八位上秦忌寸冬守の戸口同姓鯛女が故夫秦黒人先祖の地を己之男子(つまり黒人と鯛女の子)秦大野に処分した家地を売ったものである。

第3の嘉祥4年2月27日付高田郷長解(根岸文書/平遺100)の地200歩は左京1坊戸主葛野宮継の戸口同姓飯刀自女が自分の家地を売却したものであった。


このように、葛野郡高田郷一帯の住民の多くは秦氏であったと推定され、秦氏同士で、いわば身内間で土地の売買を行ったらしい。

 昔から有名な太秦のみならず、そこに隣接する地においても渡来系住民が多数を占めて居住していた状況の一端を知ることができたのは幸いであった。


ちなみに戸主は「正六位秦忌寸殿主」であり、その戸口に属していたのが「春宮史生大初位上秦忌寸永岑」。

 では、正六位秦忌寸殿主


問題の土地3筆は正六位秦忌寸殿主の戸口に属する忌み居

2025年7月23日水曜日

朝原姓のルーツは、秦氏

様々な憶測の上に立って、姓氏のルーツを記述するサイトを目にする。

ここで、朝原姓のルーツを解明するわけではないが、一つの手がかかりを提供するに過ぎない。


『続日本後紀』 承和3年閏5月壬午条に

壬午、右京少屬-忌寸-安麻呂、造檀林寺使主典-同姓-家繼等、賜姓-朝原宿禰」

とあり、造檀林寺使主典の秦家継朝原宿祢の名を賜る

つまり、朝原姓のルーツは秦氏である。つまり朝鮮半島系渡来人である。

2025年7月21日月曜日

「戊戌年」の妙心寺銅鐘をめぐる言い伝え

 有名な京都 妙心寺銅鐘には、銘文が「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連広国鋳鐘」と陽鋳されている(chi10_04611.pdf )ことで有名である。この文面には「戊戌年」とあり、年号年次なく、ただ干支のみである。この

戊戌年」は698年だと推定されている。

いま、本欄で紹介したのは、「糟屋評造春米連広国」が発願者の名とも鋳物師の名ともある論争に参加することではなく、なぜ妙心寺に所蔵されるに至ったかを知る言い伝えである。

 問題の所在は、なぜ、臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺(1336年創建)に「糟屋評造春米連広国」の銅鐘(698年製作課か?)が存在するのかという点である。

 妙心寺そのものは花園法皇 の 離宮花園殿を土台に、建武3年 (1336)に 関山慧玄(無相大師) を開山に請じ禅寺として創建された。 その後, 応永六年 (1399)に将軍足利義満によって 、一時廃絶した状態に 陥った。永享四年(1432) に 至り、 妙心寺の 再 建に着手されたが、応仁の 乱によって兵火に見舞われた。乱後 に雪江宗深の手で再建された寺史は、今さら追記する事柄はない。

 しかしなぜ、そもそも1336年建立の禅寺妙心寺に「戊戌年」(698年)陽刻の銅製の梵鐘が掛けられているかは、不可解である。つまり戊戌年」銅製の梵鐘は別な場所から搬入されて、妙心寺に現蔵されていると考えなくてはならない。

その手掛かりを「名所図会」に偶見したので、それを紹介したい。

言い伝えとして、

「右都て一行廿二字に鐫ず。戊戌の年暦分明ならず、糟屋は筑前州の 郡名なり。評は地名、造はミヤツコなり、舂米は氏にして、連はム ラジ、広国は名なり。寺説に云、此鐘は嵯峨浄金剛院の鐘なり、此寺 久しく荒廃して鐘も民間の手にあり。ある時妙心寺の前を擔ふて京 師に出る者あり、開山国師これを見咎て云く、其鐘は何れより何れ へ持行ぞや。鐘主の云く、われらは嵯峨浄金剛院の古跡に棲て農 なり、此鐘村中に久しく持伝へしが、今日京師に出し農具鋤鍬の類 に交易せん為め持行なり。国師悦んで幸に此寺にいまだ鳬鐘なし我 に譲り与へよと、頼給へば。農人悦んで鳥目一貫文に売て嵯峨へ帰る。 それより国師嵯峨に至り、浄金剛院の鐘なる事を糺し、ここに掲る なり。](『都林泉名勝図会』巻之二)

とある。

 ちなみに嵯峨浄金剛院は京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(現在の天龍寺の位置)にかつて建立された寺。後嵯峨上皇が檀林寺の跡地に建立した亀山殿の別院であった。

すなわち妙心寺現蔵の「戊戌年」陽刻銅鐘は、妙心寺の言い伝えではもともと「此鐘は嵯峨浄金剛院」旧蔵であった。

その浄金剛院に関しては、『WEB版新纂浄土宗大辞典』に下記の説明がある。

「じょうこんごういん/浄金剛院

京都嵯峨にあった浄土宗西山派嵯峨流の寺院。一三世紀中頃(建長年間)、後嵯峨上皇が檀林寺の廃墟に一寺を建立し、西山派祖証空弟子道観証慧開山とし、康元元年(一二五六)上皇が臨幸して供養する。以後、証慧はこの寺において大いに西山教義弘通ぐずうに努める。とくに善導観経疏』に関する注釈書を撰述し、盛んに講筵をはる。世にこの門流を浄金剛院流(または嵯峨流)という。文永元年(一二六四)証慧の入寂後、覚道や円道など代々碩学が住持する。後世、嵯峨二尊院境内に移り、漸次に廃れ、現在は廃絶してわずかにその寺名を残すのみである。


【参照項目】➡嵯峨義


【執筆者:中西随功】」

浄金剛院 - 新纂浄土宗大辞典





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妙心寺銅鐘

文化遺産データベース


工芸品 / 奈良

  • 奈良 / 698
  • 高さに対する口径の割合を少なくし、中帯と撞座の位置が頗る高く、乳は乳頭が大きくて四段七列に密接して置かれ、華麗な連続唐草文のある上下帯をもっって鐘身の上下を画し、下端には駒爪なく條線があるのみである。
    竜頭は細長くて、宝珠は小さく、装飾文化した火焔が著しい。撞座以下をほとんど直線とした鐘身の形状や高い位置に中帯を回らしたり、乳の間の密接した大きな乳などにより、姿態の中心を上方にして懸垂の安定感をよく表している。撞身の内面縦に陽刻名がある。
  • 総高151.0 竜頭高27.6 身高118.0 撞座中心高49.1 口径86.0 口厚5.3 (㎝)
  • 1口
  • 重文指定年月日:19020731
    国宝指定年月日:19510609
    登録年月日:
  • 妙心寺
  • 国宝・重要文化財(美術品)

わが国最古の紀年名を有することで著名な鐘であり、銘文中の戊戌年は文武天皇即位二年(698)に当たると考えられ、糟屋評は現福岡県にあった郡銘である。
高さに比べて口径が小さく、胴張りの少ない長身瀟洒な鐘である。撞座の蓮華文、上下帯の唐草文など肉取りよく、駒の爪は二条の紐を回らせたもので古式であり、端正な形姿に典麗な装飾を施した名鐘である。

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 それでは、檀林寺とは何か。

2025年7月12日土曜日

参勤交代記録リストの一部

 

具体的な記録例


藩名

藩主

年代

記録内容


(1)福井藩

松平慶永

1839〜1867年

御道中日記に旅程・費用・宿泊地など詳記録


(2)広瀬藩

 松平直巳

1865年(元治2年)

29日間の旅程と宿泊地一覧


『旧島根県史編纂資料 近世筆写編』187-191巻に広瀬藩主各代の系譜あり。



(3)薩摩藩       摩藩

島津斉彬

1851年(嘉永4年)

47泊48日の参勤交代記録、費用・行列構成



(4)萩藩

毛利重就

1752年

(宝暦2年)



江戸から萩までの道中記録

⇒,1752(宝暦2)年,7代萩藩主毛利重就が初入国した時 の江戸から萩までの道中の記録。  4月28日に江戸出発し、6 月1 日に萩到着。総勢549 名のパレード

3-2-1-030.pdf



出雲の国 広瀬藩の参勤交代の場合

 広瀬藩

(1)参勤交代ルート

広瀬藩邸→石原→植田→中島→矢田→鍵尾峠→折坂→伯太川→清水峠→門生追分→吉佐→伯耆溝口→美作新庄→姫路→西宮→伏見→守山→東海道経由


(2)広瀬藩江戸上屋敷:東京都新宿区四谷一丁目12番地付近

 (3)行列の規模

 人数:通常は40人前後(士分30人内外+卒10余

(4)初代藩主・松平近栄から10代・松平直巳まで、206年間で計32回の参勤交代

  • 伊予松山藩主、明石海峡で海難事故

    江戸時代では、 


    伊予松山藩の海難事故(天明2年)

    • 発生日時:天明2年(1782年)3月11日
    • 場所:播州・東塩屋沖(現在の兵庫県明石市付近)
    • 状況
      • 松山藩主・松平定国が参勤交代の途上で乗船中、大風により船が難破寸前となる
      • 一行は垂水で上陸し、陸路で大阪へ向かい、4月9日に江戸着
      • 御膳番の小田卯左衛門が御飯桶を抱えて藩主に付き添った忠義が称賛され、褒美を賜った
    • <史料>

    この事故は『松山叢談』(明治11年に秋山久敬、尾崎久愷により久松家、旧藩士の家に伝わる文書類をもとに作成された歴代藩主の治政中の出来事を編年的に記した200余年の松山藩史の記録、臨川書店、p323)、『垂憲録拾遺』(「垂憲録」は松山藩士伊藤充之がひろく文献を渉猟して編年体に編集。「垂憲録拾遺」は竹内信英の編集で、天保期までに及ぶ。)、『却睡草』(「却睡草」は松山藩儒安井熙載の著で176のエピソード集。国会図書館デジタルライブラリー https://dl.ndl.go.jp/pid/9775822  )

  • ①「松山叢談第十上 瑞龍院殿定國公」に以下の記述あり(p323)
    ○天明二年壬寅三月十一日松山御出船同十八日播州東塩屋沖にて御難船の處御無難同所垂水より御船揚同二十日大阪御着四月九日江戸御着 某家記
     垂憲録拾遺云右御難船の節膳番小田卯左衛門御飯桶を手に取り付添奉り御供の船奉行松野次郎左衛門腰物を龍宮へ献じたりと云 却睡草に云此時小田卯左衛門心得前宜敷趣御賞詞にて御褒美被下しと也

  • ②「垂憲録拾遺」の「定国公」に以下の記述あり(p177)
    ○公始テ御参勤ノ節、播州明石辺ニテ大風御危難ノ時、御膳番小田卯左衛門御飯桶ヲ手ニ取付添奉ル、御供ノ船奉行松野次郎左衛門腰物ヲ龍宮エ献タリト云、右ハ天明二寅三月中旬ノ事也、

    ③瑞龍公(定国)について書かれた部分に以下の記述あり(p27)
    ○公、何の年にや播州海上御通りの時、大風忽起り御坐船すてにあやうく、てん舟に召れて陸に被為掛御時、誠ニ其間髪を不入火急のあわひ成ニ、御膳番小田卯左衛門御飯桶をいたき奉付添れり、早速の働天晴に思召し、即坐に御褒美被成下とそ、

  • 2025年7月10日木曜日

    『東洋文庫の100年』平凡社、2025年刊を読む

     この本、確かに東洋学の殿堂・東洋文庫の100年の歴史を的確に紹介している。編者の巧みな構成で、硬軟織り交ぜた編集がなされており、東洋学とは無縁な一般読者にもアクセスしやすい。編者の苦労を多としたい。

    本書を高く評価する方々は多いだろうから、この場では逆に「イマイチ」の点を列挙したい。

    (1)「その他の東洋文庫の各コレクションの概略」ーーこれは紙幅の関係もあっただろうが、きわめて中身が薄く、しかも執筆者自身の能力と知識不足などで見るに堪えない低いレベルの読み物となっている。各分野の専門家に執筆を依頼すべきであった。


    (2)東洋文庫の主軸は中国学であることは、その通りである。しかし、中国の周辺にある日本学・朝鮮学・ベトナム学・モンゴル学などの周辺の地域学に関する説明もあってよかったのではないだろうか。


    (3)東洋学の一つの構成要素である朝鮮学に関する記述があまりに貧弱であり、前間恭作・鮎貝房之進・小倉進平・末松保和・武田幸男・田川孝三先生をはじめとする朝鮮学の先達たちの紹介にも紙面を割いてほしかった。担当は六反田豊君が適任。

    2025年7月8日火曜日

    古代にあったブランド米「白稲」

     福島県いわき市荒田目条里遺跡出土の木簡に、「白稲五斗」とある<参考1>。平川南氏の紹介で名が知られた古代ブランド米に関する研究であるが、その後、稲研究者によって飛躍的な展開を遂げている。

    まず第1は、「白稲」に関する科学的情報である。<参考2>をご覧いただきたくだけで、その詳細な植物情報を知る。


    第2は、西尾敏彦氏によって、平川南氏の指摘を大きく発展されていることである。古代ブランド米は出土木簡の「白稲」だけではなく、

    ①「畔越」「畦越」「あせ越」「あぜこし」

    ②「古法師」「法師子」「こぼし」

    ③「白稲」「しらしね」と4)「白早生」「しろわせ」

    ④「足張」「楢張」「縮張」「すくはり」

    ⑤「地蔵子」「ちもとこ」「ちっこ」

    等へと議論が拡大しているからである。

    詳細は、西尾敏彦の論文

    「(特別寄稿) 出土木簡からたどる水稲在来品種の1300年」日本農業研究所研究報告『農業研究』第34号(2021年)p.341~359 

    を一覧してほしい。江戸時代の農書、地方書、産物 帳など、明治以降は農商務省や各府県の品種に関する調査報告書など、西尾による丹念な調査に驚嘆する。先にも後にも西尾論文を凌駕するものに接することはないだろう。


    やはり我々は単に歴史学にのみ安住することなく、考古学・農業史・建築史・生態史・歴史地理学・鉱物学・植物学・食物学などの多方面の隣接諸学問に敬意を払い、謙虚に学ばなくてはならないと痛感する、






    **********

    <参考1>

    ■詳細

    URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK024166000013
    木簡番号17
    本文・白稲五斗○五月〈〉・○〈〉
    寸法(mm)(196)
    23
    厚さ3
    型式番号051
    出典木研24-166頁-(13)(木研17-101頁-(17))
    文字説明 
    形状下欠。
    樹種 
    木取り 
    遺跡名荒田目条里遺跡
     
    所在地福島県いわき市平菅波字礼堂
    調査主体(財)いわき市教育文化事業団
     
    発掘次数 
    遺構番号3号溝
    地区名
    内容分類付札
    国郡郷里 
    人名 
    和暦5月
    西暦5(月)
    遺構の年代観 
    木簡説明 
    DOI
    <参考2>

    植物遺伝資源の詳細

    JP番号

    9663

    植物名

    稲(水稲)

    学名

    Oryza sativa L.

    品種名

    · SHIROINE(KEMOMI)

    品種和名

    · 白稲(ケモミ)

    画像データ

    JP 9663 (種子) JP 9663 (玄米)

    原産地

    徳島

    種類区分

    在来

    取得区分

    受入

    備考

    1965年徳島県那賀郡上那賀町東尾で収集

    取寄先

    神奈川

    提供元組織

    農業生物資源研究所 遺伝資源第二部 遺伝資源管理情報科

    保存番号

    · 10583 (センターバンク)

    配布形態

    種子

    標準配布量

    50

    発芽率

    100%

    MTA

    食料・農業に関する目的の場合SMTA それ以外の場合GB-NARO MTA

    配布申込

    申込

     

    稈長

    106 (cm)

    box plot

    (茨城, 2012)

    穂長

    22.9 (cm)

    box plot

    (茨城, 2012)

    穂数

    10.2 (/個体)

    box plot

    (茨城, 2012)

    ふ先色

    黄白~黄

    box plot

    (茨城, 2012)

    籾長

    7.3 (mm)

    box plot

    (茨城, 2012)

    籾幅

    3.6 (mm)

    box plot

    (茨城, 2012)

    玄米長

    5.0 (mm)

    box plot

    (茨城, 2012)

    玄米幅

    3.1 (mm)

    box plot

    (茨城, 2012)

    うるち()・もち()の別

    box plot

    (茨城, 2012)

    出穂期

    2012/08/12

    (茨城, 2012)

    芒の有無と多少

    box plot

    (茨城, 2012)

    芒長

    box plot

    (茨城, 2012)

    芒の分布

    全体

    box plot

    (茨城, 2012)

    玄米千粒重

    22.9 (g)

    box plot

    (茨城, 2012)

    護穎の色

    黄白

    box plot

    (茨城, 2012)

    玄米の粒色

    box plot

    (茨城, 2012)

    穂揃日数

    6 ()

    box plot

    (茨城, 2012)

     

    稈長

    96 (cm)

    box plot

    (福岡, 2000)

    穂長

    19.5 (cm)

    box plot

    (福岡, 2000)

    穂数

    8.6 (/個体)

    box plot

    (福岡, 2000)

    ふ先色

    黄白~黄

    box plot

    (福岡, 2000)

    籾長

    7.8 (mm)

    box plot

    (福岡, 2000)

    籾幅

    3.7 (mm)

    box plot

    (福岡, 2000)

    玄米長

    5.3 (mm)

    box plot

    (福岡, 2000)

    玄米幅

    3.0 (mm)

    box plot

    (福岡, 2000)

    うるち()・もち()の別

    box plot

    (福岡, 2000)

    出穂期

    08/28

    (福岡, 2000)

    穎色

    黄白

    box plot

    (福岡, 2000)

    芒の有無と多少

    box plot

    (福岡, 2000)

    芒長

    極長

    box plot

    (福岡, 2000)

     

    稈長

    89 (cm)

    box plot

    (新潟, 1976)

    穂長

    19.0 (cm)

    box plot

    (新潟, 1976)

    穂数

    7.0 (/個体)

    box plot

    (新潟, 1976)

    籾長

    6.4 (mm)

    box plot

    (新潟, 1976)

    籾幅

    3.2 (mm)

    box plot

    (新潟, 1976)

    うるち()・もち()の別

    box plot

    (新潟, 1976)

    出穂期

    08/22

    (新潟, 1976)

    草型

    中間

    box plot

    (新潟, 1976)

    稈の細太

    や細

    box plot

    (新潟, 1976)

    葉身毛茸の有無と多少

    box plot

    (新潟, 1976)

    止葉の直立性

    box plot

    (新潟, 1976)

    葉身の色

    濃緑

    box plot

    (新潟, 1976)

    粒着密度

    46.0 ()

    box plot

    (新潟, 1976)

    穎毛の有無と多少

    box plot

    (新潟, 1976)

    玄米の粒色

    box plot

    (新潟, 1976)

    葉いもち圃場抵抗性

    box plot

    (新潟, 1976)

    白葉枯病抵抗性品種群別

    1

    box plot

    (新潟, 1976)

    紋枯病抵抗性

    box plot

    (新潟, 1976)

    脱粒性

    box plot

    (新潟, 1976)

    玄米品質

    中中

    box plot

    (新潟, 1976)

    腹白の多少

    極少

    box plot

    (新潟, 1976)

    心白の多少

    box plot

    (新潟, 1976)