2016年9月15日木曜日

仁川引き揚げ史(1945年8月)

14 8月15日正午に重大放送があると予告。    
15 玉音放送    
17 午後3時頃、朝鮮総督府水田財務局長談話 日本人の預金は、郵便局に預金するか、日本に送金すべし 朝鮮人は街頭に集合、独立万歳を連呼しつつ、狂喜乱舞する。
午後4時、仁川神社ご神体を処分    
朝鮮人治安自治会設立 自治会長は、金容圭氏(府会議員、西京町会長)  
21 朝鮮軍司令部の命により、引揚準備を開始    
仁川日本人会組織準備委員会発議(仁川神社) 「さて主導者としての構想は、招来の居留民会を前提として、残留を希望するものを中心として組織される日本人会でなければならぬということである。則ち単に引揚をのみ目標とする組織でなかった。あくまで踏止まる人々を対象としていた」(210頁)。その基本方針は、「1,我等は前途と再建設あるのみ、後退を欲せず。2,我等は祖国の復興と興隆のため、海外の第一線に踏み留まる。3,残留することにより、祖国民の苦痛を少しでも緩和し得る」(210頁)  
22 仁川府庁による内地引揚輸送計画書および釜山丸引揚計画発表 要綱の①「内地人はなるべき在鮮し、新政府の育成に協力すべきこと」  
23 海上航行禁止令が米軍により発布    
25 仁川日本人会組織準備委員会発足    
26 仁川日本人世話会設立(会長は、加藤平太郎朝鮮精米社長) 終戦直後、引揚希望者と残留決心者が出来た。出会う毎に交わす挨拶は、『帰りますか』と言う言葉であった。引揚者の関心点は、一体いつ帰れるのか、一日でも居りたくないというのが、其の絶対的な心理であった。雄々しくも踏み留まろうと決心する残留希望者達は、果たして残留が可能であるという見通しはないが、ただ常識的に、海外の居留民として一組織のもとに生活が出来ると想像するのみである。この異なった両者の気持ちや行方には、大きな開きが出来たのでは当然である。処が世話人会の幹部は殆どが残留決心者であったので、世話人会の使命は、来るべき居留地建設にあるとして、この構想のもとに世話人会の運営がなされねばならなぬとした。引揚者の荷物、預託事務、不動産売買事務、日本人財産管理等は皆その道程であって、総合病院の開設、小学校の設置と授業開始等はこの構想の実現の一つであって、居留民団組織の前提とした。」(232-234頁)  
28 仁川府会議員懇談会開催    

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