2023年6月30日金曜日

百済の「難波」に関するエッセイ

 法隆寺五重塔初層天井組木には墨書がある。奈尓波都尓佐久夜己」とあり、万葉仮名で書かれていると推定されている(森岡隆「法隆寺五重塔初層天井組木落書」(書学書道史学会編『日本・中国・朝鮮 書道史年表事典』、萱原書房、2005年など)

これに類した漢字群は徳島市国府町の観音寺遺跡から出土し木簡にも「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」とあり(徳島県立埋蔵文化財センター編『徳島県立埋蔵文化財センター調査報告書』第40集、「観音寺遺跡1)観音寺遺跡木簡編)2002年、徳島県教育委員会69号木簡)、また別な場所から発見された木簡からも「……奈尓波津尓佐久夜己乃波奈……」(『飛鳥・藤原宮発掘調査出土木簡概報16』2002年、103号木簡。藤原京左京七條1坊西南の池状遺構SG501出土)とあり、また「……奈尓波津尓佐久夜己乃波奈……」(『飛鳥・藤原宮発掘調査出土木簡概報17』2003年、36号木簡。石神遺跡第15次調査、東西溝SD4089出土)とある。徳島だけでなく、奈良以外の地である姫路の辻井遺跡でも発見された「□□□□尓佐久□□乃□□」(姫路市史編集専門委員会編『姫路市史第8巻資料編』2005年)がある。

これらの一連の文字群は、『古今和歌集』〈905年)仮名序に載る「難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べち咲くやこの花」の一部だと想定してよいだろう。すでに周知の事実であるが、この歌は「手習ふ人の初めにもしける」とあるように書道の初学者用の歌であったらしい。


今、ここで検討したいのは、韓国扶余郡扶余邑双北里遺跡から出土した木簡「那尓波連公」である。この情報は、平川南氏の論文「百済の都出土の「連公」木簡」から入手したものだが、平川氏も指摘するように木簡の「尓波」は、『日本書紀』欽明天皇23年7月条の歌に「尓婆」とあるので、「難波」だと考えて大過ないだろう。

つまり、万葉仮名の音価は「那=奈」であり、「波=婆」であるので、平川氏の推測を裏付ける。私も平川説を支持したい。

2023年6月28日水曜日

百済宮とは

 舒明12年に百済宮が飛鳥に定められたとある。

本稿の狙いは、なぜ舒明天皇が「百済宮」を造営したかにある。

この「百済宮」に言及する前に、 敏達天皇の百済大井宮・譯語田幸玉宮に言及しておきたい。欽明天皇死亡後に、敏達天皇は即位〈572〉するとすぐに百済の大井に都を定めた。そのご、敏達4年(575)4月に譯語田幸玉宮に遷宮した。

 まず、この百済大井宮に関しては、河内国錦部郡百済郷(大阪府河内長野市大井)や奈良県北葛城郡広陵町百済などに比定されてきた。しかし和田梓らの研究で、現在では奈良県桜井市吉備であると意見が一致している。

 さて、「百済宮」。その時に思い起こすのは、舒明天皇が敏達天皇の孫であることである。

舒明8年6月に飛鳥岡本宮が焼失したの で、田中宮(橿原市田中町付近)に遷宮し、舒明11 年〈639〉7月に百済川の辺を宮と定め、百済宮と百済大寺(奈良県北葛城郡広陵町大字百済1411-2)を造営。そして、舒明12年〈640〉10月に竣工された百済宮に遷宮し、さらに13年〈641〉10月に百済宮で崩御した。


舒明十二年春二月戊辰朔甲戌、星、入月。夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫、便居廐坂宮。五月丁酉朔辛丑、大設齋、因以請惠隱僧令說無量壽經。冬十月乙丑朔乙亥、大唐學問僧淸安・學生高向漢人玄理、傳新羅而至之、仍百濟・新羅朝貢之使共從來之、則各賜爵一級。是月、徙於百濟宮。

十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。是時、東宮開別皇子、年十六而誄之。

 今では、1997年に吉備池の堤防から7世紀半ばの巨大な寺院金堂跡と見られる基壇が出土したことで、この吉備池廃寺が百済大寺跡に当てる説が浮上した。

百済大寺歴史年表

百済大寺関連年表 (plala.or.jp)


さて、我々の関心である「百済宮」に、つまり百済からの渡来人が多数居住する地域「百済」に宮殿を造営したかである。同月に、「百濟・新羅朝貢之使」も飛鳥を来訪している。とすれば、百済宮は完成寸前か、完成後に「百済・新羅朝貢之使」が訪問していることを思い浮かべると、舒明天皇が満面の笑みを以て新宮殿を案内する姿に思い至る。ましてや百済宮に近接して、塔自体も高さ80〜90mと推定されるその九重塔に近い規模を誇る百済大寺が聳えるわけであり、「百済・新羅朝貢之使」一行もその威容に驚いたことだろう。




参考情報

参考情報

吉備池廃寺跡は,大和三山のひとつ,香具山の北東約1km,桜井市吉備に所在する古代寺院跡である。この地には,江戸時代に造成された農業用溜池である吉備池があるが,その東南隅と南辺の堤に重複して2つの大きな土壇が存在し,瓦片が散布することが知られていた。その性格については瓦窯説と寺院説があったが,池の護岸工事が計画されたことから,平成9年に桜井市教育委員会と奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)飛鳥藤原宮跡発掘調査部が池東南隅の土壇の発掘調査を行った結果,巨大な金堂基壇の存在が明らかになった。その後,奈良国立文化財研究所による中心伽藍の調査,桜井市教育委員会による周辺部の調査により,伽藍の様子が明らかにされてきた。
 中心伽藍は,東に金堂,西に塔を置き,両者を回廊が囲み,中門は金堂の正面に位置するという特殊な配置をとる。金堂基壇は東西37m,南北28m,高さ2m以上,塔基壇は1辺30mの正方形で,高さ約2.8mと推定される。この両者は,いずれも,飛鳥時代の古代寺院の中では隔絶した規模をほこるが,特に塔の基壇は,文武朝に建立された大官大寺のものに匹敵することから、塔自体も高さ80〜90mと推定されるその九重塔に近い規模であったと考えられる。伽藍の北部には大型の掘立柱建物が列をなして並び,僧坊跡と推定されている。さらに,中門の南約40mの地点からは,寺域の南面を画すると考えられる16mの間隔をおいて平行する東西溝2条および,南大門と考えられる建物跡も検出された。出土した瓦から見て,創建時期は7世紀前半頃と考えられるが,伽藍規模に比較して瓦の出土量が少なく、基…



参考情報
明日香の諸宮(国土交通省)


2023年6月27日火曜日

ソウルにある韓国国立博物館所蔵 日本近代美術品

   日本画 所蔵一覧   National Museum of Korea



<参考論文>

韓国国立中央博物館蔵日本近代美 術コレクション研究( Abstract_要 旨 ) 柳, 承珍 柳, 承珍. 韓国国立中央博物館蔵日本近代美術コレクション研究. 京都大 学, 2018, 博士(文学) 2018-11-26 https://doi.org/10.14989/doctor.k21405 学位規則第9条第2項
「現在国立中央博物館は、日本画93点、 西洋画(版画を含む)41点、そして彫刻・工芸品の64点を収蔵するが、これに関 する諸情報は、2001年に刊行された『国立中央博物館所蔵日本近代美術 日本画 編』(以下、韓国語)、2010年の『国立中央博物館所蔵日本近代美術 西洋画 編』、そして2014年刊行の『国立中央博物館所蔵日本近代美術 彫刻・工芸編』 に収録」

2023年6月23日金曜日

朝鮮に流入した新井白石の「白石詩草」


 「朝鮮の使者、君(新井白石、君山)の詩草を得て甚だ驚異、争って数十部を購ひ、携へてその国に帰る」


これは天和3度の朝鮮通信使一行のエピソードである。

その一冊が崔昌大宅に架蔵されていたとは有名な話。

朝鮮王朝時代、湖南の3名族

 朝鮮王朝時代、湖南の3名族は

1,魯城の尹氏

2,懐徳の宋氏

3,連山の金氏


今、『日鮮史話』第2編にしたがって、説明をすれば、次のようになる。

懐徳宋氏はもともと恩津宋氏であった。李栗谷門下であった宋爾昌の長子として生誕したのが宋浚吉。

2023年6月11日日曜日

榎健斎が朝鮮から持ち帰った品々

榎健斎は宇喜多秀家の家臣で、医家。

その健斎の5世孫の妹が井上蘭台と縁戚、その関係で、榎氏五世の祖健斎が壬辰の役で朝鮮に渡海し、朝鮮から将来したのは朝鮮本(皇朝名臣言行録・東垣十種・医家秘伝・加減十三方・性理字義)と什具(渾天儀・屏風・銅鐺)、筆蹟類。

2023年6月10日土曜日

鎌倉へ向かう竹崎季長が赤間の関で出会った長門守護代三井資平

 「蒙古襲来絵詞」を見ると、鎌倉へ向かう竹崎季長は赤間の関で長門守護代三井資平(季長の烏帽子親)と出会う。その資平の傍らは遊女が侍っている。

 赤間の関の遊女と言えば、源平合戦で敗北した平家方の女性が落魄したという。今、資平の傍らの遊女は、

*赤間の関稲荷町に存在した遊里の女性

であったと推測したい。

長門国赤間の関-伊藤家と佐甲家

 赤間の関には、阿弥陀寺町にあった伊藤家「東の本陣」と西南部町にあった佐甲家「西の本陣」は存立した。室町時代以来両家は赤間関の指導者であった。それだけに両家は対立的補完関係にあった。

 例えば、本陣伊藤家は対馬藩主宗氏や柳川藩主立花氏、平戸藩主松浦氏、熊本藩主細川氏、中津藩主奥平氏、岡藩主中川氏、松江藩松平氏などとの深い縁を持っていた。

 一方、佐甲家は薩摩藩島津氏、福岡藩黒田氏、加賀藩などとの縁を有していた。

 家業に関しては、伊藤家は日本に北ルートで来航した唐船(朝鮮船・中国船)から交易品を購入したのに対して、佐甲家は中国南部や東南アジアから南ルートで来航した船舶から交易品を買い付けた。それだけに佐甲家は赤間の関における日明貿易の拠点でもあった永福寺を檀那寺とした。

 なお、朝鮮通信使が来日時に伊藤家当主は赤間関迎接の4、5か月前から厳原を訪問し、事前打ち合わせを行っている。文化8年度(1811)には幕府からの使者であった小倉藩主小笠原忠固(上使)、辰野藩主脇坂安董(副使)らの対馬までの道案内役を務めた。

 

2023年6月9日金曜日

耽羅島人の来着

 

『周防国正税帳』天平10年(738)1021日条」(『大日本古記録2』所収)に、平城京への途次にある21人の「耽羅嶋人」に4日分の食料(稲・酒・塩)を、そして彼ら耽羅嶋人を引率する部領使「長門国豊浦郡擬大領正8位下額田部直広麻呂」らに対して往来8日分の食料を支給したとある。

2023年6月5日月曜日

平秩東作と蝦夷

 函館市史 銭亀沢編

(宇賀昆布)

また、同じ時期に蝦夷地を訪れた平秩東作(江戸の狂歌師・戯作者)が天明四(一七八四)年に「東遊記」(『北門叢書
戸井町史([昆布漁])

(7)天明七年(一七八七)平秩東作の書いた『東遊記』に    「昆布の事    前に述べた鮭、鰊の
恵山町史(4、江戸時代の昆布漁)

一七八三年(天明三)来遊した平秩東作(へづつとうさく)も『東遊記録(北門叢書三五五P)』に「箱館辺の浦
戸井町史([戸井の地名考])

の名は、「松前志」に「ウカカワ」、『ひろめかり』に「運荷川」、『松前国中記』に「ウンカ川」と書かれ、平秩東作

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平秩東作「東遊記」の昆布情報および関連資料 第3回レジュメ№2

2 平秩東作「東遊記」の昆布情報および関連資料

平秩東作(享保11(1726)~寛政元(1789)年)稲毛屋金右衛門として新宿で馬宿(駅伝・伝馬(てんま)に用いる馬を用意しておく所。)経営。狂歌師、戯作者

天明3(1783)年8月5日江戸を出て、三厩経由で9月19日松前着、10月1日江差に入る、「うらなき友」村上弥惣兵衛方へ、翌年4月まで滞在。

*天明3年は天明の大飢饉の初年度。                                                      「

東遊記」の記述

松前 江差 箱館の港の様子

松前の外に江差、箱館とて両所の港有。西国、北国の海舶爰に輻、繁栄地に越えたり。松前より江差へ18里、箱館へ26里有、港口の便よき箱館を第一とす、江差是へ次ぐ、松前は港に非ず、府城也。よりて自ら輻輳の所となれり。松前の湊に弁天島と申て小き島有、樹木なく民屋なく、弁財天女の廟有。

松前は海風強く吹て雪積もらず、風は江差にては山背風とて、東風吹き入り渓獵なく箱館は湊よく何れの風吹くとも害なくかかり、船もいたむる事なく、松前は折々船に破損有。江差も弁天島湊に近く船かかりよしといへ共、西風には懸り船損ずる事有。北国、西国への通路は江差湊よし。

(「北門叢書」第2冊p321)

松前蝦夷地産物                                                                     

鮭 (「北門叢書」第2冊p349-351)

松前蝦夷地産物至って多しといえども、就中多きものは鮭を第一とす。大船数十艘年々イシカリの川へ上りて、鮭を取。其外川有皆鮭の猟をなすといえども、取り尽くすいふ事なし。すたりたるは乾鮭となす。又金高の多きは鯡漁にしくはなし。此のふたつの猟にて此地の人、飲食、衣服に余裕といふ。これによりて其外の国益はかどり難し。

(「北門叢書」第2冊p351-354)

鯡は他国の鰊と唱る魚也。此所にてはニシンと呼び、鯡の字を用ゆ。子は数の子と称して国々に残らず行渡り、外に白子といふもの有。田畑の養のなる。

昆布(「北門叢書」第2冊p354-356)

昆布の事、前の両品に続きて此地に多く出づ。箱館辺の浦より出もの上品也。松前、江差より出もの下品也。志野利浜の昆布は上品にはあらざれども、長崎の俵物にて、異国人懇望する故金高也庭訓の往来に雲加の昆布といへるは東方雲加といへる所より出る。

此物大坂表へ積上て、夫より諸国へ廻る。献上にもなると云り。此地にては何事にも昆布に煮出しを用ひて塩梅を調ふ。煮出しに遺ひたるものをば道に捨る。今年は凶年故さらして食事の糧に用ゆ。南部、津軽より出る昆布は薄くして、当所にくらぶれば、九牛の一毛也。

きゅうぎゅう-の-いちもう【九牛の一毛】:「デジタル大辞泉」≪「漢書」司馬遷伝から。多くの牛の中の1本の毛の意≫多数の中のごく一部分。取るに足りないこと。

此所の昆布長きもの十五間ほど有も有。食用に用ゆるには蒸昆布風味至ってよろし。然れども極上品にあらざれば製し難しと云。焼こんぶ是に次ぐ、焼に上手下手あり。先年上手の老女有て、領主参勤の時は江戸へ持玉ふ昆布を焼たり。江戸まで持来ても湿る事なかりしや。煮たる昆布は風味焼昆布より劣れり。然れども彼地の昆布巻などは、味ひ甚だ美なるもの也。

注 「北門叢書」第2冊大友喜作編 収録(板倉源次郎著「北海随筆」、松前広長著「松前志」、平秩東作著「東遊記」)

北門叢書 全6冊 大友喜作編 国書刊行会/昭47 第一冊 「赤蝦夷風説考」「蝦夷拾遺」「蝦夷草紙」 ▲第二冊 「北海随筆」「松前志」「東遊記」 ▲第三冊 「北地萬談」「北地危言」「えぞ草紙後編」▲第四冊 「環海異聞」 ▲第五冊「北夷談」「北蝦夷図説」「東蝦夷夜話」 ▲第六冊 「北槎異聞」「北辺探事」  ▲北辺旧記の解読校注及び解説書


2023年6月2日金曜日

大田南畝の旧居は新宿区

 大田南畝の旧居は

☆新宿区牛込北町41番地


その場所に、硯友社があり、紅葉が住んでいたとは、偶然か。


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椿|田山花袋

文学と神楽坂


 読賣よみうり新聞しんぶんで、露伴ろはんの『ひげをとこ』と紅葉こうえふの『伽羅きやらまくら』とを同時どうじ掲載けいさいする計畫けうくわくてたのは、あれはたしか二十三ねん春頃はるごろだつたとおもう。りやう花形はながたうでくらべをするといふので、それは非常ひじやう評判ひやうばんであつた。何方どちらうまいか、何方どちら成功せいこうするか、かうしたこゑいたところきこえた。わたしなども、まちかどおほきくてゐる看板かんばんて、その名聲めいせいにあこがれたまづしい文學ぶんがく書生しよせいの一にんであつた。
 紅葉こうえふは『伽羅きやらまくら』を牛込うしごめ北町きたまちうちいた。太田おほた南畝なんぼ屋敷やしきなかだとかいふおくまつたちひさなうちで、うらにはおほきなかしかさのやうになつてしげつてゐた。八でふまへにはには、木戸きどがついてゐて、そこから、硯友社けんいうしや人達ひとたちは『るかい』などとつてはひつてた。
 北町きたまちとほりわたしその時分じぶんよくとほつた。そのちひさなもんに、尾崎をざきいた表札へうさつがかけてあつて、郵便箱いうびんばこには硯友社けんいうしやいてあつたのをいまでもはつきりと記憶きおくしてゐる。やがて讀賣よみうりふたつのさくは、何方どちら人達ひとたちこゝろいた。『ひげをとこ』はこと評判ひやうばんがよかつた。『流石さすが露伴ろはんだ!』といふこゑ彼方此方あつちこつちからきこえた。それにもかゝはらず、露伴ろはんは五六くわいふでつて、瓢然へうぜんとして、赤城あかぎ山中さんちうかくれた。『伽羅きやらまくら』は百くわいぢかつゞいた。