また、同じ時期に蝦夷地を訪れた平秩東作(江戸の狂歌師・戯作者)が天明四(一七八四)年に「東遊記」(『北門叢書
(7)天明七年(一七八七)平秩東作の書いた『東遊記』に 「昆布の事 前に述べた鮭、鰊の
一七八三年(天明三)来遊した平秩東作(へづつとうさく)も『東遊記録(北門叢書三五五P)』に「箱館辺の浦
の名は、「松前志」に「ウカカワ」、『ひろめかり』に「運荷川」、『松前国中記』に「ウンカ川」と書かれ、平秩東作
2 平秩東作「東遊記」の昆布情報および関連資料
平秩東作(享保11(1726)~寛政元(1789)年)稲毛屋金右衛門として新宿で馬宿(駅伝・伝馬(てんま)に用いる馬を用意しておく所。)経営。狂歌師、戯作者
天明3(1783)年8月5日江戸を出て、三厩経由で9月19日松前着、10月1日江差に入る、「うらなき友」村上弥惣兵衛方へ、翌年4月まで滞在。
*天明3年は天明の大飢饉の初年度。 「
東遊記」の記述
松前 江差 箱館の港の様子
松前の外に江差、箱館とて両所の港有。西国、北国の海舶爰に輻、繁栄地に越えたり。松前より江差へ18里、箱館へ26里有、港口の便よき箱館を第一とす、江差是へ次ぐ、松前は港に非ず、府城也。よりて自ら輻輳の所となれり。松前の湊に弁天島と申て小き島有、樹木なく民屋なく、弁財天女の廟有。
松前は海風強く吹て雪積もらず、風は江差にては山背風とて、東風吹き入り渓獵なく箱館は湊よく何れの風吹くとも害なくかかり、船もいたむる事なく、松前は折々船に破損有。江差も弁天島湊に近く船かかりよしといへ共、西風には懸り船損ずる事有。北国、西国への通路は江差湊よし。
(「北門叢書」第2冊p321)
松前蝦夷地産物
鮭 (「北門叢書」第2冊p349-351)
松前蝦夷地産物至って多しといえども、就中多きものは鮭を第一とす。大船数十艘年々イシカリの川へ上りて、鮭を取。其外川有皆鮭の猟をなすといえども、取り尽くすいふ事なし。すたりたるは乾鮭となす。又金高の多きは鯡漁にしくはなし。此のふたつの猟にて此地の人、飲食、衣服に余裕といふ。これによりて其外の国益はかどり難し。
鯡(「北門叢書」第2冊p351-354)
鯡は他国の鰊と唱る魚也。此所にてはニシンと呼び、鯡の字を用ゆ。子は数の子と称して国々に残らず行渡り、外に白子といふもの有。田畑の養のなる。
昆布(「北門叢書」第2冊p354-356)
昆布の事、前の両品に続きて此地に多く出づ。箱館辺の浦より出もの上品也。松前、江差より出もの下品也。志野利浜の昆布は上品にはあらざれども、長崎の俵物にて、異国人懇望する故金高也。庭訓の往来に雲加の昆布といへるは東方雲加といへる所より出る。
此物大坂表へ積上て、夫より諸国へ廻る。献上にもなると云り。此地にては何事にも昆布に煮出しを用ひて塩梅を調ふ。煮出しに遺ひたるものをば道に捨る。今年は凶年故さらして食事の糧に用ゆ。南部、津軽より出る昆布は薄くして、当所にくらぶれば、九牛の一毛也。
*きゅうぎゅう-の-いちもう【九牛の一毛】:「デジタル大辞泉」≪「漢書」司馬遷伝から。多くの牛の中の1本の毛の意≫多数の中のごく一部分。取るに足りないこと。
此所の昆布長きもの十五間ほど有も有。食用に用ゆるには蒸昆布風味至ってよろし。然れども極上品にあらざれば製し難しと云。焼こんぶ是に次ぐ、焼に上手下手あり。先年上手の老女有て、領主参勤の時は江戸へ持玉ふ昆布を焼たり。江戸まで持来ても湿る事なかりしや。煮たる昆布は風味焼昆布より劣れり。然れども彼地の昆布巻などは、味ひ甚だ美なるもの也。
*注 「北門叢書」第2冊大友喜作編 収録(板倉源次郎著「北海随筆」、松前広長著「松前志」、平秩東作著「東遊記」)
北門叢書 全6冊 大友喜作編 国書刊行会/昭47 第一冊 「赤蝦夷風説考」「蝦夷拾遺」「蝦夷草紙」 ▲第二冊 「北海随筆」「松前志」「東遊記」 ▲第三冊 「北地萬談」「北地危言」「えぞ草紙後編」▲第四冊 「環海異聞」 ▲第五冊「北夷談」「北蝦夷図説」「東蝦夷夜話」 ▲第六冊 「北槎異聞」「北辺探事」 ▲北辺旧記の解読校注及び解説書
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